わたしの居場所

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孫たちに手をかけてあげたいなあ、と思って。そのためにも元気でいなきゃだめだぁって
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 門崎タツさん, Interviewer: 古澤杏奈
Language
Japanese
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Japanese Title
わたしの居場所
Japanese Description

吉里吉里は人の温かさが魅力

門崎(もんさき)タツです。生年月日は昭和14年の8月16日です。72歳。吉里吉里生まれの吉里吉里育ちですのでね、うちのお父さんもそうです。家族構成はわたし夫婦、あと、息子夫婦…はい、同居だったからあ。あと、わたしの娘もいます。あと孫が2人。息子の年齢はちょうど40くらい。娘はね、45で独身です。孫はね、4年生と2年生。女の子です。孫は息子夫婦の子供。お嫁さんもね、とても吉里吉里の好きな方だったので、お父さんは来られなくてもね、お嫁さんは子供たちを連れて毎年2回ずつね、来てきてだったんです。息子がいなくても。そのくらいね、こう、なんて言うんだろう、吉里吉里を好きでね。孫たちも喜んでそうしてだったから、じゃあ1年生に入るとき、こっちのほうに来たほうがいいんじゃない、って言って。

わたしから見てもほんとに、住み心地がいいっていうのか。ほんとに、みんなが。まあ、お友達も身近なところでやさしい人が。

海の男を支えてきた

旦那、お父さんは、長い間もう何か月も漁師、船乗りだったんです。結婚したのは38です。同級生です、はい。吉里吉里生まれの吉里吉里育ちで、お互いに。

やっぱりね、何か月も…3か月か6か月っていうときもあったから、いないのが当たり前のようなね、わたしたちの生活だったんです(笑)。ほんとに。こっちに来て、長いほうで10日いて、けど、またすぐ行くんです、海のほうに。

ここにいる生活、ここで働いてくれるのがいいなあ、とは思ってだったけども、やっぱり若いときからマグロ船に乗ってだったから。わたしだけじゃないから。けっこうの吉里吉里の人たちが、このマグロ船に乗ってだったからね。そで、東京、焼津方面に入港するんです。だから年に2回ぐらいは、わたしのほうから東京に。子供のちっさいときは子供も連れて。計画は全然してないんだけども、帰ってきてから、即、行こっかあ、とかって、温泉とかに行ったんです。子供たちも小さいからね、もう、喜んで行ったっだっけども。

お父さん、やっぱり海のねえ、荒波をあれしてあるった人だから、気が…なんていうかね、やさしいところもあるんだけども、気が強いっていうか、厳しい、っていうのか。前はうちにいるのが何日でもなく、もう、すぐに沖に出ていかなければないような状態だったから、あんまり感じなかったんだけども、いま思えばね、やっぱり海の男だなあ、って。それが今、こう、ちょっと…出るようになっちゃって(笑)。

お父さんは、子供たちに何か月も会えないから、やっぱり来ればね、子供たちの好きなものを何でも即、買ってくれるような状態でねえ、うーん。ちょっと、あんまりねえ、好きなものを与えてってことはダメなんでないの、って思うあれだったけど、お父さんがやりたいって言うの、ダメだよって言うのは…。

おばあちゃんっこの孫を育てながら

若いときはね、加工組合、魚をいろいろ加工する場所で働いて。みんな、たいていのお母さんたち働いてだったんです。わたしのとこにおばあちゃんがいだったから、子供たちの学校の帰りも面倒見てくれたりしてね。いまはわたしがそれをやってます。

この前初めて1泊の旅行に行きました。このへんだけども、盛岡方面の、小岩井の温泉とか、家族で。親戚の人も入れて8人で行ってきました。孫たちとそうして行ったのは初めてです。こっちに来て4年になるんだけど、なかなか、どこにも行けなかったけども…。楽しいって、子供たち。また行きたいって。うん。また来週も行こう、ばあちゃん、って言って、ねえ。簡単にそう言ってるんだけどね、初めてだったから喜んで。雪が降んないうちにまた一緒に行こうねえって。仮設がね、別々なんです。孫たちは今は息子たちと。わたしはおじいちゃんと娘で3人で。

まずねえ、子供たちが気に入ったみたいでね。うふふ。そんなにそんなにね、みんなが必ずそろうってことは、なかなかね。お父さんお母さんの休みも考えなきゃないし。

小さいときからずっと好きなこと

わたしが小さいときはおはじき、お手玉。あとは、今だったらちゃんと着せ替え人形があるんだけど、お人形も作ってね、中の綿を入れてね、それにお洋服作ったり、あとは着物作ったりでね。着物なんかも作って着せるんです。髪は、ばあちゃんたちの裁縫箱から、糸とか毛糸とか、そんなのをもらったりしてね、作って、遊んで、学校に行って。おはじきとかお手玉は学校でもやりました、休み時間になるとね。で、遅れて入って先生に怒られたり、あはは。けっこうね、楽しい遊びだったんですよねえ。

お裁縫、編み物は大好きでね、やりました、けっこう。子供たちがちっちゃいときも、もう、手作りで作ってね。あとは、いまは孫たちのを。津波で全部道具流されちゃったけど、お店を1軒見つけてね。そっから編み棒とか編み針とか、そんなのも徐々に準備して、身近なところで小さいもの編んだりしてね。ただいるのも、なんかあれだから、そうしています、いま。

あのね、わたしの母親も、わたしたちが学校に入るとき、冬寒くなれば毛糸で編んでくれたり。服も、セーターなんかに襟をつけたりしてね。習いもしないんだけどね、やっぱ昔の人は考えて上手に作って。ズボンも毛糸で編んで履かせたりしてね。やっぱそんな影響あると思います、今考えると。

高校終わってからは、わたしも文化学園っていうところに入って、2年間、洋裁の勉強をしたんです。終わってからね、今度編み物の学校。編み物は1年じゃなかったけども、少しの基礎だけを勉強して。やっぱりねえ、その、何かを作るのが、いい。なんっかねえ、やっぱり好きだったんだねえ。

着物の、お人形さんに着せるのもね、やっぱり、わからないば、そこちょっと縫ってもらったりなんかしてね。今も、毎日ってねえ、まあ…。時間的には、なんぼもやらないんだけどもね、お花を置くところを編んだりして。小さいものしかできないんです、今は毛糸もないから。あとは座イスのカバーを編んだりね、モチーフ編んでからつないだりして。そんなのんだけ、やってます。ただいると、ボケて、なんか…(笑)。

孫たちの持ってきたぬいぐるみのチョッキを、今作ったりしてね。着せとくとね、学校ば帰るとさ、「え! ばあちゃん、今日こんな色の服作ったの?」とかってね。うちからね、「あんたたちのうちから、着てなかったぬいぐるみあったら持ってきてね」って。持ってくるんです、ひとつ。今日はこれに着せててね、とか。 喜んでます、はい。

勤めもね、そういう感じでっては思ったんだけども、やっぱりうちが忙しいので、そっちを手伝わねばね…。悩みましたけどもね、やっぱり勉強だけしたけども、勤めることもなく。

お母さんへの想いと助かった命~震災当日~

おばあちゃん(門崎さんのお母さん)だけ…。おばあちゃんは、寝たきりではないけどね、元気で。ひとりでご飯も食べるし。座ってね。地震があったとき、そっから避難させて安全だと思ったんです。ちょうど駅の真下がおばあちゃんの実家なんです。そこで避難させたとこの、おばあちゃんの実家の家族もみんな、亡くなった…。それからおばあちゃん避難させたから、わたしら娘も、うちから走ってそこに行って、わたしたちも流されたの、そこで、娘と2人一緒に。だけども、そこでね、5人亡くなって、2人、わたしと娘が助かった。

ようやくね、わたしたちの助けてーっていう声が届いて、ほで、窓からねぇ、「大丈夫ですかー、ここまで来れますかー」って声かけられたので、わたしたち気づいたので。それまではもう、水を飲んだりなんかして、すっかり、まあ、あれして。水が引いてからだから、何時にそこ出たかも分かんないけども…。助けられて上がって、連れてきられたのが堤保育園だった、うん。そこさ連れてこられて、そのときも、もうばあちゃんはだめだ、っていうのはもう、分かっだったかね…。

それから今度は、避難場所が小学校だったから、そこに移されて、着替えをわたしたちに着せて、もうずぶぬれのままで。雪が降ってきてねぇ。ちょうど、そのときは雪降りだったんです。寒くてねえ。電気はないし。そして一晩、堤保育園ってところで、娘と2人、お世話になってね。

で、わたしがケガをしだったんですよ。出るときケガをしたかね、あの、スネ。この足にケガをして。小学校の避難所に看護師さんたちがいるから、じゃあ次の日はそっちに行ったほうがいいですよ、って。歩けますかって言われて、大丈夫、歩けるから、って。そこで孫たちと会ったの、初めて。ほで、お父さんも、わたしたちが助かんないと思ってたからびっくりしてね、わたしたちがいたので。息子も一晩じゅう探したんだって。うん、運よく命は助かって。で、孫たちもそこにいて。

一生の感謝

盛岡の、紫波っていうところからね、バスが迎えさ来るって、避難所に。だけども、おばあちゃんも亡くなったばっかだから、うちのお父さんもここに残りたい、紫波まで行きたくないって、わたしも同じ気持ちなんだけども。孫たちの食べるものから、着替えもないし…。

紫波に行って、テーブルにおにぎりとか、豚汁とか、あったかいの用意してくれたんです。みんな涙を流しながら飲みました。9時になったら温泉。9日目でようやく。足ケガしてたけど、ビニール袋でこう覆って。

「ご飯だけは、米だけはいっぱいあるから、ずっと、ずっと何日でもここにいてください」って言ってくれたんです、紫波の人たちが。紫波の小学校と吉里吉里小は30年の交流があったんです。何日かして、わたしたちで朝食を作ったんです。「食べたい食事があるだろうから」って言われて。娘も、わたしも。ドレッシングをね、急きょ作ることになったんです。醤油、お酢、砂糖、醤油だけじゃねえ、あれだから。混ぜて、白菜のおひたしに。それを紫波の人も食べて。その後、教えてって聞いてきました。吉里吉里ドレッシングって呼ばれてねぇ。おいしい?って聞いたら、おいしいって! よかった。1食でも、がんばって作って。

ずっといたかったけど…子供たちの小学校が始まるから。みんなに優しくしていただいた。生徒も先生も涙で…。みんなで登校して、お友達もいっぱいできて。お母さんにもいろいろいただいたの。

小2の子が熱出した時も、一晩中ついててくれたり、わたしの足の病院にも連れてってくれて。みんなに優しくされて、本当に助かりました。感謝です。みんなの優しさですね…。あったかい布団に食べ物…。一生の感謝です。

孫は手紙のやり取りしてるみたいねえ、紫波の友達と。わたしも書きたいんだけども、なかなか書けなくて…。人間の優しさっていうのが、目に見えました。孫たちとも、忘れないように、「紫波に行ったとき、ああだったがねえー」って。日本中の人たちからお世話になりました。みんなに感謝の気持ちで…。

願いはやっぱり

まずね、家族が一緒に、生活が…できるようにね…。いま同じ吉里吉里にいるんだけども、広いところでねえ。また、うちが造れる場所…。どこに…もう、造れるんだか、全然いまのところ見通しがないって。流された場所にはもうダメ、っていう…。どのへんまでダメなんだか。もとの自分の場所にはもう、うちは建てれないし、これからも指示を待たなきゃないのかなあって、わたしたち、この頃、言ってます。遠くのほうには出て行きたくないしねえ、もとの吉里吉里がいいねぇって、どのへんまで建てられるのかなぁ、って。

昨日もね、その話したん。いつになったらまたおんなじところに建てれるべがねえ、って、うん。やっぱり吉里吉里でずっと、ねえ。生まれ育ったところだから。みんなもそう思ってると思うけど、わたしたちもそう…思って。

頑張ろうねえって、息子たちにも言ってます、はい(笑)。その場には建てられないって言われてるからね。

元気である原動力

孫たちに手をかけてあげたいなあ、と思って。そのためにも元気でいなきゃだめだぁって、元気でいたいなあと思ってね。こんなよな状況だから、一番痛いとこ出したくないねえ、ってみんな…。お茶を飲んでても、飲んでる方もみんなけっこうそう言ってますけど、うん。痛いとこ出さないように頑張っぺねえ、って。

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