大工一筋40年。友だちいっぱいつくって家族を支えた

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大工の仕事は、道具がかかるんですよ。手間賃よりも道具のほうが高いからさ。俺は、タバコ節約して道具を買ったりさ。
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Tokyo Foudation
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39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 川原繁夫さん, Interviewer: 鏑木洋子
Language
Japanese
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Japanese Title
大工一筋40年。友だちいっぱいつくって家族を支えた
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自己紹介

名前は、川原繁夫(かわはらしげお)です。昭和29年10月8日吉里吉里生まれ。いま56歳。もう少しで誕生日になります。吉里吉里生まれのかあちゃんと、末っ子の娘の3人暮らし。子どもは5人いて、大船渡に住む長女、カツオ船で漁師をしている長男、大船渡で警備員をしている次男、次女と三女です。仕事は大工。15のときからもう40年以上、大工一筋。

俺は3人きょうだいの次男。兄と姉がいるの。兄貴と…まあ父が亡くなったから、母が中学校のところの仮設に行った。あと、姉は地元の人と一緒になったんだけども、神奈川のほうに行ってます。おら、養子の子だったのさ。父の妹夫婦に子どもがなかったんです。だから俺、生まれて3カ月ぐらいで養子に行ったって。叔母さんが、小学校2年の12月に亡くなったの。それでね、叔母が亡くなったために自分の親のところさ来たんだけど、3年の時に、元の姓に名前が変わって、そして自分の親だか親でねえか、俺もわかんなかったけど。だから俺、小学校になってからわかったんだ、本当の親。

昔の遊び

小さいときの遊びは、夏は海に行って泳ぐ、海水浴場で。けっこう砂浜があったんだけど、砂でボール作るの、丸く。人からちょっと砂をかけてもらって大きく。落としてね、どっちが堅いか競争するの。でね、夏っていえばジャガイモ掘りがあるんですよ。7月頃、ジャガイモがちょうどね、でっかくなりますよね。同級生同士がさ、ジャガイモ持ってきて、鍋に全部やって、薪集めて、火つけて、煮て、食べんのさ。お昼代わり。芋の子会っていうふうな感じでね、ジャガイモ煮だけど。そういう時代だったの、本当なんだけど。帰りにその鍋に、ウニとか、アワビとか、獲った魚を入れて、そのまま持ってくるのさ。で、友だちで分けて、その日はそれで終わり。そういう遊びもした。

冬場の遊びっていうのはね、田んぼで渡り鳥捕ったりした。漁師が使う網に仕掛けをして、入り口に餌撒いて、鳥が入ってきたらバタンと引っ張るようにするのさ。あとね、どんぐりごま。おら、山から木切ってきて、底をとがすんですよ、鉛筆みてえ。でね、底に砂を撒いて、紐でビュンって叩くんですよ、どんぐりごまってね。

5月5日は、友だちとみんなで山に行って小屋を作って遊んだりね。5月5日が来る前の休みや日曜日を使って、枝に木をいっぱい乗せて、小屋みたいに作るんですよ。それで、5月5日になって、そこでみんなで料理食べるの。あと、この部落にね、旗を吊るすんです。日の丸とかさ、アメリカの旗から、イギリスとか、いろいろ描いて、5月5日は、必ず朝早く起きて、道路に綱で吊るすの。だからね、5月5日っていうのはね、ほんとうににぎやかだったよ。このへんはお祭りみたいだったよ。旗を吊るしてね、で、山に向かって、夕方になって帰ってきて、その旗を取りはずして、ちゃんと片付けてね、それまでやったね。小さいときはそういう遊び。やらなくなったのはね、中学校2、3年のときからやらなくなったね。

雪が降ればね、みんなそり滑りってね。それと、竹でスキー作るの。今のは、プラスチックでしょう。竹を半分に割ってね、火にあぶって前を上に曲げるんですよ。それで自分でバランスをとって、スーッて滑ってく。

俺は、海も山もどっちも好きだから、どちらもけっこう遊んだよな。いまの子どもさ、昔のことだからって、あんまり聞きたがらないよね。いまの生活と昔の生活は全然違うけ。

親の勧めで大工になる

大工になったきっかけは、親の勧め。俺、本当は漁師になりたかったけど、なれなかった。親父がね、海の漁師だったの。でもケガしてね。母親も駄目だって。で、大工になった。当時、中学校卒業して男の仕事っていえば、漁師か大工のどっちかだったんでねぇかな。親が、先に兄貴を大工にさせたんだ。で、俺もついでに大工になれっていうこと。でも、やっぱり年取っても漁師はやりたいなと思ってる。

大工はね、五年は親方に奉公しなきゃいけんからね。中学校卒業してすぐ3日後に、親戚頼って、山田町の親方に奉公にいった。親方の家に住み込んで、夜明け前の4時頃に起こされて朝仕事。まず材料運びから始まって、その日の段取りをつける仕事。あと、ノミとカンナの刃物研ぎだわね。切れなきゃ仕事にならないからさ。大工さんは刃物が切れねば駄目だって言われた。それのまず勉強だからね。その後、ご飯食べて、すぐ仕事場に行って、戻ってまた夕ご飯食べて、で、夜はまあ仕事はないから、その日の道具をちゃんと見て、そしてまた、朝、研いで。そういう繰り返しさ。夜はテレビ観て、まず遊んでた。大工の友だちのところに行って、仕事の話したりね。

5年間は仕事を覚える見習いだけど、俺は4年だったのさ。で、職人になったわけ。親方が5年目に入ったからもう身上がりっていって、職人になるわけさ。それからまず給料貰うわけだ。親方さ、2年手伝ったのさ、職人として。親方のところは、22歳ぐらいまで働いて、地元に来たの。大槌、釜石方面の地元でそちこち働いて。で、東京のほうに行ったり。独立したのは、やっぱり次から弟子が入ってくるべ。そうするとね、やっぱり後輩さ、悪いんだよ。職人がいっとさ、主な仕事は職人がやるでしょう。そうすると、いつも見習いはほんとうに後片付けとか、そういうのばっかりさせられるのさ。だから、俺は独立したかった。先輩でもみんなそうしてきたのさ。だいたい2年、親方さみんな手伝って、自分でもよそさ行って独立して、職人になって働く。

独立した後は一人親方。友だちさ作って、仕事やっていれば、させてくれって言って、まずそこで仕事働いて終わって給料貰ったりさ。また次の現場に使ってもらったりさ。そういうふうにして。だから、友だちいっぱい作って。だからいまは、遠野方面の人もけっこう知ってるの。

津波で、親父が亡くなったときに、遠野のほうで火葬してきた。このへんは火葬できなかったんだから、みんな県外だって言った。で、遠野の大工の友だちさ電話して、「火葬できねえんでそっちでやりたいんだ、火葬できっべかな」って聞いたっけが、「ああ、市内さあっから、んだら、そいつさ申し込むべ」つって、申し込んでもらって、それでその日に火葬してしまったの。この前、遠野祭りがあったのさ。お刺身作る魚を持ってって、その男さ、お礼に行ってきた。そういう友だち、次から次でいっぱい作って。どこさ行けばどこどこのやつがいるとか、こっちに行けばこっちの友だち作って。だから、一人親方で行って働いて、そうやって給料取ってきて生活して。

東京のほうさも、遠野のほうの人たちと一緒になって仕事に行った。宮大工さついて。遠野のほうは宮大工が多いからね。茨城とかさ、仙台。いちばん群馬県は長かったな。3ヶ月。群馬県は太田市のお寺やったときね。

いまはちょこちょこしか仕事がないからさ。いまの若い衆は、墨つけてね、家建てるっていう人は案外いないんでねえか。柱に墨つけて、組み立てるまでの印、いまは機械でやってますよ。いまはハウスメーカーだから、組み立て式でしょう。

朝から晩まで働いた

結婚は25ぐれぇだな。おっかあは地元の学校の2つ後輩。結婚してから、一軒家を借りたったの。そのとき、俺は3日ぐれぇ嫁捨てたんだ。仕事がさ、遅かったりして、おっかあの夕飯食べなかった。おっかあは黙ったっけ。いまでも、憶えてる。

仕事やってれば、朝早いからね。8時までっていえば、段取りやったりするから早めに行くのさ。時間までに間に合わないとね。仕事は、釜石、大槌が多かった。地元はあんまりなかったね。一般住宅の新築。あとはリフォームとかね。最近は、一般の木造がなくなってきたから、リフォームは多かったね。

最近は、大工をやめてる人が多いよ。仕事がないからってね。大工の仕事は、道具がかかるんですよ。手間賃よりも道具のほうが高いからさ。俺は、タバコ節約して道具を買ったりさ。俺は、そうやったな、生活があるもんだで。遊びっていう遊びしなかったから。大工一筋だ。

20代から40代あたりまで、子どもも食い盛りのときだから、4時、3時頃起きて、ワカメ刈りの手伝いしてね、6時半ごろまでに帰ってくるんですよ。そして、ワカメを岸壁に上げたら、大工の仕事行って、そうやって働いたりした。

親として -中途半端はするなよ-

子どもは5人。長女と長男、次も男。で、今度は女2人。末っ子の三女がまだ高校だから。長女とね、末っ子が15ぐらい違うの。長女は大船渡のほうに嫁さに行って、孫2人。次女は埼玉にいる。長男はまあ、カツオ船に行ってて、漁師。次男は赤浜のほうに住まい持ってた。津波の日は、大船渡にね、警備員の仕事に行ってやったの。うまくね、その日の夜、釜石まで帰ってきたんだって。で、嫁さんが釜石のね、老人ホームに働いてたったから、そこのところに行って、一晩泊まってきて、次の日に帰ってきたった。

長男はね、普通高校じゃなく、静岡のほうの1年の漁師の学校に行ったの。中学校の先生に呼ばれて行ったんですよ。先生、何で呼ばれたべって言ったっけ、実は息子がそういう静岡の学校さ行きたいので、一応、親から承諾を得て、学校さ入ってもいいかっていうことを確認したいって。俺はまあ漁師になるつもりならば、まずいいって言ったのさ。俺は認めたがったのさ。で、息子は、魚獲るほうの船さ乗りたいって。まあ、俺は反対しないから、最初に獲った魚は先生さ、食べさせっこって約束すべしって。本当に送ってよこした。で、俺、先生さ、持って行った。俺は、本当にそれをやるって言えば、「途中で、駄目だから脱落してもいいども、絶対に中途半端にはすんなよ」とは言ってた。いまは漁師で沖に行ってっから、静岡の船だから1年に1回しか帰って来ない。魚を水揚げすると、自分のタバコとか、飲み物とか、自分の買い物して、仕込みやれば、すぐ出るんだ。

地震の日

津波の日、大工仕事がちょっとひまだったもんでね、隣りの大槌町って、赤浜の、次男の嫁さんの実家で、午前中はワカメの仕事を手伝いに行って、そしてお昼頃に次男の孫を自宅に連れてきたんですよ、1歳何ヶ月かの。津波ちょっと前に、うちのかあちゃんが孫をおぶって新聞配達やってんだ。地震が収まった時に、かあちゃんのほうの実家に誰もいなかったから、見に行ったんですよ。で、すべて物が落ちたり、倒れてたったから、孫をおぶってたうちの家内を探しに行ったんです。それでね、うちのほうさ行ったっけね、歩いてったった。それで車で乗っけて。で、うちの末っ子の娘が家にいたったから、で、それを乗っけて、いまの高台に避難した。その時に波が来たった、途中まで。2分ぐらい遅れれば、もう駄目だった。実家の親父が流されたさ。かあちゃんの実家に行って、その実家さ行って、親父のそこへ行けば助かったったかもわかんねえなと、いま、それ悔やんでるんです。

一人で建てた家や大切な道具が津波で流された

46歳のときに一人で家を建てた。大工の仕事は好きだし。骨組みだけ友だちに手伝ってもらって。まずね、先に土地買ったのさ。長男が中学校の頃かな。その頃はアパート住まいで、部屋が狭かったから。息子が成人の頃だで、家建てっかって言っとったのさ。家は2階建て。

津波で、家の中に入った水がね、天井からちょっと下がったぐらいまであった。2階はなんともないんだけどね。1階のほうは、ほとんどサッシは全部壊れて、残ったのは、玄関のサッシと、茶の間の大きいサッシ。そこは開けて逃げたんですよ。そこだけが壊れなかった。案外、津波の場合は、開ければ水が入るけども壊れないってね、俺も後からそれは聞いた。

津波の前は、大工の趣味で、ケヤキの一枚板を削って、脚作って、テーブル作ったりしたの。3つ目だな、作ってして。全部今度の津波で流されてしまって。

道具も全部流された。自分で容易だと思う、気に入った道具、みんな流されてしまった。小遣いで買ってあった機械とかも全部流されて。いやぁ、悔しいんだよな、俺は。思い出すんだっけな、あの道具も流されたな、この道具も流されたなって。でも、津波の後、友だちが大工道具を持ってきたのさ。あと、東京のバンドローバーってボランティアグループがあるんですよ。その人たちが、大工をやめて老後暮らしてる人たちさ、そういう人の使わない道具を集めてきてくれて。それを少しいただいて、自分の家の直しをしてる。ほんとうは、土地を1回買って、家建てて、まず家族でそれで住んだら、またもう1つ買って家建ててえなと思ってたの。2つ目。震災にならない前、2つ目を挑戦するつもりだったからね、俺は。次男坊の家、建ててやっかなと思ってたんだもの。それができなくなったからガックリきた。

これから

早く家直して、早くそっちのほうさ行きてえなと思って。仮設部屋では落ち着かないよ。その後は、仕事あったら、ちょこっと働いて、あとは自分の好きなのやりたいね。春は山菜採り、秋はキノコ。夏はね、釣りしたりね、海の釣りも好きなの。竿で釣ったり、あと、手釣りとかさ。あとは手伝い。手伝いながら釣りっこして。魚釣るんだよ。冬は海に行って海草採り。海苔とかね。あと、テーブル作ったりさ。友だちのも作ってやったり、いろいろあるのさ。作ってけろって言えば、時間だけね、いつそれまでって言われれば、仕事ない間に、作ってやっからって。だからけっこう、物貰って食べたりね、海の物を貰って食べたり。漁師とも付き合って、百姓と付き合ってる。たとえば野菜貰ったり、米貰ったり、いろいろするのさ。だから、海の物をいっぱい貰った時は持っていって食べさせるの。それで野菜持ってきて、物々交換する。

長男が中学校終わって17から船に乗ってるけど、年取ってくるとね、自分のとこさ戻って来てさ、漁師やると思うんだよね。俺、漁師も、養殖関係も一人でできないんだって感じてるわけ。だから俺も、息子さ漁師をさせたけど、地元で漁師したときは、まずは俺、現役で働いてても大工はやめて、息子のほうさ、手伝わねばねえなっていうの、俺も自分でわかってるのす。まあ、どういうふうにしたらいいのか、わかんないけどね。うちの親戚でも養殖関係をやってっから、頼めばね、教えてくれたりするから。

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