自己紹介
前川竹美(まえかわたけみ)です。昭和17年12月13日の吉里吉里生まれ。以前は、息子夫婦が経営する飲食店の手伝いなどをしていました。住まいは持ち家でした。去年(平成22年)の11月に主人を亡くして、今は仮設住宅2棟に、息子夫婦と孫の7人家族でいます。孫は、おっきいのは高校2年生、次は中学校3年生、あと小学校1年生と4歳です。全部男の子で賑やかですが、孫たちに癒されてます。息子は、今はお墓の石屋さんでお手伝いをしてます。
昔の吉里吉里の海と仕事
小さい時は海で泳ぎましたよね。アワビなどを採るのは、口が開かないと採ってはいけないんです。アワビの「口開け」ってのがあるんです。その日にちが決まっているんです。ウニもそうなんです。日にちが決まってるんです。海藻の口開けもあるんですね。その時は、マツモとかフノリとか海藻を採りに行きましたね。潮が引くと、岩から岩をはねて歩いて採るんです。組合員であれば、誰が行ってもいいんです。
定置網だと、三陸沿岸の魚は何でも獲れますよね。スルメとか、サバ、イワシ、なんでも入りますよね。秋になると、秋鮭。獲れた魚は、どうにでもして食べますよね。スルメも刺身にしたり、煮たり、焼いたりですね。サバでも、刺身にしたり、焼いたり、あと鯖寿司にしたりとか。その魚によって、いろんな料理ができるんです。
ワカメの養殖も津波でだめになったけど、何十年も知っているところにワカメのお手伝いに行ってたんですよ。このワカメの時期に。ちょうどね、津波の来る3月20日ごろから、「お手伝いしてねぇ」って、言われてたんですけどね。早いとこだと3月15日ぐらいから採るんじゃないかな。私たちはいつも3月20日ごろからお手伝いに行くんですね。
私も中学校あたりかな、よく、いさばやさん(水産加工店)でね、イワシに煮干しを作るのを手伝ったりしたことがあるんです。いさばやさんっていうのは、いわしを買って、大きな窯で煮て、それを干してつぶしたのを、動物の飼料のために他に送るんですよね。親戚のうちだったもんで、中学校はじめか、小学校あたりかな、学校帰りとか日曜日に手伝ってたかな。
小学校のころは、吉里吉里には漁船がいっぱいあって、イカ釣りの船があったんです。干したイカを伸ばすことを「のす」っていうんですね。スルメをただ干すと、先が丸くなったりするので、それを引っ張って伸ばして、天日干しにするんです。そうすると「べっこう」色になるんです。
そのイカがいっぱいあるところのおうちに、学校の生徒たちがみんなで「のし」に行きましたよ。いくらか、100枚のして、10円か20円が学校の何かに役立っていたのかな。「今日は、どこのおうち」とかってね、学級でみんなで行くんです。
今は、天日干しする家はほとんどなくなりましたのでね。津波前から、なくなってたんです。吉里吉里自体、船が無くなってきているし、若い人たちがもう船に乗らないからじゃないですか。みんな会社か、都市の方に出たりするから。
息子の店「凛々家(りりしや)」
子どもは、息子と長女です。長女は、仙台に大学に行ってから、仙台で中学の先生をやってます。
息子はずっとここにいます。高校終わった後、静岡にある清水海員学校(国立清水海上技術短期大学校)に1年間行ってたんですね。そのあと仙台のホテルに入ったんです。そこで4年、5年近く修行してきて、浪板の親戚がやっている「きりきり善兵衛」っていうお店があるんですよね。そこでお手伝いして、その後「凛々家」というお店を開きました。その合間に息子は、漁業の方、ウニ取りとかアワビとかしてるんです。息子は山も好きで、9月末から、マツタケも鯨山(吉里吉里北部に位置する山)に採りに歩くんです。漁業組合にも、ウニでもアワビでもあげて、店で使う分も採って、使うんですね。マツタケも店で使ったり、あまりいっぱいだと業者さんの方にも売ったりしてました。
凛々家では、お蕎麦もしたり、定食も出したりしてましたね。お客さんは、ここら辺の人で、25人入る宴会部屋もあって、結構、忙しかったですね。息子と、息子のお嫁さんとお手伝いさんでやっていたんです。11時から店を開けて、お昼2時で一度閉めて、夜の準備をして、夕方5時からやって、飲む人がいると限りなく開けてます(笑)。
凛々家の特に喜ばれていたメニューは、石焼ビビンバかな。あと、鯨山の名前を取って、「鯨山ラーメン」ってのがありました。自家製チャーシューを入れた辛いラーメンでした。
この津波に遭ったのは、お店を開いてから6年目さ入ったときにですね。
お茶っこ
私も料理を作るのは好きですね。魚もいろんなものに作るし、お肉でも焼いたり、煮たりだけでなくて、巻物にしたり、旬の野菜を入れて巻いたりしたり、いろんなの作りますね。魚は塩で殺して、酢をつけるんです。それをご飯に巻いて、切って、押し寿司みたいにして食べるんです。
みんな集まれば何かとよって、料理の話をして、「こういう風にして食べたよぉ」って、「あぁ、それどうすればいいの」とか聞いてきます。それを作ってみて、こんなの入れた方がいいのかなとか考えて、そういう感じで料理を覚えていきましたね。
料理の話をするのは「お茶っこ」飲み友達となんです。近所の人とか、お友達とか。お茶っこというのはこちらの言葉なんです。近所でも、よその人でも会ったら、「お茶っこ飲んでってぇ」っていうんです。そこで、私自身も友達が多いから、そういう食べ物をどうしたらいいの?とかね、聞いてきて、料理のまねしたりして。
隣近所の奥さんとは、1週間に2回か、3回はお茶っこ飲みしますよね。うちの隣に行ったり、友達であれば、大槌の方に行ったり、釜石の方でも声がかかると、そこまで行ってお茶っこ飲みしてきますよね。
お茶は、主に漬物が出るんです。不思議ですね(笑)。大根でも、キュウリでも、白菜とかキャベツとか、その時期のものを漬物に出して、あとお菓子みたいなのものを出すんです。
結婚したのが昭和42年だから、お茶っこすよるようになったのは、昭和50年くらいからですね。案外、私たちの時、若い人たちが、この辺に引っ越して来たので、それまでは、昔から年寄りがよく来て飲んでましたね。昔は、炉辺に炭をおこして、大きい鉄瓶をかけておくんですね。その鉄瓶から、柄杓で汲んで、お茶を入れてましたよ。古いおうちは大きい炉辺だからね、年寄りたちが炉辺を囲んでお茶飲みしてました。私のお母さんもお茶っこしてました。私の母は、漬物を作るのが上手だったので、いつも漬物がお茶菓子みたいな感じでしたね。
どこのおうちでもそうしてたんじゃないですか。学校の帰りとかにお茶っこしてるのを見てました。昔は50歳過ぎると、仕事しているお年寄りっていないですもんね。今だから、50、60歳でも仕事するんだけれど。私が知っている限り、昔、50過ぎてどこかに出て仕事をしているってことは、まずなかったかなぁ。お父さんたちは、船に乗ったりしてたから、お茶飲みもできたんじゃないかな。
でも、今はね、近所の人がまとまって仮設住宅に入るっていうことがないから、みんな離れ離れなんですよね。抽選だから、みんな離れ離れですね。大槌の方に行った人もあるし。でも、「あそこに入ったよ」って聞けばね、お茶っこするために訪ねに歩いたりしています。久しぶりに会うと、先に涙が出てきます。途中、話にならないこともしばしばです。
震災時 ―家も何もなくなったけど―
あの津波の時はですね、ちょうど私のおうちのすぐ前に山があるんです。そこに1回上がったんですけどね、そこに上がった時に、海が真っ黒、大きい波が来たんです。そして、その山に上がる前に、近所に足の悪いおばあさんがいたの。おはあさんのお嫁さんたちが働きにでていて、一人でいたんですね。そのおばあさんを、うちの息子の嫁さんが連れて上がるのに、すごい苦労したんです。足が悪いおばあさんだから、ひっぱったり、押したりして上げましたね。
私は、4歳と小学校の孫で大変だったし、中学校の孫は4歳の子どもをおんぶしてました。それで、高台に上がった時に、この湾が見えないくらい、おっきい波が見えてましたよね。本当に大きい波でした。波頭に煙がいっぱいたって。で、その波がね、どこで崩れるともなく、もうわーっときたんですよ。その時に、私のうちが高い方だったので、まさか流されると思ってなかったんだけど、高台から波が越えてったの、越えてった波で、うちも、はあ、ひと波でなくなったんです。
波が来た時にね、すごい男の人たちなんだか、女の人たちかの声が聞こえたんですね。その後、波が引いたら全然、その声が聞こえなくなったんです。その声が今も夜になるとね、時々耳から離れないんです。
ちょうど高台に上がって行く途中、息子が、流れてきた人たち2人を助けたんですね。1人の人はまだ波の来ないうちに引っぱり上げました。もう1人の人は流されていて、松の木に掴まってたのを引きずり上げました。よかったです。
波っていうのが、あんなにも来るものなのかなと思いましたね。1回来た波はもう、私のうちの下を流れた時は、ああ、津波なんだなとは思ってたんですけどね、その波が引くことなくずっとずっと、「ださーっ」て来ましたものね。そういう波は、見たことないですね。本当におうちなんかも流れて行くのは、一瞬ですね。海の方に流れたんだか、流されたものは何にも見つけないですね。本当に、1時間か2時間の間で、吉里吉里の町が一瞬でなくなりました。みんな流されて、多分海に行ったんだと思いますよ。去年の11月に死んだお父さん(夫)の位牌も流されました。息子が、毎日、海の方から家の方に歩いて通って通って、2週間経ったころに、父の位牌を見つけたんです。その時、本当に嬉しくて、涙が止まりませんでした。そして、2か月くらい経ってから、うちの人の父親と亡くなった子どもたちの位牌を、ボランティアの方々が見つけてくれたんです。おかげさまで、みんな見つけていただいて、今はみんなと一緒に仏壇にいます。きっと安心していると思います。そうであってほしいですね。
震災後
山に上がって、津波が引いた時は、みんなで泣きましたね。「なんにもなくてもいいよ」って。「みんな助かっただけでいいんだよ」って。まず本当にね、命があるだけでね。「何にもなくてこれからどうしようかな」とは思いましたけどね。
その後、息子と中学校の孫は勤労奉仕、道路をつくるためのお手伝いをずっとしてましたね。吉里吉里の人は、創造センター(おおつち郷土資源創造センター)のグランドにヘリポートもつくってね。だから、怪我した人たちがヘリコプターで盛岡の方に運ばれたりしてましたね。消防の人たちも一生懸命でした。私たちは、小さい子どもがいるので、息子のお嫁さんの実家が、大槌の奥の山の方にあるので、お嫁さんのお父さんが迎えに来て、そこに家族7人5か月お世話になりましたね。
すごくいいお父さんとお母さんなんですよね。お父さんもお母さんも、すごく気をつかったと思うんですよね。本当に良くしていただきました。あっちのお母さんの人たちが百姓してるからね、食べ物もすごくいただいて、不自由しなかったですね。娘の旦那の実家も石巻で百姓なんです。そこからお米もいっぱい送っていただいてね。いっぱい頂いたので、私たちだけでなくてね、他のみんなにも分けて食べさせたりしましたね。
でも、電気がつかない間は大変だったですね。電話も通じないから。風呂もガスがあっても、電気がないからお風呂が焚けないんですよね。昔の田舎のうちだから大きい「くど」っていうのがあって、そこで火を燃すの。くどって、土やレンガみたいなので造った竃のこと。お父さんが毎日朝起きると、大きい釜で、たき火を燃して、お湯を沸かしてくれるんですよね。それで、子ども、孫たちをお風呂に入れたりね。私たちも2週間くらいお風呂に入らなかったのかな。ご飯もね、大きい釜で炊くんです。その時も、あっちの家族は3人で、避難してきた私たちを含めて14人いたったんです。だからね、その方たちもいたから、私とお嫁さんは、常にご飯の支度をしてましたね。お母さんはご飯炊いて、お父さんはお湯沸かしてくれたり、買い物に行ってくれたりしてね。1か月半くらい、その人数でいて、あとは10人で5か月いましたね。でも、みんなでいるから元気が出ますよね。あっちのお父さんも山のものを採ってきてくれたりね。それをいろいろに作って食べたり、食べさせたりしてくれました。
これからの暮らし ―自分たちの力で、店を―
仮設住宅には、7月28日頃入ったんですね。暑かったですよね。でもやっぱり仮設といっても、小さくても我が家ですよね。これからは、支援、支援って待ってるより、自分たちで動いて、買える物は買って、外へ出て行った方が、元気づくのでないかなと私は思うんですけどね。だから、買い物にもね、1週間に2回くらい出ますね。
息子の店には、津波が上がった時の補償もないんだそうです。だから、今はちょっと、待ってるような状態でいるんだけども、私は、店をさせたいです。たぶん、お嫁さんもそう思ってると思いますよ。息子はね、仙台でいろんな仕事をしている方から、食堂の道具は戴いたんですね。だから今、自宅が流された跡に、凛々家をもう一度したいんだそうです。せっかく、お客さんも増えたったから、「凛々家さんどうなってるんですか」って、聞かれるって言うんですね。メールでも「がんばれ」って、いっぱい入るんです。だから、私は息子夫婦にお店をさせてあげたいなと思ってます。子どもたちにもお金がかかるからね。
息子の夢は、(津波で更地になった)その畑に平屋でもいいから自宅を建てるという想像はしてるんですけど、なかなかこの土地が決まらないのでね。波の上がった所に建てるのは、ダメだって言うんですよね。かといって、高い場所って吉里吉里にはないんですよね。だから、もしそれが決まったら、今でも店をやりたいですね。
住みかはどこに ―吉里吉里はここにあるから、吉里吉里―
国ではもうね、津波の来た所はダメっていってるんだけど、今度の町長さんがどのようにするのかな。やっぱり、海の仕事する人は浜の方がいいと思うような気がするんですよね。私もこの場所に戻りたいので、うちのあった所に、ほとんど毎日のように、行って見てきますよ。だから、草が生えてれば草も取ったり、なんにもできないけど、そうしてます。
やっぱりね、元の場所さみんな戻ってね、隣近所でいたいような気もするんです。私たちの近所の人はね、みんな歳がいってる人だから、小さくてもいいから自分の屋敷にうち建てたいって言ってるんです。前は、近所で朝起きれば「おーい」っていうんです(笑)。そっちで顔出して、こっちで「おー」っていうとね、すぐ通じるから、「おはよう」って。顔が見えないと、今日はどこに行ったのかなとかね。やっぱりね、私は、吉里吉里で生まれ育ったから、今まで通りの町並みが出来たらいいのかなと、思ってるんですね。だいたいね、この町がなくなるっていうことは、吉里吉里の町がどこに行くのかなと思うんです。吉里吉里はここにあるから吉里吉里ですよね。
こういう津波が1000年に1回っていうから、どうなるかわからないけれど、本当に、町がないっていうのがさみしいですね。若い人たちも、もう吉里吉里から出てる人たちもいるからね。花巻とか、盛岡とか、そっちの方で生活している人たちもいますもんね。だからこの土地に家を建てていいとなれば、早く戻って来る人もいるのかなと思うんだけどもね。なんか、いろんな偉い人の話聞くと、土地を買い上げて造成をしてっていうんだけど、それをするのにはね、1年や2年ではできないと思うんですよね。それまではみんな待ってられないと思うんです。いつになるのかね。
吉里吉里は海も山の幸も採れる、本当にいい町
でもね、食べるものにはまず不自由しないから、今のところはこれでいいのかな。高望みしないで、みんな食べていければそれでいいのかな。息子は、孫たち2人を一人前にするって頑張らないといけないので、とりあえずそれで忙しいと思います。
吉里吉里の地は、山の物でも海の物でも何でも食べられますもんね。野菜も採れるし、ちょっと高い山さ行けば、フキとかワラビとか山菜も採れるのでね。私自身も歩いて、食べる分採ってきてね。だから、私は吉里吉里は一番いい町かなと思ってるんですね。たぶん、息子もそうだと思うんですよね。いつか何かを話した時に、息子が「何でみんな吉里吉里から出ていくのかな。吉里吉里は、お金になんだよな。吉里吉里出ないでいてもお金とれるんだよな」って言ったことがありましたね。アワビも採れるし、自分が店をしながら、海の仕事もできるし、マツタケも採れる。だいたい4月から7月までウニの口開けなんですね。9月は、マツタケ採り。10月、11月になっと、アワビの口開けもあるし。
食べるものもあるし、近所の人もいいし、周りもみんないいから、ここの町はいいなぁと思うんです、ふふふ。だから、たぶん私だけでなく、みんな、戻りたいと思いますよ、元の場所に。