自己紹介―父は吉里吉里一のいい男―
平原慶子(ひらはらけいこ)です。昭和17年4月29日生まれの69歳。吉里吉里で生まれてずーと。姉が2人と兄が1人、私が一番下。母は私を生んだとき、50歳はいっていましたね。昔はね、歳をとってからの子どもも結構ありますもんね。
うちの父は明治の生まれ。吉里吉里でもすごく名の通った人でした。平原松右エ門ってすんごくまじめで働き者、家を何軒建てたとか船も何艘つくったとかって自慢話何度も聞かされました。根っこからの漁師で、戦争の時だけ軍人さん。海軍兵のヨット部だったんだって。体格良かったから。母のお母さんが三味線の先生だったそうで、それに父が習いにいって母と大恋愛をしたらしいの。漁は「するめ釣り」。全然ぼけないで90歳まで元気でした。獲った分はね、自分のうちに持ってきて割ってきれいにして干すの。乾いたらそれを整形して、伸ばして、また乾かして。そして10枚20枚に重ねて、それ漁業組合の方に出すんですよ。私たちもちっちゃい時はね、乾かしたのをよそに、するめのばし、何枚でいくらってね、おこづかい稼いだ時もありました。
私はずーっと、吉里吉里。うちでは親の代から米を結構大きくやっていたの。みんな上の人たちはお嫁にいきました。私が末っ子でしょ。大槌の高校は出たけども就職はしないで、家のお米屋さんの手伝い。役場主催の食生活改善推進委員にも入ったりしました。仕事にはつかえなかったから吉里吉里が離れられないよね。自由販売になってスーパーさんが安売りするから、もうそれほど売れなかったですよ。でもまあ、米って悪くなるもんじゃないからね、やってたったんです、私もね。親戚や友達が買ってくれたり、お使い物するもんですから。
昭和8年の津波
宮城県沖の津波がいつかは来るんだよっというのは頭にあったったんだけども、まさかね、こんなおっきなのが来るとは思わなかったしね。吉里吉里の上の方、私が住んでるところまで来るとも思わなかったしねえ。
昭和の8年の津波、姉は3歳とか5歳だったかね。ほんとに海が近いところで、聞いた話ではね、2階建ての下が流れて2階がぽたんと落って、そこで生活したんだって。それで今のこっちの流された方の家、県から50坪ずつの分譲された土地を買って、私は2歳くらいで両親と兄妹みんなで引っ越してきたんです。そこが、津波が来ないっていう建前の高いところだから。大姉さんが結婚した後、50年前に流された土地に家を建てて、今回の津波でも流されました。私の記憶だと、何度も大きな地震は知らないけども、その頃の津波の知識はありませんでした。
3月11日に起こったこと
姉と、私の大姉さんはね、すぐ海のそばだったんですよ。だからすぐに誰よりも先に小学校に避難したから。うちは全然津波、来るところじゃないと思ってたとこだったから。だからね、私は逃げなかったんです。それで海、水が来るまで家にいた。
もう今まで経験したことのない地震だったんだけども。第1回目ぐらいの地震で結構、棚から物が落ちて抑えたりね。テレビ抑えたり、うちの柱時計がものすごく大きいもんだから両手で抑えたんです。そうして、いったん収まったんです。外に出て、つい近所の人たちとお話して、大きい地震だったねぇって。そして、うちに入ったの。そしてまた、揺れだしたんですよ。その地震がものすごく大きかったですね。これはぁ、すごいものすごい音がしたもんだから、玄関の窓を開けてみたらね、もう、向かいのうちのこんな太い鉄筋の電信柱がすごく揺れてあるのね。もう転びそうに。そして藤井先生ていう個人病院が隣にあって、そこに駐車場があるんですよね。そこにね、なんとなく下見たらもう水がピチャピチャピチャて来てた。これは津波なんだ。これが津波なんだと思って、初めての経験だから。それから、これは逃げなきゃと思ってね。
私の寝てる方のところに行って、取りやすい所にあった大事なもの、通帳とか年金手帳をまず持たなきゃねと思って持って。とっさに取りやすいところに手が伸びて。普段使うお財布はもう頭になかった。そしてその窓から、はねて逃げた。けども、そこに箪笥があるんですよ。どうして乗り越えて逃げたか、どうして水にはねたかそれは全然いまだに記憶がないの。がむしゃらで。そして水に流される記憶はちゃんとあるんだけど、もまれてもまれて行ったんですね、私…。6軒か7軒ぐらいの角のうちにね、ちょうどはまったの。家に流されて行ったらちょうど頭がスーっと見えたの。ああ、これ助かったなあーと思ってね。そしたら私ぐらいの薬局の奥さんも、やっぱり頭から濡れて、ずぶぬれだったんですよ。その方は歳とったじいちゃんばあちゃんをを両手に繋いだけども、もう離れたって。自分だけがそこに至ったんですよね。奥さんの旦那さんが後ろの方に、奥さんが出てこないから流れたと思って待ってたんじゃないですかね。その声でね、「ああ、今助けるからー」って、私後ろ向きになってたから、その奥さんに声かけたの。私も「ここにいますよー」って言いたいけども、その声が出なかったの。でも後ろから「わかってる、わかってるー」って「助けてやるから待っててー」って。そおいう行為があってね。そしてもう脚はすっかりがれきに挟まれたんです。もがいて、脱出しようと思ってもなかなか脚が上がらなくて。自分ではこのまま死んでダメだなぁーってね、だけどあの勢いだら5分は流されない。2、3分だと思うね。
それで薬屋の旦那さんと一緒に角に入って行って、助かった。助けてもらってね。そして地元の若い方、その旦那さんに先におんぶしてもらって、途中の坂、学校までは坂だからね、大変だったから、若い方に交代におんぶしてもらって。その若い方は、途中で「あの、おぶった方は誰ですか?」って聞いたら、やっぱり吉里吉里の方でね、ローソンの店長さんだったです。助けていただいて今いのちがあります。
もう6カ月経っても今でも傷があるけど、この耳と、頭とかだんだんにだんだんに時間が経ってきたら痛くなってきた。そして水結構飲んだからね、そう、2カ月くらいは大変でした。
避難所での生活~小学校から中学校、そして仮設住宅へ~
その後は小学校。その時は、もう寒くて。11日は誰とも連絡取れなかったの。そしたら薬局の奥さん、藤井さんの患者さんがお薬もらいに来る、その薬局さんの方も学校に来てたんですよ、その人が「私の車に行こう」って、ヒーターをたいてあったまりましょうって。その奥さんのおかげでね。そこであったまってたら、避難したうちの甥っ子が、自分のお母さんも津波に遭ったから、そのお母さんを連れて、通りかかったのを見たんです。学校の中を探したらしいの。そして見えないからどこに行ったと思って通ってたとこ私が見つけて、ドアを叩いてもらって、そこで一緒に連れてってもらって、望洋ヶ丘の町営住宅に避難しました。甥っ子の家族は3人、それに姉と5人で生活しました。それが3月の末まで。私はもう避難所の方に行きますよって、避難所に私は残ったんです。そして、今度は中学校の方に移ったのね。
小学校は150人はいたんじゃないかなあ。小学校の中、吉里吉里は仕切りなし! もう全部おおっぴらに。かえってそれがいいような気がする。プライバシーというけどもね、だって更衣室もあるしね。吉里吉里同士が多かったもの、やっぱり仕切りがないところでみんなで。いやなことばかりじゃないよ。話したりすれば、かえって嫌なことも忘れて気持ちもまぎれる気がしました。
私は、最初は、流れた家は見たくなかったんですよね。小学校だとすぐ下だったから私は1回も見に来なかったの。見たかったんだけどもね。中学校に行って、今頃どうなっているかなって散歩がてら、自分の家を見に来たんですよ。ほんとにきれいになってまあ、流れてましたね。遠くからは最初にこう眺めたの。そのうちだんだん歩け歩けしてるうち、近くまで行ってみようかなって。やっぱりそっくりきれいになくなってましたね。
おちゃっ子飲みが楽しくて
おちゃっ子飲みってこちらの方言は言うの。お茶飲み。やっぱり楽しみですよ。おちゃっ子会って、お友達も遊びに来たりするから。お茶飲み、飲みたい、おちゃっ子って言うんです。いろいろ話したり、話を聞かされたり。また若い人たちとお話してね。やっぱりお年寄りの話を聞いて今までわかんなかった事もわかりますね。吉里吉里生まれの先輩、名前は知ってたったっけど地震の前までは話はしたことなかったの。話が豊富で、やっぱり先輩です。吉里吉里の言葉で「そうだべ」って、こう言えばこうだべって、それでこうなんだよってちゃんとまじめなこと言うし、そうだよねえって私、関心する。だから私なんでも相談するの。ほんとにみなさんのおかげで助かったね。なんぼ吉里吉里に69年住んでいても、全然わからないことも初めて知ることもあります。そういう新しく知ることがあるとまた楽しいね。だからね、あの最初のうちは、精神的にも被害者妄想あったけども、だんだんこうしていれば人間関係が新しくまた出てきて、新たにつながって。それがね、今だんだんわかってきた。時間、日が経つにつれて。最初のうちはもう津波の流されたことだけ頭にあって、悔しさ。でも、津波に遭っていいこともあるよねえってとも、思ったりもしています。流された家に帰ってきて、向かいのばあちゃんと話をしてるうちに、「慶ちゃん、ここにうち建ててって、おちゃっ子飲んべえしー」ってばあちゃんが。みんなやっぱり元のところに建てたいねって言ってます。またね、おちゃっ子飲んだりすったしねえって。やっぱり一人じゃない、つながりだものね。そう思いました。
今思う事~父の言葉と一緒に~
でもたまにはね、夜中に目が覚めた時、ふと思い出します。やだあーって溜息がでたりします。でも、私一人じゃないから、みんながそおいう思いをしてるからね。それだけでも救われるけど、でもやっぱり個人の感想になっちゃってきてね。あれもあったったのにこれもあったったのに今はないでしょ。全て、1からのやり直しと同じく、ゼロからの、1よりゼロからだもんね。裸一貫。でも、もう一度、出来るものなら、あそこに住みたいなと思います。そう、やっぱり浜育ちね。ちょっと海より遠いから、だめかもわかんないけど。あそこにちっちゃなうちでも欲しいねって言ってるね。これからは、あんまり津波の損したとかっていうのは、もういつまでも引きずらないで、前向きに生きないとだめだもんね。希望を持って。いつも父に言われた。「人はこころの持ち方で自分を良くもしたり悪くもしたりする」って。いろいろことわざを聞かされ、自分の気持ちの持ち次第だって。だからね、前向きに行かなきゃ。
また役場の食生活改善推進委員に入ろかなと思ってる。やっぱりお友達いっぱい作らないとね。商売ももうこの機会にどうかなっと思ってたけども、さっそくやめることもないしね。将来どうなるかわからないから、まだやめることはしてない。休んではいるけどお米もね、オートバイ乗って10キロぐらいは配達したの。まだ出来なくなったわけじゃない。