地域の人たちに育ててもらった店だから

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今は早く開店して、地域の人達に必要なものを、便利さを与えること。…地域の人達に育ててもらった店ですから。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 中村勝彦さん, Interviewer: 吉田麻美子
Language
Japanese
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Japanese Title
地域の人たちに育ててもらった店だから
Japanese Description
今は早く開店して、地域の人達に必要なものを、便利さを与えること。…地域の人達に育ててもらった店ですから。

生まれは隣の浪板

中村勝彦(なかむらかつひこ)です。昭和34年1月13日生まれの52歳です。出身は隣の浪板です。4人兄弟で弟が2人、妹が一番下。実家は漁師で、ワカメやウニ、アワビとか時期によってやってました。

中学卒業して、その後3年か4年、漁師をしながら大工をやって。東京に出たのは19歳の時です。

結婚してから吉里吉里に住み始めるまで

俺は結婚した当時は、東京にいて、建設業をしてました。10年くらいは2人で東京にいました。俺のかみさんの実家っていうのは吉里吉里で酒・たばこ・雑貨の商店をやってたんです。お義母さんは山田町から嫁に来て、とにかく朝から晩まで働き者で、地元ではいつ寝てるのかって言われるくらい、明るくて元気のいい人なんです。社交的な人だったから、踊りやフラダンスや趣味も多くて人との付き合いも多くて、太陽のような人でしたね。お義父さんは、イカの塩辛が得意で、人に作ってあげては美味しいって言われるのが嬉しいみたい。お人好しな人です。

かみさんは一人娘なんで、俺は婿に入ったわけです。当時、お義父さんがガラス店もやってたんだけど、どんどん不景気になってきて、商店もガラス店も辞めて、平成2年にフランチャイズチェーンのコンビニをスタートしたんです。コンビニ始めてから、2年くらいでお母さんが体の具合悪くして、それで2人で吉里吉里に戻ってきたんです。

こっちに戻ってきたのは38歳くらいです。大工の仕事もちょうど軌道に乗ってる頃だったのだけど…。コンビニの店長なんて俺にできるかなと思ったけど、何年かやってれば、それに馴染んでしまうもんです。

震災前まで、かみさんは釜石で飲食店やってて、母親ゆずりの働き者ですね。気の強さは誰ゆずりか知らないけど(笑)。子どもの頃から親の商売を見て育ってますから、やはり商売人です。

吉里吉里の暮らし

吉里吉里はいろんなことを地域一丸となってやってます。近所で助け合ってみんな仲良くわいわいやってる所を見ると、いい面が見受けられるし。もらいものをすれば近所同士で分け合ったり、おかずを交換したり、畑や海でとったものをあげたりいただいたりって感じで。みんな家族みたいな。とにかく吉里吉里は海のもの、山のもの、水も空気もおいしいし、雪もそれほど降らないし、夏も過ごしやすいですね。でも去年(平成22年)の夏は異常な暑さで、秋には松茸が異常発生した年でした。

吉里吉里のお祭りっていうのは8月にあるんです。お盆が終わってやる。吉里吉里には芸達者の人達が多くて、陽気な人がいっぱいいます。ひとりが音頭とればひとりが唄って、それにのってまたひとりが踊りだして、それに乗ってまたひとり…みたいな感じですね。とにかく思いやりのある人柄の良い人達の集まってる町です。

そんな人達も、これだけの被害で…みんな笑顔も元気もないです。家が全壊の人、半壊の人、家が残った人、家族を亡くした人…それぞれ思いはそれぞれが違う訳だから、会っても互いに言葉がない、出ないっていうのが正直な気持ちです。

地震

地震に遭った時は、家族がみんな別々で。俺は釜石の方にいて、そこから戻ってきたんです。横に止まってる車も全部追い越して、とにかく店へ向かって。その最中もすごい余震で、左右に揺られるというか、蛇行するような感じで。17分くらいで店について。そしたらお義母さんと従業員ふたり、外にいて。店のガラスも割れて、中もめちゃくちゃだったから、俺がたどり着いたんで、お義母さんは俺と会ってすぐ「私も今来たばかだから。気を付けて。私は家に戻るから…」と言って車で家に戻ったんです。それが最後に見た姿で、真っ青な顔してて。今、思うと言葉がないし、言葉をかける余裕すら俺にはなかった。

俺も最初は店に来る時は逃げなきゃいけないと思って来たんです。従業員も来て逃がさなきゃと思って来たんだけど、あれだけの物が散乱してるのを見て、本能的に片付けなきゃないっていうのが行動に出て。でも、またその時にも地震来て。こりゃだめだと思って、従業員の人、2人帰して。

津波が迫ってるのにも気づかず、俺は店にいて、どう片付けようかなと思ったり、どうやって店を閉めてうちに帰ろうかなと思ったり、ただうろうろするだけで、いや困ったなと思って。

2日前にも、大きな揺れの地震があって、その日は宮城で会議があって、とっさの判断ですぐ会場を出て吉里吉里へ戻りました。その時もかみさんはお義母さんに「必ず大きい地震が来るから気を付けてね」って言ってたらしいんだけど、お義母さんは「テーブルの下に潜るから」って言ってたみたいで…。津波に関しては、まさかここまでと思っていなかっただろうし。かみさんは、釜石で飲食店をやってるんで、夜の仕事だから、「地震が来たら」「津波が来たら」って従業員にだけは常に話してたみたいで、心構えはあっても、日中とは言え、今まで経験した事のないような地鳴りと地震が何度も何度も…。「津波が来る」とは思ったものの、あんな大津波が来るとは想像していなかったです。

津波が来た

もちろん店まで津波が来るなんて思ってなかったから、店でうろうろ、車で待とうかと考えてる時に、消防自動車が「波が来たから逃げろ」とかって騒いで来て。パッと外へ出て、海の方見たら、はじめ津波がこっちじゃなくて、山側の船が着く方に向かって入ってて。こっちには来ないなと判断したものの、あの高さだったら目線的に店の高さと一緒かなと思い直して。店まで来なくても、逃げた方がいいなと思って、もう一度外へ出たら波が来てるのが見えて。1分半までに出なきゃないなと思って、「いち、にい、さん、し」って数えながら国道を一直線に走って逃げたんです。1分かかんなかったと思うんだけど、みんなが避難してる手前で息が切れて、山側を振り向いたら、もう全然予想より高い波が家を乗っけたまんま来て。ああだめだ、店より高いなと思って。みんな居るところで立ち止まって、30秒くらいで、店も看板も波に飲まれて。頑丈な鉄の看板がものの簡単に倒れたのを見て、愕然としました。波は、ちょうどみんながいる20メーターくらい前まで、ダーッと来て止まりました。

津波のすぐあと

すぐそばで、お店やってる人がいて。「お前の店もないけど、家もないぞ」とか言ってて。波が引いてってすぐ、何人かの人が泳いでいって、救助したり。波が来た一番最後の家の所に、おじいさんとおばあさんか誰かいたのか、2人くらい引きずり出されたり、そんな状況でした。でも、国道に家が乗っかって全然行ける状態じゃなくて。町の中の通路は全部瓦礫だらけで。家のある方を見たらホント俺の家もなくて。だけど、新築して6年だし、まさかあの家が流されるわけがないと信じながらもどうにか歩いて行ったら、ほんとに基礎に床がついてるだけで、丸ごと何もなくて。「道を間違ったかな」と見回して、錯覚したくらい。その時の唖然とした気持ちは忘れられませんね。一瞬で全てを飲み込んだ津波の恐ろしさ、波が引いた後の瓦礫の山、地獄を見たような感じでしたね。一気に気が抜けました。

その日は、けっこうあっちこっちで、「助けてくれ」とか、「あっちにもいる」「こっちにもいる」と、子どもやお年寄りがいた人たちは、みんなあの瓦礫の中を結構探して歩いてる状況でした。

次の日には、もうみんなで片付けが始まり、助け合って行動してました。消防とか、地区のそういう人たちが中心になって。町名ごとの組織がしっかりしてて、地区全体的にもまとまってました。

家族と安否

津波のあった日は、お義父さんとすぐ会ったんです。お義父さんも釜石にいて、まっすぐ家へ車を走らせてたみたいで。でも、お義母さんも、俺のかみさんもどこにも見えなくて。お義母さんは、うちに避難してきた姪っ子と3人一緒にいなくなったようなことを聞いて。お義父さんは、小学校かお寺かのどっちかにいるんじゃないかってことで、確認しに行くって言って、その日は別れたんです。

俺はとりあえず、自分の母親がいる浪板の実家の方も見に行ったんです。向こうも家が全然なくて、流されたのかなと思って、避難所に行ったらみんな無事で。その日はその避難所泊まって。お義母さんと、かみさん、2人会ってなかったけど、どっかに避難してると信じてました。

次の日、お昼前にお義父さんに会って、2人ともいなかったと聞いて。それから2日間、朝から日が暮れるまで目一杯探しましたね。吉里吉里中歩き回りました。お義母さんの車はすぐ隣の家で潰れてて。うちのかみさんの車はなくて。もしかしたら、瓦礫の中にいるんじゃないかなと思って、うちのかみさんの同級生に頼んで、車のナンバー言って、重機も使って探してもらって、ご苦労かけたけど、それでも車もかみさんもどこにもいなくて。

その時、かみさんは1人で釜石にいたんです。3日目に、釜石の避難所で2日目の晩に見た人がいたって聞いて。3日目には帰ってくんじゃないかと思っったけど、帰ってこないから人違いかもしれないと思いながら、車も探しながら家の周り片付けてたけど、帰ってこなくて。やっぱ最初に聞いたとおり、かみさんもお義母さんも姪っ子さんと家にいて、流されてしまったのかなぁとも思って。大槌の町は津波の後、火事になって山まで火が回ってたんだけど、4日目に、お義父さんと2人で、かみさんを見たって言ってた釜石の避難所に探しに行って、連れて帰ってきました。帰りは火事で道が通行止めになって、遠野を回って吉里吉里へ戻って。かみさんの店の従業員も、コンビニの従業員も安否を一人ひとり確認して、全員の無事を確認しました。

お義母さんと姪っ子さんを探す日々

かみさんが無事だったんで、それからは、お義母さんと姪っ子さん2人、探しまくりました。姪っ子さん(お義母さんのお兄さんの娘)は、地震とかなんかあると、すぐうちへ来るんです。2人の中ではうちが避難場所になってたのかも知れません。うちの近所の人達はみんな、「ここら辺は高いから波は来ない」と思っていたし、お義母さんに「ヒナ子さん、大津波だってよ」って声かけた人もいたらしいけど、手を振って「大丈夫」って言ってたらしくて。家が一番安全と考えていたから、逃げる気がなかったのか…。家がなくなってみると、高台じゃなくて、ほとんど平らでこんなに海が近いっていうのにはびっくりしました。

2人が2階にでも上がってれば…と思って、2階を探したんだけど。どこにも引っかかってなくて。うちの外壁とか散乱してる流れを見ると、国道を越えて海にそのまま出されたような感じで。他の家の2階が何軒か床が付いたまま引っかかってるから、うちもどっかに引っかかってれば助けられたかもしれないのにと思うと。波が押し寄せたときの恐怖や苦しかっただろうなと想像すると切ないし、くやしいし、どんな思いで亡くなったかを思うと言葉がないです。

聞いた話によると、俺の家が持ち上がり、上後ろの家にぶつかり、あられが強く降るようなバラバラとものすごい音をたて、その音にびっくりして上後ろの住人が「助けて」と叫んだと聞いています。

姪っ子さんも安全と思ってうちに来て流されたっていうのも、ちょっと複雑な気持ちだし。姪っ子さんの旦那さんは東京の会社のマグロ船に乗って、帰ってきたのが4月頃…。1年ぶりに帰ってきて再会もせずだから、心が痛いです。1ヶ月休んですぐ仕事に行く予定も、奥さん探すために会社も辞めました。

とにかく一緒に、遺体の安置所とか探して歩き情報を取り、姪っ子さんの旦那さんは毎日砂浜の瓦礫の中、無我夢中で探していました。

4月末日、吉里吉里海岸にご遺体が上がり、発見した人が「お義母さんでは」と知らせてくれて、確認に行ったけど、特徴すら全くわからない状態であったけど、身長と年齢的なものから、かみさんは迷わずDNA依頼をしました。腐敗の関係上、火葬にも立ち会い、結果を待って40日後、親子関係はないと連絡を受けて、また振り出しに戻りました。

現在の家族の暮らし

最初は、うちに避難してきてっていう老夫婦がいて、そこに1週間お世話になって。これ以上迷惑かけちゃまずいってことで、自分たちで探してたら、吉里吉里の親戚の家が1軒、「古い家が空いてるから使って」と親切に言ってくれて。茶碗でも何でもあるものは自由に使っていいからって。ほんと有難くほとんど不自由することなく、ふとんもそこの家のものを使わせていただいて。俺達には子どもがいないから、今はお義父さんとかみさんと3人で住まわせていただいています。今までの当たり前の生活から一変して、物資をいただいたり、いろんな方からご支援をいただいたり助けられたり、ほんと感謝しております。物はまた働いて買えばいいけど、やっぱり家族がみんな無事でいることの幸せ、命に変わるものなど何もないし、命あってだし。家がなくても、「生きててさえいてくれれば」と日が経つ毎に強く思うし、昨日までは元気だった人が心の準備もないまま突然いなくなる訳だから、かみさんも気持ちの整理がいつまでもつかないと言います。

初めの頃は探しながらいろんな手続きやら、家の回りの瓦礫の片付けやらで、無我夢中で向き合える余裕がなかったけど…。吉里吉里地区は吉祥寺の和尚さんのご配慮で、四十九日、百ヶ日と合同でやってくれて、お位牌もいただいたり、一生懸命つとめていただきました。7月には行方不明者の死亡届の受付も始まって。その少し前に和尚さんに相談し、見つけたブラウスとハンカチをせめて遺品としてお墓に納めさせていただきました。

仮家だから小さい仏壇をいただいて、そばに一緒に置いてるんだけど、小さい家でもいいから早く建てて、仏壇を買って、早く安心させたいなって、かみさんと話してます。お義父さんはお義母さんに頼ってきた人だから、俺らには寂しい顔見せないけど、一番寂しい思いしてるのはお義父さんなのかもしれないなぁ。今でも明るい声で「ただいま」って、お義母さんが帰ってくるような気がするし、旅行に行って帰って来てないような、何年経っても、そんな気持ちなのかもしれません。手元に引き取る事もできず、見送る事もできず、かみさんはせめて母に似合った生花を衣装代わりにしていただきたいと、信じられない複雑な思いを胸に抱きながらも常にきれいな生花を飾ってあげてます。

お店の再開

震災のあと1ヶ月くらいしてから、本部から仮設でやるかやらないかっていう意思表示を聞かれて。お義母さんが見つかって、お葬式もあげてやって、一つ決まってからまた次に行くっていうのだったら良かったけど。まだ混乱してる、探している最中にそういう話だったんで、いろんなことを一度に考えてしまって、ちょっとすぐには返事できなかったです。仕事していかなきゃ自分達も生活できないし、従業員の事も考えて行かなきゃいけないし。でも、再開するにも辞めるにも勇気が要るし、先が見えないだけ不安も出てきたりするし、なかなか前向きな気持ちにはなれず。今まで24時間365日、目一杯休まず仕事してきて、正直言えば、最初店もなくなった時は、これを機に辞めようかとも考えたけど、地域の事を考えると、今必要なものが買えない、遠くまで車で行かなきゃ買えない。だから、地域の人のためにも再開するべきだよなと。なにより、商売人だったお義母さんが「私の事はいいから早くやりなさい!」って気合いをかけられてるような気がするよねって、かみさんとも話して。それで、やりますと返事をしました。

やると決まって、自分でやれることはやろうと思い、ハンマー持って店の基礎を壊したり、瓦礫を片付けたり。大工の血が騒いだのかな(笑)。本部の人が打ち合わせに来るたび、「なんで店長さん、そんな真っ黒に焼けてるんですか」って不思議に思ってましたね(笑)。かみさんは書類や手続きに追われて、体調を崩しながらも、「泣いてばかりいる姿を見せたら、母さんが余計心配する」「母さんが見ててくれてると信じて笑顔で元気にがんばるんだ」って、気を張ってます。

まだまだ先が見えない状況ですけど、今は早く開店して、地域の人達に必要なものを、便利さを与えること。昔の商店だった時代からずっと、地域の人達に育ててもらった店ですから。

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