自己紹介
名前は川原弘平(かわはらこうへい)。昭和23年11月1日生まれで、今は62歳。岩手県上閉伊郡大槌町の吉里吉里で生まれたんです。
うちの親どはね、五十集場(いさばや)って水産加工をやってたがために、俺がちっさい時は、親は堤防の外の加工場へ毎日行ってたんだ。毎日海にちらっと行って、風呂に入って、家に帰ってくる。
高校は、宮古の水産学校に3年入った。それで築地で7年かな、魚を売ってた。それから、今の仕事継ぐためにこっちに帰ってきてだな、そん時に保育園士の嫁さもらって、今の商店の仕事をやるようになった。
子供は娘が1人に息子が2人、遠野や宮古に住んでる。家族全員無事だったども、津波で家さ流されたから、今は吉里吉里中学校にある仮設さ入っている。
商店では、ポットとか瀬戸物とか、あとプラスチック製品とか靴とかを売ってたんす。ほんと小さいスーパーみたいな感じ。最初は食料品も売ってたんです。薪やったり炭やったり、練炭とかも。それから、先代の社長がプロパンガスが良いってことで、プロパンガスを始めて、灯油やってお米屋さんをやって。「生活必需品は、川原商店に来れば何でもあります」って感じだった。
吉里吉里の過去
昔は何もやる事ないから近所の子を集めて遊んでさ。今はそういう子供はないんでねえべかな。家ん中でゲームやったりとか、そんなんやってる子供が多いでねえがな。今はもうどこの子供か分からなくなってる。だから自分が子供の頃の方が、一番良かったんでねえかな。今頃になればアワビ取ったり、ウニ取ったりしてた。俺さ小さい頃は、家にいないんだもの。だって早く帰ってくれば、また遊んでこいって言われて、その辺で皆で遊んでんの。結構、上から下までつながりがあって、全部が親戚みたいな付き合いがあったの。
だから、米が足りないから米貸してとか、味噌足りないから味噌貸してとかしてたな。全部が風呂あるわけじゃないから、やっぱ風呂があるところに風呂もらいにいくの。だから、1軒の家さ行って代わりばんこに、何十人って入るお風呂もあるものね。
昭和30年頃、オリンピックのあたりだがね、カラーテレビになったとき、吉里吉里にはお寺だけにテレビがあったの。それで、寺の前にテレビ置いてるとね、皆テレビを観に来るの。そやって、お寺さ上がってって、相撲見たり、皆で風呂さ入ったりしてたな。
漁業まち吉里吉里
昭和30年頃は漁業の最盛期でね、役場に勤めるよりもイカ釣りした方がお金になるって言われるよった。役場勤めったって、1ヶ月で1,500円もらう時代だったから。それで役場辞めてイカ釣りした人たちもあるの。そのぐらい海で働いてる人たちは収入があったの。イカ釣りやらをやってれば、1日に2,000円も3,000円も取れた。あの頃は、船に乗ってればいがった。昔は、サンマが獲れれば全部、魚カス、肥料にした。そのくらい取れたんだもの。だから、アワビだのウニってのは、稼ぎというかボーナスみたいな感じなの。11月から1、2月まではアワビ、次はウニ。あとはワカメ。だから、収入源が結構あったんですよ。
だから吉里吉里にも、イカ釣りの船が20杯ぐらいあったのかな。夕方4時頃に出て、8時から9時頃になれば一旦帰ってくるわけ。船が入ってきて、それを皆で、「浜うけ(浜向け)」ってのをやるの。まあ「浜へ迎えに行く」だ。獲ったイカを持ってきてね、全部裂いて、それを今度は干してスルメにやったわけだ。
ワカメ取りの時は、学校が休みになって、皆、家のワカメ取りだの手伝った。
学校さ行く時はね、その辺にスルメを全部干してるわけ、それを2、3枚盗んで行ってから学校さ行ってさ。自分たちも手伝ってるし、親戚もなにも一緒だったから、どこのスルメも取って良いわけ。盗むて言ってもそんなに盗むわけでもないし、いっぱい干してるから、縄に干した2枚か3枚かを盗んでくるわけ。そすっとね、あいだ空ぐから、なくなんないように寄せていった。
7月になればね、ジャガイモをどこでも、海岸の端で作ってたから、鎌を持って行って、ジャガイモを盗んでいったの。それも自分のところのジャガイモでねえんだよ。何でもいいんだ。その辺にあれば、何積んでいっていい。リンゴが成ってれば、リンゴ盗んで食べたども。ちょこっと頂いてってか。子供のころ、俺はそんな事ばっかやった。ほんとに。
転換期を迎えて―俺がちっさい頃は―
ちっさいころは、地区ごとによって、海水浴に行くの。保育園でも小学校の1、2年生の子供はね、胸から首の間のとこまで海に入って、岩の上で待つの。そこにカゴを持たせて立たせておくの。そって中学生たちは皆、アワビでもカキでも獲る。小学校低学年の子供を、カゴを持つってことで連れて行くの。中学生も小学校の1年生の子供も、取り分を分けるのは皆同じなの、均等割。ちっさい頃からそういうことばっかりやってた。お隣の子供の面倒を見るって感じ。それも俺がちっさい頃はずっと続いたな。昭和40年くらいまでやったべか。
その頃は、堤防の海側に加工場があって、山側に畑があったんですよね。商店の目の前は全部田んぼ。この辺の人は、農業をやってた。だけれども吉里吉里の場合は、農業ではお金に全然なんないの。自分のとこで消費するくらいの畑や田んぼを作ってた。海岸線の米って、高価に売れないし、スペースも狭いでしょ。あと、やませが吹くから良い米でないんですよ。だからね、田を作るっても、米作るっても、半端なところ。漁業も、今はもう、釜石の方で勤めてる人が多い。
昭和49年頃にね、町で分譲をやって、田のあったとこに全部家が建ったんです。新しい人がどんどん家を建てたんです。津波の事は考えるども、そんなに津波ってのは来ないからね。だから、皆そんな感じで、嫁さんもらう前に家を建ててたわけだ。その頃、皆、水産学校を辞めて、他の地域で加工場やってる人も辞めていった。魚もそれくらい揚がらなくなった。今の商店を先代の社長から継いだのも、ちょうどこの頃だな。
津波が襲う―まさかそこまでとは思わんで―
あの地震だから、津波があるっつの分かっとったから。1回波来た時、そこの堤防のある神社のそばまで降りに行ったの。角にある病院とこに行ったら、そこの下の家のおばあさんが2階に上がってたの。1回目の波で流れなかったから、「おばさん2階に上がってればいいがら、2階に上がっとけ」って2階のおばあさんに下から言ったの。
2回目にすごい波が来たとき、家族は神社へ上がった。俺は角に車置いておいたから、走ってきて車に乗ろうかなって思ったども、エンジンかけてる間に流されんなあっと思って、そのまま商店の前まで上がってきたの。おばあさんには、「いいなあ、そこにいれば大丈夫だからなあ」って言って、その後波が来たの。それで、おばあさんの家さ流れて、今さ見つかんないの。
2回目も1回目も波はすごかった。まさか商店があるこっちまで上がってくるとは思わなかった。家がそっくりそのまま流れたんだよ。だから流れてきた家の旦那さんが亡くなったっつか、見つかった。だから、波が引いて商店のとこまで来たらばね、「助けてけろ」って言って、運良く生きてる人もいたけれど、やっぱ結構、亡くなった人とか遺体とかあったよ。だから、あっちにもこっちにもいたからってことで、「じゃあ、こっち側集めっから」って、人を集めた。最初はずいぶん独り酒したんだ。
避難所暮らし―まさか東京からワカメさを―
最初は、近所には全然出られなかった。バスも通らない、車もない、足もないって感じで、どこにも行かれなかった。
食べ物は、最初、避難所にいた人は、朝は手の平に収まるくらいのおにぎり1個、夜も同じぐらいのおにぎり1個。昼はおせんべい1枚にキャンディ1個。そういう生活だったの。外で働く人たちもちっさいおにぎり1個。皆おんなじ食事。10日くらいは続いたんだべか。
物資が入ってくるようになって、初めてお米とかが入ってきたら、ちょっとおにぎりをおっきくして食べさせっかって言って、食べさせた。だから、しばらくは野菜ばっかり、それもあったりなかったりだった。ご飯と作りもんだけ。だから、今までの生活と反対になったの。生魚もないから、魚なんて学校の缶詰めが入ってきたり、たまに知り合いが獲ってきたタラとかな、そのぐらいなもんだよ。
だから、築地から今度魚さ送ってもらってさ。この辺は、ほんとに3月つったらワカメの養殖で忙しいわけ。まさか東京から俺たちワカメさを送ってもらうとは思わなんだ。あとは、沼津だったか、カツオを送ってくださって、カツオのお刺身を食べた。
最初は、水が出なかったども、ここは沢水が豊富だからよかった。俺なんかは、朝早よ起きて顔洗うのは山さ行った。水はどっこにもあるんですよ。沢っつう沢の全部から水が出てる。水がないところは皆ここから汲んだの。バケツとかポリタンクとか持って、水入れてボイラーに水入れてね。毎日水汲みしたんです。
被災者の影―俺は教えっども―
最初、避難所の小学校にいた時は二百数十人いたっけ。長くなってくればいろいろと悩む事もあるけれど、皆知ってるし、皆親戚みたいなもんだから、全然間仕切りをしなかった。よその地域では、いろんなところから人が来るから、必ず間仕切りすんだけども、吉里吉里には要らない。
避難所にいる人は、情報がいっぱい入ってくるからいいの。うちらみたいに、忙しい忙しいって商店にいればね、何の情報も入ってこない。配給も何もない。だから、着替えのシャツがなくて、避難所に行ってシャツ2枚もらったの。
家が流されない人で、配給を全部もらった人がいだったの。そうしたところが、シャツだの何でも貰って、全部だよ。家さ流されない人が、3回も4回も通って、小さい服も全部持っていくんだよ。それで、小さい服が入んなかったら、捨てるってんだよ。なんでそうやって。だから俺は、何回も言うんだっとも、昭和8年の津波ん時、毛布がなかったわけだ。そこで、軍隊が毛布を持ってきたんだって。だれば、津波に遭わなかった人が毛布をもらいにきたんだども。津波の被害を受けなかった人は、「下がってくんな」って言われたども。
だけど今ね、ここの地区でもそうだども、被害に遭わない人が一番もらってる。遠野へ行って、米30kgもらったり。だって、被害に遭った人らは、車もなければ遠くに行けないのだもの。
俺は教えっども、普段、親戚にでも誰にでも、良い事をしない人は、何かあったとき助けてもらえないの。だから、人に良い事をやってれば、避難所にいなくても良いの。
やっぱ、ここが一番いい
逆境にあっても、怒ったりしても仕方がない。これも、自分だけでなく、皆だからね。家がなくなったからって、悲しいことでねえし。皆同じ立場だから、これから何をするかって事も、そんな事考えていられない。こうなってしまえばさ、皆、同じだと思えば、悲しいっつう事もない。
やっぱ地元の方がいいだっぺか。やっぱ海ある所は海の方が良いよ。やっぱ海のない生活っていうのは、考えられないってこった。やっぱ浜に行ったり、山に行ったり。やっぱ、ここが一番いい。