田中信博(たなかのぶひろ)です。昭和58年9月8日生まれ、今年28歳です。吉里吉里に戻ってきて5年ぐらいになります。今は、父親の水産加工の仕事を手伝っています。お爺さんは漁業組合長。曾爺さんも、みんな漁業関係です。
都会の空気は俺に合わないです
小学校、中学校と吉里吉里で、高校は釜石に通いました。工業高校に行って、初めは半年ぐらいFRP(繊維強化プラスチック)を作る会社に勤めたんですけれども、作業は匂いも凄いし、腰に負担がかかって体調が悪くなって。身体に合わないってことで辞めました。しばらく家の仕事を手伝っていたんですけど、まだ若かったし、親父に「好きなことはねえのか」って言われて。車が好きだから東京の、自動車整備の専門学校に行くことにしました。無事、ディーゼルとガソリン車の国家資格2級を取りまして、横浜の会社に就職したんですけれども、社長と折り合いが悪くてね。社長は雑な仕事のやり方をする人だったから喧嘩して1年9カ月で辞めました。で、こっちに戻ってきて、あとは、ずっと家の仕事を手伝っています。
同級生たちも、ほとんど都会に出ました。都会に出て、いろんなことやって、仕事を替えてって結構多いです。でも、自分はもう今さら、どっかに行こうという気はないし、都会の空気は俺に合わないですね。
小学校のときの同級生は40人ぐらいでした。そのうち吉里吉里にいるのは、俺も含めて5人ぐらいかなあ。10人もいないですね。大槌とか釜石あたりにアパート借りて住んでいるとか、近くに勤めてちょこちょこ帰ってきているとか、そんなのも入れると10人ぐらいです。戻っている同級生の大半は女性です。男は少ない。仕事は工場に勤めるとか民間会社の従業員で、漁業関係に携わっているのは、ほとんどいません。
うちらの同級生はお祭りの参加率が悪いんですよ
もともとはお盆が過ぎて、すぐに17、18日が吉里吉里の祭りだったんですが、何の都合かわからないけれども、8月の最終週になりました。同級生はお盆で帰省して、そのままお祭りに行く。だからお祭りを見る人もいっぱいいて面白かったし、自分も鹿子踊り(ししおどり)に参加していたけれども、8月の最終週になったら、やる人だけで見る人はいないし、つまらないから止めちゃった。今、鹿子踊り、俺の同級生はゼロです。
こっちに戻って、消防団に入らねえかって誘われたこともありますけど、俺はいいって断りました。俺、不器用なんで。消防団に入れば、夜集まって酒飲んだりすることもあるんですけど、でも、その時、火事起きたらどうするのよ、と思う。俺、酒はあまり好きじゃないし、今日は飲むぞっていうときは飲むけど、そんなに飲まなくてもいいかなって。仕事になると仕事第一で、二股かけることができない性分なんです。
爺さんが心配で、第2波の後、自宅へ
うちの加工場は、安渡(あんど)地区の水門の外側にありました。だから、地震のときは、水門の外にいたんです。「ああ、結構揺れたなあ、すごい地震だなあ」と思って外に出たら、地面がぱっくり割れて、水が噴き出した。やべえ、逃げるかって。電気も切れたし、携帯も情報が入らない。唯一入ったのはラジオでした。うちの母親が車でラジオかけて大津波警報を聞きました。で、とりあえず、俺はバスと保冷車を2台、高台に移動して。親父も4トン車を2台、水門の中に移動したんですけれども。もしかすると親父は、あと数分遅かったら死んでいたと思います。
俺は、親父よりも先に逃げました。家に爺さん一人だったから、俺、見に行くって。自宅は吉里吉里の国道沿いで、すぐ目の前が海です。歩いて5分もしない、そんなところに家はあるし。爺さんは大正11年生まれ。88か、89かなあ、そんな歳なもんで。
津波が来た時、家には叔母さんがたまたま来ていて、爺さんと2人だったようです。爺さんは「何てことねえ」とか言って、もたもたして逃げようとしなかった。津波が来た時は家の3階まで上がって、身体を持ち上げて、首から上だけ水面から出た状態で助かりました。
で、俺の方は、結局、家には帰りつかなかったんです。吉里吉里に行くには赤浜をまわるしかなかったんで山越えして抜けたんですけど、そのときにはもう津波が来ていた。高台から「なんだ、これ」って津波を見ていました。1回、津波が来て、凄かったのは第2波でした。それが引いて、また来るかもしれないってときに、まだ、下の方から逃げてくる人がいた。「誰だ。この爺さん、もたもたして」って思ったっけ。とりあえず、その人をおんぶして上まであがって。「まだくっべか、まだくっべか」って思ったけど、とりあえず、第2波が来た後で、家の方に行きました。
家は、窓ガラスが割れて、鉄骨がいっぱい刺さっていました。爺さんは、もうそのときは、小学校に避難していたみたいですけど、そこらへんにまだ残っている人がいるかもしれないと思って。ひとつ上の先輩の奥さんも津波に流されて…。脚立に毛布をかけたのを担架がわりにして、みんなで担いで上がったんです。結局、駄目だったんですけれども、小学校まで担いで上げました。
避難所では受付を担当しました
津波の後は自宅の片付けもやらなければならなかったんですけれども、それは親父に任せて、俺は、小学校の避難所を手伝うことにしました。そっちの方が情報入ってくるし、「何かかにか、うちにも必要な情報を持ってこれるはずだから」って。親父には「いい機会だから人の顔、いっぺえ覚えろ」って言われました。
避難所では窓口を担当しました。避難物資とか、受付する役目です。結局、小学校から下は全壊じゃないですか。だから、最初は小学校から上、4丁目の人たちがお米を分けてくれました。自衛隊の物資が入るようになったのは、何日後だったかな。2、3日経っていたんだじゃないですかね。
小学校に来て、最初に確認したのは食糧あるか、水は出るか。水は、貯水タンクに残っている分だけはありました。火は、ガスがプロパンだったから、点いた。
トイレは最初は外。でも、避難所は人が多いし、外はすぐにいっぱいになって、学校の水洗トイレを使うようになりました。水はプールの水。消火栓のコックひねれば、屋上のプールの水、使えるんで、それで流そうってことにした。若い連中、皆でポリタンク、担いで上がって、「このバケツを使って1杯か2杯で流してください」って。10人ぐらいで、今夜は誰が担当って、交代制で夜番もやった。そのうち、ようやく水が出るようになって、「ああ今夜から水の配り方しなくて、ゆっくり寝れる」って思いましたよ。
すべて自分たちの判断でやりました
受付には、いろんな人が来ました。瓦礫を撤去して道が通れるようになると、夜、酔っ払ったような感じの変な人が来たり。「なんだおめえ、警察を呼ぶぞ」なんてこともありました。昼間は「誰々さんはいますか」って、被災者の知り合いが訪ねてくることもある。そうすると名簿を見て、その人を探して、呼んであげたりとか。「物資が来たぞ」って言われたら、それを搬入して分配する。食糧は男が中心にやりましたけど、衣料関係は女の人たちに任せました。やっぱり女物もありますから、男はやりづらいですね。
外からのボランティアも、早い時期から来たんですけれども、ちょっと問題が起きて。夜中にボランティアの人が、確保したはずの毛布がないって騒ぎだして。「みんな寝ているのにうるさい。帰れ」ってことになった。そんなことがあって法人とか団体のボランティアは受け付けるけれど、個人のボランティアは受け入れしないことにしました。たとえば、避難所で物がなくなったときに、個人だと、誰もその人のことを知らない。うちら吉里吉里で知らないのは、その人だけだってことになると、当然、その人が怪しまれることになりますよね。何かあったとしても責任取れないし。だから「個人はごめんなさい」って。
だから、避難所の運営は、基本的に地元でやったので、特に最初の頃は忙しかったですね。人手はあるはずなのに、人が足りない。結局、やってくれる人と、やってくれない人がいるんですね。中には、一所懸命やっているんだけど、カラ回りしている人もいたりして。避難所にいて、人を見るようになったっていうか、勉強になりました。
吉里吉里は、全部で2,000人以上いると思いますけれど、俺のことは、みんなわかっていましたね。おまえ、どこの孫だなとかって、よく声をかけられました。「おまえは、うるせえガキだったなあ」とか、「屋上でドラム叩いていたなあ」とか。俺も、上の上の代まで言われると、わからないけれども、説明してもらうと、「ああ、そういう関係なのか」って思うところもあって。地元で人脈作るという意味でも、いい経験だったと思います。
加工場は年内に再建します
最近は、避難所の方も、だいぶ落ち着いてきたんで、家の仕事を手伝っています。家の
片付けはほぼ終わって、今、加工場を建設中です。自宅の1階を改装して工場に、2階、3階は倉庫にして。あと、2階には従業員が休憩する場所ぐらいは作ろうと思っています。社員の数は、もともと少なくて、パートさんまで含めて30名足らずですが、今は全員、一時解雇です。俺の場合も今は、失業保険だけが収入です。
国の補助金は、県の話だと、各工場に4千万ずつ補助が出るらしい。額から言ったら、当初の話の3分の1かな。結局、あっち助けて、こっちは助けないっていうと不公平だから、一律4千万円になったようです。だから、再建する工場の設備も最小限。いらないものは買わないし、後からでもいいものは後から買おうって。工場の規模も、従業員の数も、3分の1ぐらいに減らすことになると思います。
再建の目標は今年10月ですね。何故だか、わかります? そう、サケ。そこは目指したいですよね。だから、あと3カ月。でも現実には、設備も入れると11月かな。今年じゅうに出来上がって、1カ月だけでもサケの加工をやれたら、少しは違いますから。
工場の目の前は海だし、怖くないかって言われれば、怖いなあっていうのはありますよ。でも、そんなこと言ってる場合じゃないし、何もやってないより、やらなきゃならない。やったもん勝ちです。で、実際に始めないと、うちで出していた商品は商標登録とかしていなかったんで、持ってかれてしまうってこともあるかもしれない。早く仕事を再開しないと取引先もなくなりますから。「待ってくれているうちに早く始めないと」っていう気持ちがあります。
うちはサケ以外にも、一夜干しとか、サバとかサンマとか。みりん干しもやっていました。だから、加工場が動き出したら、外に出すと同時に、地元に直売価格で売る、そういう考えもあります。だって、みんなも喰いたいじゃないですか、サンマでも何でも。それに、うちも、作ったら工賃かかるけど、寝かせといたら、いつまでも元が取れないでしょう。だから地元にも出したいなあと。早く吉里吉里の民宿でも、魚の切り身とか、焼かれたら嬉しいですよね。
とりあえず、今の目標は赤字にしないこと。儲かることを考えるんじゃなくて、損にならないような仕事をしたいと思います。
これまで、うちは盛岡水産とか、中央卸市場とかそういうところに出していましたけれど、大手との取引は、結構、損していると思います。でも、大手チェーン店、ジョイスとか、イオンなんかと直接取引するには量がないし。そうなると、市場に出すしかないですよね。
直接、消費者とつながるっていうのは、まだ先の話だと思います。そういう仕組みが出来たら、きっと、乗りますけど。まずは自分の力で、前哨戦みたいなものをやるしかないんじゃないですか。
若い仲間とともに
若い仲間は、少なからずいる。いないわけではありません。外に出ている連中も、自分の生まれ育ったところを嫌いになるなんて、そんなのいないはずだから。
避難所で物資の窓口やっていたメンバーとは、この間、仮設住宅でバーべキューをやりました。震災後から親しくなった人もいる。佐野さんなんて、もともと吉里吉里の人じゃない、山形の人で。奥さんは吉里吉里の人で、うちの兄貴と同級生なんですよ。だから歳で言ったら、うちの兄貴より5つ上だけど、震災後、知り合いになりました。
うちの兄貴は県職員なんです。東京水産大学を出た後、釜石の水産技術センターに勤務して、今は県の振興局、水産部にいます。だから水産関係の話は、結構、相談に乗ってもらえる。
同級生とか他の仕事をしていた人が、水産加工の仕事に就くっていうのは難しいですね。水産加工の仕事は給料が安い上に、立ち仕事が多くて、仕事としてはつらい。工業関係も、油はねとかあって大変ですけれど、まだ水産に比べたら楽だし、給料がいい。だから、工業関係の人から見ると「水産関係は疲れる」っていう。その逆は、楽だって。
でも、たとえば、高校生とか。将来、若い人材を雇えたらいいなあと思います。若い方が頭やらかいし、教え甲斐もある。頭のいい人が入れば、パソコンやったり、インターネットやったりしてくれればいいし。そんなふうに考えています。
そのためにも、まずは工場を再建して、人が働くところを作っておかないとね。そうじゃないと、どんどん人が抜けていくから。吉里吉里に人を残すことを考えておかないと。
外の人にはこれ以上、助けてくれってわがままは言えないような気もするから、まずは、自分たちでやります。あまり期待をしないように、でも、少し期待して待っていてください。