これからも、海で。

Submitted by Tokyo Foundation on
Item Description
震災での教訓…。それこそ、絆じゃねえの? ね、1人で何もできないもん。
Translation Approval
Off
Media Type
Layer Type
Archive
Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 堀合俊治さん, Interviewer: 古澤杏奈
Language
Japanese
Media Date Create
Retweet
Off
Japanese Title
これからも、海で。
Japanese Description

自己紹介

名前は堀合俊治(ほりあいしゅんじ)。名前の由来はわかんねぇ。親父の妹がつけた名前って。昭和38年1月13日生まれ。48歳で、家族は父がいます。あと、1こ下の妻と子供が5人。長女が26。次女が24、長男が22、三女が18、で、四女が17。

漁業、養殖漁業です。父から受け継いで。

自分は兄弟は4人です。姉が2人と弟。会うのは年に2回ぐらいかな、お盆と正月ぐらい。魚とか、そんなに食べないんだよね。年間通して見てっとね。たまには食べっけどさ。見て腹いっぱいになんだ。

毎日の楽しみ…楽しみねえ、特にないね。お酒は普段飲まない。なんか、集まったときだけ。嫌いなわけでもねえんだけど。

自然の中で育った

生まれはここ。住めば都さ、ふふ。小さい頃はどうだったべねぇ。自分が自分見るのはどうなんだろ、わかんね。かわいかった(笑)。まあ、小さい時から海が好きだった。勉強してなくてね。好きではなかったねえ。小学生の時はねぇ、山にいたり海に行ったり。自然がいっぱいだから、夏は海に行ったり。冬は…雪が降ればスキーしたり。雪降んないとこだからね、あんまり。積もったら、水まいて、氷を凍らせて。

中学の時は柔道やってた。で、高校のときは空手。きっかけはねぇ、親戚で2こ上の人に誘われてやってみて。でも、だめ、だめ(笑)。中学の3年間は、まあなんとか頑張った。空手もダメさ。遊びさ(笑)。

高校はここ、宮古の水産科。入試をしないで入った。うちの時から推薦入学制度ってのが。成績良くなくても行けたんだよね(笑)。面接だけだったからね。学校の勉強は好きじゃなかったけど、体育と音楽は好きだった。水産学校は音楽ねかったから、残念だった(笑)。得意でもねぇんだけどね、好きなだけさ。

で、高校終わってから、北海道の船に。

漁師デビュー

最初はね、高校終わって、マグロ船に行くことになってだったんだけども、「明日、船に来てください」って。前の日に来たんですよ。で、無理だから、マグロ船はやめだったの。なかなか交通の便が悪いんで。

北海道に行ったのは、たまたま、地元で船頭やってる人がいだったんです。その船のね。で、その、人がいないとか足りないとか、乗ってみないかっていうんで、行っだったんです。

まあ3か月に1回くらい入んだ、船って。魚がいっぱい獲れれば、いっぱいなれば入ってくる。出航から入航までだいたい3か月周期なんです。3か月間は、海の上。初めて3か月海にいたのは高校終わってからだから、18か19。3か月、短けぇよ? まあ、そんなもんだ。長いとね、4か月くらいかかった。さびしくなったりはない。んまあ、入ってくっとさぁ、休みあっから、1週間くらい。

海の上で一番苦労したことは、最初…だねぇ。なにもわかんねかったから。ベテランの何十年乗ってる人も、高校終わって行った人も、もらう金が同じなんです。だから言われるわけ。俺だって叱ったよ(笑)。

アメリカへ

北海道で7年。それから1年、アメリカ。欧米の会社に。タラ獲る仕事。船頭が、行かないかって。で、この地区から5人。それまで海外へ行ったことは、たまに燃料補給とか、それ以外はない。船造る段階から、会社で一軒家借りて、アメリカに滞在してたん、3か月ぐらい。ここをこうしてくださいって、日本語で。通訳がいだった。仕事しやすいように船を造る。

まあ、この地区から5人行ったんだけども、買い物行っても米がさ、いっぱい並んでんのさ。どの米がおいしいのか、日本の米ないからさ、わかんないから。で、一応ちっちゃい袋、全部とりあえず買ってみて、じゃあこれにしよう、って。そんで、炊事当番を決めて。毎日ね、今日は誰、今日は誰、って。

1か月ごとにひとりずつ交代、飛行機で、日本に帰っていく。大変なの、ね。ひとりで帰ってくんの、乗継でしょ(笑)。大移動、大変なのさね。船入って、次交代だぞって言われるとさ、…1人呼ばれてさ。さよならして、ふふっ。笑い話なんだがね。みんなで一緒に航海したのは最後だけだ。最後の航海だけ。今度の航海で切り上げで、清算だよ、って言われるときだけ。

あっちの人(アメリカ人)が、20人乗ってたんだね、船に。肩身狭い(笑)。その、アメリカの船員って、ちょっとずるいんだね、稼がねえ。威張ってんだ。めんどくさいんだって、ねえ。アメリカの人ってのは、融通が利かないっつうかさあ(笑)。メキシコ人とかさ、ポーランド人とかは、仕事覚えたいから日本人に来るわけ。そういう人とは仲良くなれる。でもアメリカ人とは、だめさ。仕事覚える気ねえんだから。

だけど船員は、日本人がダメだ、って言ったらもうクビなのさ。日本向けの製品だからっていうことで、権限があった。働かないから、今度終わったらいいよって、辞めさせたこともあった。仕事できなくてもさ、一生懸命やってるのはいいのさ。そういうのは、優しくね。ずるいのがいんのさ。仕事中にさ、隠れて寝てたとか、ふふ。いねえぞ、って言えば、隠れて寝てた。一生懸命さがない。ご飯食いに行けば1時間…長い(ナイフとフォークを使う真似)。こっちはおにぎり食ってる(笑)。まあ、ひとつの経験。勉強にはなんねぇんだ。思い出だね。いま行け、ったって行けねえ、ふふ。

で、そのままここで仕事手伝って。船に乗っててもよかったんだけど、ねえ、船の方もパッとしなかったから。いま、父は引退してます。

海岸にいるとき、地震が来た。

自宅も被害を受けた。まあ形が残ったからねえ、よかったんだけど。震災当日は海岸にいた。ちょうどね、ワカメの収穫時期に入って、準備してだった。13日か14日あたりが収穫すっかな、って考えてだったから。

揺れたわけさ、うん、かなり。で、うちから電話来たわけさ。で、おじいちゃん(父親)が散歩に海に行ってんだ。大変だと思って、仕事は投げて、散歩コースを車で、揺れてる中走ってったわけさ。一周。長かったんだよ(笑)。でも、いなかったん(笑)。地震で海に落ちたかなと思ってさ、ふふふ(笑)。考えたんだけどさ、いや、ここにいられないなと思ってうちに上がってきたわけよ。したらうちにいだったのよ。ちょうど帰ってきた。

そんでみんなで吉里吉里小学校まで避難して、歩いた。で、学校に上がった時に、もう引いてだった。引き波。渦巻いてた。で、間もなく津波が来た。

長女は仕事で隣町の山田に行ってだった。長女はもう死んだと、あきらめたの。次の日やっぱりね、山田に仕事に行ってだった男の人たちが歩いて帰ってきた。で、山田どうだべって。山田も、あの辺がだめでねえか、って言われててさ。行くにも行けないし。で、5日目で行った。娘は避難所にいるみたいだよっていう情報が入って、夕方5時ごろその話聞いて、行ったわけさ。寒かったね、雪が降ってて。で、そこにいるだろうと思って、1個目の避難所に行ったらいなかったの。で、あの避難所どこですか、って聞いて…。道がわかんないわけさ。津波でなくて、火災あって、燃えたところもあった。そこの間を行ったわけさ。で、そこの避難所に行って、いなくて、3件目に行って。暗かったん。被災者の名簿を懐中電灯で見て、見つけて。9時ごろだったかな、みんな休んでてさ。騒がれて、懐中電灯もつけられない(笑)。ね。ちっさいこえで名前呼びながら歩いて。で、知ってる人が、ああ、いるよ、って言われて。

息子は、3日目で帰ってきたん、釜石から。沖に船で避難したんだけど、3日目に水をしょって歩いて帰ってきた。2リットルのボトル6本ぐらいだったか。

電気が使えなかったから、ろうそく生活。こんなに長いのは初めて。1か月も2か月も電気がねえのはちょっと、大変だね。結婚式のキャンドル灯して。それ、なくなった(笑)。暖房もないし、大変だったんだね。雪降ったのさ。油はないし、物を買いに行くにも車のガソリンがない。なんとか油かき集めてさ。電気ついたとき、嬉しかったね。

水も大変だったのさ。井戸水を汲んだりさ。電気より、水のほうが使えたの遅かったん。3か月くらい、もっと早かったかな…。こんなにひどくなるとは思わなかった、というより、見当がつかなかった。考える余裕なかった。

今は直して、自宅で住んでます。震災後忙しかったのさ、逆に。うちがなくなったんでば良かったんだけど、残ってしまったから、片付けが結構かかったのさ(笑)。2階は寝るだけだから何もないわけさ。ほとんど1階にあってさ。全部捨てたわけさ。家を直してる2か月ぐらい、姉のうちがちょっと上のほうの家だったから、そこにいだったんです。家族全員で世話になって。

はっきりしない行政が、困る。

何するにしてもさ、県のほうとか国のほうとか、はっきりした数字出てこないんだね。船が流されたんだけど、最初は3分の2の補助だった。それが9分の8に増えて、また3分の2に戻ったわけさ。最終的にはっきりしたのがわからないまま。

だから自己負担が、まあ、2,500万の船だったら、1,200万負担ね、現金で。お金ないのさ、ふふ。でも船だけ造っても漁はできないから。今やってる養殖施設も補助の対象なんだけど、なんぼ補助だかわかんない。わかんないけどやってんだよ。施設自体は補助なんだけども、その他の、ホタテの吊るすヒモとか、かごとか、どうすんだろ。陸上の建物もなくなったし。施設も全部なくなったし、道具関係から、機械類も。わかんないままやってんのさ。先が見えない、まだねぇ。

津波については、来ないと思うけどね。防潮堤を高くしても、何しても、大変だべね…。逃げる。逃げるしかね。今までの津波警報でさ、来なかったのさね。実際来ても小さい。そういうのもあったのさね。最初ここに津波警報が、予想3メートルっていうので出て、それがだんだん上がって、最終的に何なんだか…そうなったころには来てんだね、津波がね(笑)。当初3メートルで、3メートルならここまで来ねえやっていう人が結構いたと思うんだね。

沖のガレキ、結構あんの。それが終わんないと、施設も張れないわけ。業者からは、ガレキは撤去しました、って言うんだけど、終わってないのさ。残ってるのさ。んで、この前、県の水産部の人を呼んで、船でずーっと見てきた。終わってないよ。ちょうど施設を入れようか、って言ってる場所に結構あんだもん。困るね、かなり。だから、ホタテの作業は進んでないね。

堤防壊れてさ、波入ってくるわけさ。あの堤防、早く造ってほしいな。船つけておかれない。この15号の台風で1隻沈んだのさ。せっかく残ったのにねえ。

絆じゃねえの?

県外へ行った友達はいねえな。養殖漁業者は減ったね。3分の1になった。震災前、ここ吉里吉里、30人ぐらいだった。それが8人までいったかな。まあ高齢もあるんだけど、若い人だけ残った感じ、40歳くらいの。

いま、養殖のほうの作業を共同でやってる。ワカメのほう。まあ今頑張ってやってるん。ウニは採れなかったからね、今年はね。カキのほうは、施設設置して、種ガキも持ってきて、来年出荷できると思うんだけど。

カキ出荷してる、東京のヒューマンウェーブさんっていう会社があって、早々とお見舞いに来てくれた。そこで、何が必要かって。船って言った。会社で会議開いて、三重のほうの取引先と話して、3隻いただいた。小っちゃい船なんだが、ま、その船でなんとか、施設作ったり、仕事はできる。

うちはうちが残ってっからいいけど、うちもない人は仮設にいんだけど、今度どっかに家建てて住まないといけないから、大変なのさね…。希望は震災前の生活だね。

補助事業に関して大変だけど、震災後、悲しいのが大きい。家族はみんな無事だったんだけど、親父の弟達とか、その息子達とか、そういうんでね。みんなそれなりにね知り合いの仲だったのが…。

震災での教訓…。それこそ、絆じゃねえの? ね、1人で何もできないもん。

old_tags_text
a:3:{i:0;s:6:"漁業";i:1;s:5:"40代";i:2;s:36:"岩手県大槌町吉里吉里地区";}
old_attributes_text
a:0:{}
Flagged for Internet Archive
Off
URI
http://kikigaki101.tokyofoundation.org/?p=2468
Attribution URI
http://kikigaki101.tokyofoundation.org/?p=2468
Thumbnail URL
http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11174889/kikigaki101.tokyofoundation.org/wp-content/uploads/075-top.jpg