自己紹介
名前は堀合俊治(ほりあいしゅんじ)。名前の由来はわかんねぇ。親父の妹がつけた名前って。昭和38年1月13日生まれ。48歳で、家族は父がいます。あと、1こ下の妻と子供が5人。長女が26。次女が24、長男が22、三女が18、で、四女が17。
漁業、養殖漁業です。父から受け継いで。
自分は兄弟は4人です。姉が2人と弟。会うのは年に2回ぐらいかな、お盆と正月ぐらい。魚とか、そんなに食べないんだよね。年間通して見てっとね。たまには食べっけどさ。見て腹いっぱいになんだ。
毎日の楽しみ…楽しみねえ、特にないね。お酒は普段飲まない。なんか、集まったときだけ。嫌いなわけでもねえんだけど。
自然の中で育った
生まれはここ。住めば都さ、ふふ。小さい頃はどうだったべねぇ。自分が自分見るのはどうなんだろ、わかんね。かわいかった(笑)。まあ、小さい時から海が好きだった。勉強してなくてね。好きではなかったねえ。小学生の時はねぇ、山にいたり海に行ったり。自然がいっぱいだから、夏は海に行ったり。冬は…雪が降ればスキーしたり。雪降んないとこだからね、あんまり。積もったら、水まいて、氷を凍らせて。
中学の時は柔道やってた。で、高校のときは空手。きっかけはねぇ、親戚で2こ上の人に誘われてやってみて。でも、だめ、だめ(笑)。中学の3年間は、まあなんとか頑張った。空手もダメさ。遊びさ(笑)。
高校はここ、宮古の水産科。入試をしないで入った。うちの時から推薦入学制度ってのが。成績良くなくても行けたんだよね(笑)。面接だけだったからね。学校の勉強は好きじゃなかったけど、体育と音楽は好きだった。水産学校は音楽ねかったから、残念だった(笑)。得意でもねぇんだけどね、好きなだけさ。
で、高校終わってから、北海道の船に。
漁師デビュー
最初はね、高校終わって、マグロ船に行くことになってだったんだけども、「明日、船に来てください」って。前の日に来たんですよ。で、無理だから、マグロ船はやめだったの。なかなか交通の便が悪いんで。
北海道に行ったのは、たまたま、地元で船頭やってる人がいだったんです。その船のね。で、その、人がいないとか足りないとか、乗ってみないかっていうんで、行っだったんです。
まあ3か月に1回くらい入んだ、船って。魚がいっぱい獲れれば、いっぱいなれば入ってくる。出航から入航までだいたい3か月周期なんです。3か月間は、海の上。初めて3か月海にいたのは高校終わってからだから、18か19。3か月、短けぇよ? まあ、そんなもんだ。長いとね、4か月くらいかかった。さびしくなったりはない。んまあ、入ってくっとさぁ、休みあっから、1週間くらい。
海の上で一番苦労したことは、最初…だねぇ。なにもわかんねかったから。ベテランの何十年乗ってる人も、高校終わって行った人も、もらう金が同じなんです。だから言われるわけ。俺だって叱ったよ(笑)。
アメリカへ
北海道で7年。それから1年、アメリカ。欧米の会社に。タラ獲る仕事。船頭が、行かないかって。で、この地区から5人。それまで海外へ行ったことは、たまに燃料補給とか、それ以外はない。船造る段階から、会社で一軒家借りて、アメリカに滞在してたん、3か月ぐらい。ここをこうしてくださいって、日本語で。通訳がいだった。仕事しやすいように船を造る。
まあ、この地区から5人行ったんだけども、買い物行っても米がさ、いっぱい並んでんのさ。どの米がおいしいのか、日本の米ないからさ、わかんないから。で、一応ちっちゃい袋、全部とりあえず買ってみて、じゃあこれにしよう、って。そんで、炊事当番を決めて。毎日ね、今日は誰、今日は誰、って。
1か月ごとにひとりずつ交代、飛行機で、日本に帰っていく。大変なの、ね。ひとりで帰ってくんの、乗継でしょ(笑)。大移動、大変なのさね。船入って、次交代だぞって言われるとさ、…1人呼ばれてさ。さよならして、ふふっ。笑い話なんだがね。みんなで一緒に航海したのは最後だけだ。最後の航海だけ。今度の航海で切り上げで、清算だよ、って言われるときだけ。
あっちの人(アメリカ人)が、20人乗ってたんだね、船に。肩身狭い(笑)。その、アメリカの船員って、ちょっとずるいんだね、稼がねえ。威張ってんだ。めんどくさいんだって、ねえ。アメリカの人ってのは、融通が利かないっつうかさあ(笑)。メキシコ人とかさ、ポーランド人とかは、仕事覚えたいから日本人に来るわけ。そういう人とは仲良くなれる。でもアメリカ人とは、だめさ。仕事覚える気ねえんだから。
だけど船員は、日本人がダメだ、って言ったらもうクビなのさ。日本向けの製品だからっていうことで、権限があった。働かないから、今度終わったらいいよって、辞めさせたこともあった。仕事できなくてもさ、一生懸命やってるのはいいのさ。そういうのは、優しくね。ずるいのがいんのさ。仕事中にさ、隠れて寝てたとか、ふふ。いねえぞ、って言えば、隠れて寝てた。一生懸命さがない。ご飯食いに行けば1時間…長い(ナイフとフォークを使う真似)。こっちはおにぎり食ってる(笑)。まあ、ひとつの経験。勉強にはなんねぇんだ。思い出だね。いま行け、ったって行けねえ、ふふ。
で、そのままここで仕事手伝って。船に乗っててもよかったんだけど、ねえ、船の方もパッとしなかったから。いま、父は引退してます。
海岸にいるとき、地震が来た。
自宅も被害を受けた。まあ形が残ったからねえ、よかったんだけど。震災当日は海岸にいた。ちょうどね、ワカメの収穫時期に入って、準備してだった。13日か14日あたりが収穫すっかな、って考えてだったから。
揺れたわけさ、うん、かなり。で、うちから電話来たわけさ。で、おじいちゃん(父親)が散歩に海に行ってんだ。大変だと思って、仕事は投げて、散歩コースを車で、揺れてる中走ってったわけさ。一周。長かったんだよ(笑)。でも、いなかったん(笑)。地震で海に落ちたかなと思ってさ、ふふふ(笑)。考えたんだけどさ、いや、ここにいられないなと思ってうちに上がってきたわけよ。したらうちにいだったのよ。ちょうど帰ってきた。
そんでみんなで吉里吉里小学校まで避難して、歩いた。で、学校に上がった時に、もう引いてだった。引き波。渦巻いてた。で、間もなく津波が来た。
長女は仕事で隣町の山田に行ってだった。長女はもう死んだと、あきらめたの。次の日やっぱりね、山田に仕事に行ってだった男の人たちが歩いて帰ってきた。で、山田どうだべって。山田も、あの辺がだめでねえか、って言われててさ。行くにも行けないし。で、5日目で行った。娘は避難所にいるみたいだよっていう情報が入って、夕方5時ごろその話聞いて、行ったわけさ。寒かったね、雪が降ってて。で、そこにいるだろうと思って、1個目の避難所に行ったらいなかったの。で、あの避難所どこですか、って聞いて…。道がわかんないわけさ。津波でなくて、火災あって、燃えたところもあった。そこの間を行ったわけさ。で、そこの避難所に行って、いなくて、3件目に行って。暗かったん。被災者の名簿を懐中電灯で見て、見つけて。9時ごろだったかな、みんな休んでてさ。騒がれて、懐中電灯もつけられない(笑)。ね。ちっさいこえで名前呼びながら歩いて。で、知ってる人が、ああ、いるよ、って言われて。
息子は、3日目で帰ってきたん、釜石から。沖に船で避難したんだけど、3日目に水をしょって歩いて帰ってきた。2リットルのボトル6本ぐらいだったか。
電気が使えなかったから、ろうそく生活。こんなに長いのは初めて。1か月も2か月も電気がねえのはちょっと、大変だね。結婚式のキャンドル灯して。それ、なくなった(笑)。暖房もないし、大変だったんだね。雪降ったのさ。油はないし、物を買いに行くにも車のガソリンがない。なんとか油かき集めてさ。電気ついたとき、嬉しかったね。
水も大変だったのさ。井戸水を汲んだりさ。電気より、水のほうが使えたの遅かったん。3か月くらい、もっと早かったかな…。こんなにひどくなるとは思わなかった、というより、見当がつかなかった。考える余裕なかった。
今は直して、自宅で住んでます。震災後忙しかったのさ、逆に。うちがなくなったんでば良かったんだけど、残ってしまったから、片付けが結構かかったのさ(笑)。2階は寝るだけだから何もないわけさ。ほとんど1階にあってさ。全部捨てたわけさ。家を直してる2か月ぐらい、姉のうちがちょっと上のほうの家だったから、そこにいだったんです。家族全員で世話になって。
はっきりしない行政が、困る。
何するにしてもさ、県のほうとか国のほうとか、はっきりした数字出てこないんだね。船が流されたんだけど、最初は3分の2の補助だった。それが9分の8に増えて、また3分の2に戻ったわけさ。最終的にはっきりしたのがわからないまま。
だから自己負担が、まあ、2,500万の船だったら、1,200万負担ね、現金で。お金ないのさ、ふふ。でも船だけ造っても漁はできないから。今やってる養殖施設も補助の対象なんだけど、なんぼ補助だかわかんない。わかんないけどやってんだよ。施設自体は補助なんだけども、その他の、ホタテの吊るすヒモとか、かごとか、どうすんだろ。陸上の建物もなくなったし。施設も全部なくなったし、道具関係から、機械類も。わかんないままやってんのさ。先が見えない、まだねぇ。
津波については、来ないと思うけどね。防潮堤を高くしても、何しても、大変だべね…。逃げる。逃げるしかね。今までの津波警報でさ、来なかったのさね。実際来ても小さい。そういうのもあったのさね。最初ここに津波警報が、予想3メートルっていうので出て、それがだんだん上がって、最終的に何なんだか…そうなったころには来てんだね、津波がね(笑)。当初3メートルで、3メートルならここまで来ねえやっていう人が結構いたと思うんだね。
沖のガレキ、結構あんの。それが終わんないと、施設も張れないわけ。業者からは、ガレキは撤去しました、って言うんだけど、終わってないのさ。残ってるのさ。んで、この前、県の水産部の人を呼んで、船でずーっと見てきた。終わってないよ。ちょうど施設を入れようか、って言ってる場所に結構あんだもん。困るね、かなり。だから、ホタテの作業は進んでないね。
堤防壊れてさ、波入ってくるわけさ。あの堤防、早く造ってほしいな。船つけておかれない。この15号の台風で1隻沈んだのさ。せっかく残ったのにねえ。
絆じゃねえの?
県外へ行った友達はいねえな。養殖漁業者は減ったね。3分の1になった。震災前、ここ吉里吉里、30人ぐらいだった。それが8人までいったかな。まあ高齢もあるんだけど、若い人だけ残った感じ、40歳くらいの。
いま、養殖のほうの作業を共同でやってる。ワカメのほう。まあ今頑張ってやってるん。ウニは採れなかったからね、今年はね。カキのほうは、施設設置して、種ガキも持ってきて、来年出荷できると思うんだけど。
カキ出荷してる、東京のヒューマンウェーブさんっていう会社があって、早々とお見舞いに来てくれた。そこで、何が必要かって。船って言った。会社で会議開いて、三重のほうの取引先と話して、3隻いただいた。小っちゃい船なんだが、ま、その船でなんとか、施設作ったり、仕事はできる。
うちはうちが残ってっからいいけど、うちもない人は仮設にいんだけど、今度どっかに家建てて住まないといけないから、大変なのさね…。希望は震災前の生活だね。
補助事業に関して大変だけど、震災後、悲しいのが大きい。家族はみんな無事だったんだけど、親父の弟達とか、その息子達とか、そういうんでね。みんなそれなりにね知り合いの仲だったのが…。
震災での教訓…。それこそ、絆じゃねえの? ね、1人で何もできないもん。