代々吉里吉里育ち
田中巌(たなかいわお)です。昭和21年2月23日生まれで65歳。今は無職。若い頃はマグロの遠洋漁業をやっていました。今は奥さんと仮設で暮らしています。子供は2人。娘は結婚して隣の町にいたけど、家が津波に流されて旦那さんの家族と住んでる。息子は宮古にいます。
うちの家族は代々みんな吉里吉里育ち。だからおれの兄弟もみんなここにいるしね。みんな吉里吉里にいるから顔合わすし、別にあえて会うことはない。でも長男と三男が死んじゃったから、今いるのは4人。兄貴と姉2人。おれは末っ子。三男はおれと3歳違いで、私が生まれたばっかりの時に死んだから、あんまり知らないけどね。
地域の活動
活動はね、あらたまった活動はないけど、町内の作業がある。うちらの場合は町内から離れてたから、そこの人たちだけでやるの、1つのグループになって。海岸清掃は範囲が広いから、全員作業に出ないとだめ。だから、そういう点はみんな積極的にやったから案外良かった。お祭りとかね、そういう時もみんな積極的だったもん。ただね、集まりとか、そういう時はあんまり出たがらないんだよね。おれをはじめね、好きじゃないの(笑)。行ったって時間が長いでしょ? おれ飲まないから、そういう席大嫌いなんだもんね。行かないとやりにくさを感じたりはしないね。飲まないから来ないんだって、分かってるからね。そのかわり、作業とか何かがあるときは積極的に行くからさ。うちの所は全員出て、一生懸命だもん。
兄弟はみな漁師
1番の長男は、おれが中学3年の夏のときに海で亡くなったの。同じ漁業だった。北洋で遭難したの。帰ってくるはずなのに帰ってこない。地元の人たちが8割ぐらいと、遠くの人たちが3人ぐらいだったかな。でも見つからなかった、全員だめ。次男も同じ漁師。みんな漁師だった。長男と次男とは同じ会社だったの。おれは船が違かったからね、同じ漁に行ってるんだけど、漁場も違った。2番目の兄貴は長男が亡くなってから遠洋漁業に行ったの。小っちゃい船は危ないっていうことで、亡くなってから行くようになった。
遠洋漁業は花形職だった
当時は、この辺じゃ漁師になるのは当たり前のことだったの、本当に。昔はそれこそ相当優秀な人で良い人のとこじゃないと大学行けないでしょ。だから、当時の人は漁師になるのが普通だった。親は心配したんだろうけどね、結局は生活するためには漁師しかなかったもんね。
遠洋漁業と近海の漁業と2つに分かれてた。遠洋漁業はすごかったの、当時はね、本当に花形。その頃は大体2年間の航海。2年帰ってこない。2回、3回ぐらい連続で行ったらなば、家1軒建てれた。だってそうでしょ、金を使わないで、飯を食うのは船、会社任せでしょ。あとは寝泊まりも会社でしょ。働いた金だけそっくり入ってくる。この辺でもね、向こうに行ってる人たちは良い生活してたの。一番の魅力がやっぱり金になるために、家族は賛成するの(笑)。
延縄漁業―エンジン操作―
最初はね、釜石の鉄鋼場で働いてた。16歳から2年半、職業訓練でね。遠洋漁業に行くきっかけは吉里吉里の先輩たちががいっぱい船に乗って行ってたから。それを頼ってまず行ったわけよ。
漁師っていうのは釣るだけじゃなくて、操作もしなきゃいけない。船の上でも役割分担があるんだ。操作もしなきゃいけないし、ある程度の整備もしなきゃいけない。手入れだね。私は最初からエンジン担当。エンジンを回したり、止めたり、回したり、止めたり。ほら、幸いなことに鉄鋼場人だったでしょ。だから案外行ってもすぐに、ある程度覚えやすかったね。
19歳から遠洋漁業を始めたんだけど、遠洋漁業は遠くまで行くの。行くだけで1ヶ月かかるからね。早くて20日ぐらい、遅いと1ヶ月半ぐらい。どこへでも行きましたよ。一番遠いところは、カナダの沖だと、こっから大体40日間だね。大体2年航海を2回ぐらいで、大西洋に行ったら、1回ぐらい休むの。だいたい3ヶ月から半年ぐらい休んで、次の船に乗るわけね。当時は陸より海の上にいる方が多かった。それでその間に結婚したり、また色んな家族なんかに大変なことあるでしょ? そういう時は大体半年ぐらい休むんだ。
うちらは延縄漁業。延縄漁業はマグロの漁業としては普通。縄には針いっぱい付けてるから、その針に餌を付けて。そしたら魚が餌を食うでしょ。それを機械で揚げるわけですね。大量なために時間がかかる。1日1回しかできないの。当時の船でたいだい1杯の船に28人ぐらい。で、10トンぐらいの小っちゃい船を後ろに引っ張って大西洋まで行くわけ。その分の人たちがだいたい15名ぐらい。ロープで引っ張って行くの。その船も同じ魚獲るから、その分もっと魚が獲れる。ただね、お互いに離れないの。魚を釣ったら本船にあげなきゃいけないから。小さい船は処理出来ないでしょ。船を合わせて、魚を引き取って。あとお互いが見えてる所じゃないと、何かがあった時にやっぱり危険でしょ?
家族のことを思うようになったらだめ
延縄漁業っていうのはね、1人は何でも出来なきゃいけない。だいたい一通りに仕事が分かるまで1年ぐらいは必要。その仕事を覚えてしまえばね、若者は体力持て余してるから面白くなってくるのさ、30前まではね。んで、結婚したら「がくっ」てくるの(笑)。
家族ができて、家族のことを思うようになったらだめなの。その人によるだろうけど、その家族を思ってね、出航の時はやっぱりあんまり良い気持ちはしないんだよね。それで3日か4日ぐらい走って家のことを忘れないと、ノイローゼになってしまうの。それを出来ない人が、ああなると海に飛ぶ込むようになるんだね、頭がおかしくなってね。
そういう人間何人もいるの。だから切り替えが出来る人じゃなきゃだめ。何人もいるんだよ、海に飛び込んだ人。家族を思うあまり。そして、幸い落ちた人を助けた人もいるしね。今はGPSがあるから、船が走った跡、航跡が残ってるわけだよね。そしたら、気がついた時点で反対に航跡を追っていけば良いでしょ? その時の潮の流れと風の方向が分かると、そこにぴたっと行く。それで助けた人もいます。
そういうことがあるから、みんなお互いに気をつけてる。船長とか私たちでみんなで気をつけてるっていうか。あ、いないなってなるとすぐ探す。船内を探していないと、あ、じゃあ飛び込んだっていうことですぐ引き返す。だから、迷惑かかるのね。そういうのがあるとね、その本人を船の中に置けないでしょ? ドアに鍵をかけなきゃいけないから。いつまた行くか分かんないから。だから緊急入港で、近くの港に入るわけ。それで降ろさなきゃいけない。
子供と離ればなれ生活
特に子供が生まれた時はね、気持ちを切り替えるのが大変。最初の子供のときは、妊娠してから行ったわけ。あの時は1年航海だったんだけど、帰ってきたら生まれて何ヶ月でその時に初めて会ったんだよ。それからまた行ったでしょ、その時はもう、1ヶ月ぐらいですぐに行ったから。帰ってきたら普通に歩いてるでしょ、そしたらどうしたと思うよ? うちに帰って泣かれたよ(笑)。色真っ黒でしょ、沖から来たばっかりだから。泣かれてしまって、ショックだね(笑)。2番目の子供の時は、大きい子供が分かってたから、2番目の子もすぐ分かっておったね。
延縄漁業からタンカーへ
19歳から20年ぐらい遠洋漁業やって、身体を壊したの。やっぱりストレスとね、持病が出たんだね。48歳か9の頃だね。それからは、今度は内航船に乗ったの。タンカーだね。内航船っていって油を運ぶの。ターミナルのある所から、どこでも日本国内を行く。油の種類は色々。電力とかね、色んな製品を作ってる会社とか。場所によって期間が変わる。そこまで行かなきゃいけないから、1日で走るときもあれば、半日で走るときもあるし。そしてそこでまず積んだ荷物を下ろすでしょ。今度は近くの製油所回って、そこでまた積んで帰ってくるかも分かんないし、色々あるわけだ。私は年いってから乗ったから臨時職員だったの。7年ぐらいおったかな。内航船でもエンジン担当だった。それで、56、7歳ぐらいでタンカーは辞めた。
船員は重労働
漁船は、年金がつくのね。55歳で年金がつくの。船員はそれだけ仕事が重労働だっちゅうのね。かなりの重労働。55まで乗るっちゅうことは、大変なの。若い人についていけないし、重労働。期間が長いし、その1日の労働時間も長いし、相当体力が必要なわけよ。だからもう、船員は55で年金をもらえるようになってるの。
観光船アルバイト
タンカー辞めてから、すぐそのまま観光船のアルバイトをしたの、釜石の観光船で。機関長はいるけどやっぱ休まなきゃいけないでしょ? その時、交代で私が臨時で行くわけ。待機員みたいな感じで、アルバイトのようなことをしてた。釜石の湾内だけだからさ。だから、1時間走ってれば帰ってくる。
夏がシーズンで、だいたい5月の連休ぐらいから始まるのね。でも1週間に3日か4日ぐらいしか動かないんだよね。走る便も少ないしさ。4便ぐらいあるけどね。そして7月ぐらいになると時間が多くなるわけ。でも、そしたら今度は津波で船がだめになったでしょ、それでもう終わり。最後にやったのは去年の秋ぐらいまで。去年までやってるから9年ぐらいやったよね。まぁずっとじゃなくて、1ヶ月のうち数日だったけど。
あの日―まさかの第2波―
今回の津波で従兄弟が1人亡くなった。その晩に分かった。従兄弟の家が流されてね、家の中にいた。津波の後は、私たちは避難所に行った。息子は宮古にいて45キロ離れてるんだけど、海の方じゃなかったら大丈夫だった。娘のほうは家が流されたけど、家族はみんな無事だった。津波が来たっていう情報を聞いて家に帰った人はみんな死んだでしょ。まさかって思った人たちもあっただろうけど、物を取りに戻った人たちがだいぶやられたからさ。
当時は奥さんと家にいたの。自宅は高さ15メーター、20メーターまでなくてもそれぐらい高いところだから安心してた。海がすぐ下だから見えるの。1波のときはうちから見てた。1波が来てから引いたでしょ、そして引いたときにはもう2波が来てるんだもんね。ほいで、そこの部落の人たちがさ、8軒あるんだけど、「おい、なんだか次の波は大きいぞーって、逃げるか?」「おう逃げよう」ってみんなで声かけあって高台に逃げた。だからうちらの家がある周辺はね、みんな助かったの。
津波の音は気持ち悪かった
高台に上がったら、もう波が目の前を通ってた。そして、うちもすぐ流されちゃった。高台から下5メーターぐらいの所を波がごーって流れてったの。家は波がぶつかったらすぐ分解したからね。すごい音だったよ。大きい滝が落ちる音。その音に周囲の山の木が折れる音。すごい音だった。気持ち悪い音。あとすごい飛沫だった。家が流されるのを見てた。津波が家を飲み込んで。だからうちは何も残んないもん、基礎しかない。着るものは何もない、何もない。残ってたのはね、車が田んぼに落ちてた。それだけ、あとは何もない。それだけ波の力がすごいんだよね。