自己紹介―80年ずっと志津川です
芳賀文吾(はがぶんご)です。昭和5年3月15日に生まれたから、今81歳かな。生まれ育ちは志津川。7人兄弟の4番目。子どもはふたーり。長女は埼玉県にいる。孫は3人。長男は私と一緒に暮らしてて。家内は1年半前に亡くなった。家内は文房具店をやっていて、私は農業を手伝いながら、保険外交員や水産関係会社に勤めて、40歳以降は商工会で働きました。
農学校は5年間仙台だったど、それ以外は80年ずっと志津川です。仙台や東京に出るつもりはなかった。かえってよ、あまり騒がしいのは好みでなかったから。
今回の津波で、家は根こそぎ。延べ52坪の二階の建物。今は志津川小学校の避難所から、ホテル観洋に移って生活しています。でも、やっと仮設住宅が当たりました。志津川の沼田に。まだ仮設の建設が始まらないから、移動はできないけど。
震災の日―避難所の志津川小学校へ
私は志津川の海の目の前の高野会館にいて。老人芸能発表会で、300人くらいと一緒にいたから。3階にいたのが、4階と屋上に逃げて。毎年、各地区の老人クラブの人たちが趣味で習っている歌や踊りを発表するの。津波が引いた後に、高野会館から出て、川のふちを登って、橋を渡って、今度は山へ登って、避難所の志津川小学校がある方へ。
息子は勤めてたから、震災の当日は近くの保育所へ逃げて。保育所から、保育所の児童と共に、小学校へ逃げたの。ここの保育所が避難所だからそこへみんな逃げてたんだけど、ここも危ないということで、息子と私の妹も、保育所の子どもたちと、裏の杉山を通って、志津川小学校まで行った。
小学校では2カ月生活して、5月6日から8月いっぱいはホテル観洋で生活しました。
父―志津川は海だけじゃない
父親は農業共済組合や家庭裁判所の調停委員とか、最後は助役かな。志津川は海だけじゃない。山も多いから農林業がね。農業は養蚕、葉タバコとか。志津川は生糸をやってて、アメリカの品評会に出して金賞とったんだ。旭製糸工場ということで、繭から生糸を取って、生糸を国外に輸出してたの。
うちでは父が、繭の仲買い人やってた。農家から繭を買って、乾燥して、製糸工場に納めてっていう。農家は蚕を育てるまでにお金が欲しいから、旦那さんいくらか生活費を貸して下さいってことで前もって貸して。だから、必ずしも製糸ごとに買わないで、その前から、いくらか前渡しみたいな恰好でやってた。
昭和8年頃、昭和の大恐慌っていうのが。家財もなんもなくしたところもあんの。昭和5年頃、私の生まれた頃が一番養蚕が盛んで、昭和12年の時には工場が下火になった。
仙台の5年間―ジャガイモ2つがお弁当
5年間、仙台の農学校に行ったっちゃ。それで14歳から仙台に下宿。この頃、仙台に行く人は1割ないね。高等科(今の中学校)まで行く人が少なかった。学校に入らなければ、軍隊に行かなくちゃいけない。それにうちは農家だから、もしほれ農業関係で家にただいるよりも、何年か仙台に行って来るってことで。兄も盛岡に行ったから。
あの頃は、一番食糧難の時で、ジャガイモを2つくらいお弁当に入れたのがお昼。私の下宿した所は、農家じゃないから、配給があった分だけで私たちに食べさせねばならなかったから。下宿のおばさん、かなり苦労した。でも、実家に帰ってくれば食料はあったの。結局、いくら悪くても作付しておけばね、ジャガイモだといくらかあるからね。
私たちの同級生で志願でしていたのが2人いるけれども、今度飛行機に乗るって時点で終戦になって。だから、瀬戸際だったのね。
農業を手伝う―チリ津波受けても、その年に稲は作れたの
農学校を卒業して志津川に帰って、農業の手伝い。父親は家畜商も免許をとってやってたけど、公職やってたし、兄貴が県職員になって勤めたから、私が農業手伝って。19歳くらいの時。でも、毎日農夫に頼んで、私は監督みたいな(笑)。米、小麦、大麦、馬鈴薯をやって。農業の手伝いしながら、保険外交員やったり、地元の水産関係会社に勤めたりして。
22歳の時、農業改良普及所っていうのがいて、そこの指導でもって、農村の青年がただ働くだけではだめだってことで、研究会作れっていうわけ。農業の研究会でもあり、結局、青年団とも同じ。それが4Hクラブっていうやつ。基礎的な部分だけでなく、社会活動とか、会議の持ち方とか、団体としての在り方とか含めて。アメリカから来たんだよね、4つのHね。Head(頭)、Heart(心)、Hands(手)、Health(健康)。
まずは10人くらいだった。それが各町とか部落ごとに連携して、本吉郡南部の連絡会っていうのを作ったの。ただ部落だけで研究っていっても、狭いっちゃ。で結局、代表者をよせてってことで南部の連絡協議会も会長やって、県の役員まで。会は、今別な名前であるよ。
そして、昭和34年の12月に29歳で結婚して、昭和35年にチリ津波で、水産会社の工場が閉鎖になって退職。チリ津波の時、家は床一面がかぶったね。床1m。持っていた水田も、8反歩の内、3反歩は耕作不能になって宅地にした。2反6畝は床苗施設として、賃貸契約して、2反4畝は作り分け。収穫した分の半分は作ってもらってる人に農夫賃として払う。あと半分は土地代として頂く。チリ津波は一回かぶったけれども、さっといっただけだから、その年に稲は作れたの。海水は流れたけれども。でも今度の津波は、このようにいかねぇから。
商工会に入る―今でも「商工会の芳賀さん」って言われるんだよね
ただほれ、このへんで、商工会の指導員になりなさいと、農業だけではだめだから、商工会に来て、商店の経営相談だのに乗ってくれと役員の方に勧められて、商工会に入って。定年まで22年間商工会に勤めたんだな。昭和48年6月だ、43歳で商工会指導員になって、最後は事務局長を務めて、平成7年に65歳で定年退職。今でも町歩くと、「あらー商工会の芳賀さん」って言われるんだよね。
商工会とは―指導員になったのは、私が4代目
商店が経営とか金融とか納税とか相談するのに商工会っていうのがあって、国で一町村に一つの商工会を作るってことで。漁業関係は漁業協同組合があるし、山の関係には森林組合あるけど、観光や工業関係だとか、加工場だとかは商工会の傘下。志津川は加工場が多かった。加工場は、海苔、ワカメ、あとホタテ。
昭和30年あたりかね、商工会設置法ができたのは。指導員になったのが、私で4代目だったかな。指導員とか会計とか、職員は7人だったね。
例えば、志津川の文房具屋さんの経営がうまくいかなくなった時に、その相談にも乗るの。金融面で困った時には、国の無利子のやつだとかを紹介して。商工会で直接貸すんでなくて、政府の説明して金融機関紹介する。
税務においても、商店は税金を納めなくちゃねぇっちゃ。その場合には、申告で毎日帳面を付けていけばこういう利点がありますよとか、節税関係とかも。
人を雇いたいという時には、こういう基準で、労働基準法に沿ってやりなさいと。パートを頼む時は、最低賃金を下回らないようにやんなくちゃだめだよとか。
組合を作ったりなんかのお世話も商工会でやる。民宿組合の人は民宿組合の人たちで、その人たちの研修の場を持つために衛生の関係の指導してもらうとか、民宿だけの税務対策、申告だのなんかこうやりなさいとか。床屋さんも、自分だけの技術でやったって駄目だから、年一回、講師を呼んで講習会して。その分は商工会が負担しますよと。個々で呼ぶわけにはいかないから。
お店をやる時に商工会に入らなくちゃいけないわけじゃないけど。でも、入った方が楽だということで、入りなさいと言ってる。それに、商工会としては結局入ってもらわなくちゃ困るんだ。会員数が少なければ、国からあんたたちのやり方が悪いからって言われっから。ま、大きい所さは、会計士や弁護士やらが全部入っているからね、指導もなにもいらなくて独自でやれっけど、会費をもらって協力もらわなければ。
地元から離れていく商工会―昔は町出身者をなるべく置いたけど…
オートバイで、町内全部回って、歩いて、聞いて相談受けて。必ず一軒か二軒かお茶2、3服飲んで、ああだこうだって世間話しながらして。それで初めて自分のものにもなるんだよね。ただパンフレット説明するだけじゃなくて。だから今でも、散歩して人に会うと、「ああ、芳賀さん、何年ぶり?あの頃は良かったね。」なんて。結局、昔そういう風な付き合いやったからね。ありがたいね、今もそれがあるってことは。
ただ、私たちは個人で受け答えするわけでねぇから。国からちゃんと指針が来てっから、それを説明したり、アドバイスする。国の制度を商店に普及して、なるべくいいように商店を盛り上げていくことが仕事だから。だから、給料は国の補助事業で来てます。
でも、今の商工会は、県の連合会の人事権で、紙一枚で県職員と同じようにどこへでも行くの。昔は、町出身の者をなるべく置くようにしていたのね。そうすれば、常に、「あ」「お」って語って、慣れ合いではないけれども、指導でも楽なんだよね。ただ他から来ると、あれ、あの人誰だね?こんなこと語っていいんだべか?っていうことになってしまうっちゃ。だから、今の会員の連中も、しょっちゅう商工会を利用する人たちは、商工会のありがたみがわかっけんども、遠くの方に行くと、年に一回か二回しか会わなかったり、商工会は用がないから行かねぇ、やめるという人が多くなる。
おととい商工会に行ってみたけれども、メンバーがほとんど若くて、それに全然地元の人がいないから、もう行かないようにしてるの。
当時担当していた規模は志津川町。商工会の組合に入ってるのは約500だったな。商店、事業所、工場。今は、志津川と歌津が合併して南三陸町になって。だから、広範囲になるから、なおさら末端の商店の連中は、恩恵がないというのがね。きめ細かい、人情的なっていうのはなかなか。
志津川の景気―大型店ができるとどうしてもね、商店は難しくなる
志津川の商店街は景気が悪くなったね。結局、昭和50年くらいから大型店がほら、佐沼(宮城県登米市迫町佐沼)とか南方(宮城県登米市南方町)の方に出だしたからね。昭和48年にはまだなかったかな。大型店できるとどうしてもね。若い人たちは車代、油代は計算しないでどこへでも行って、安いものだけ買って。朝晩のちょっとしたものだけ地元で買うってことだから。商店の品揃えが悪いって、私たちは言われんのね。でも、そうじゃなかったら、あんたたち地元で買ってくれるのかと。部落の懇談会なんかでも、そんな話になったりするね。
志津川では大型店はサンポートって1店だけど、私が退職する前だから、17、8年前かな。結構最近。商工会指導で、共同店舗型組合形態で。大型店のようにワンマンでやるようなのでなくて、町内の商店が集まってやりましょうってやったから、どうしても思いきったことがやれないんだよね。
私の辞める頃(平成7年)から、経済はまたずうっーと悪くなってきてるんだよね。私も、外行って買わないように、なるべく地元優先だけどね。
苦労したこと―20年間、かなりもまれましたね
20年間、かなりもまれましたね。景気が上向きに行けばいいけんども、多少下向きになったりなんかするとね。そんなことやってっと、手ぬるいとか、あんな教え方でいいのかって横やりが入ったりね。私も言われたことありますよ。そうやってはたかれなければね、まっすぐに伸びないから。多少それも経験だったかな。ま、かえってそのために大人にしてもらった(笑)。
一番の失敗は、金融指導やって、大丈夫だと思って見込んで紹介して、その人に蒸発されたの。結局、銀行から融資を受けた途端に夜逃げしちった。信用しててもね。それで、お前たちの指導のありかたがって役員会に言われてね。債務保証とかで、なんとか取り返しはつけたけんども、それ一つやってしまうと、今度はお世話するにも、金融機関もうんとは言わねぇんだな。
商工会だけでなく―各種団体の連中との付き合いが、今の私を育てた
商工会は22年勤務したけれども、その傍らで青年運動、それから神様の関係、農業とか森林組合関係、それから防犯協会もかかわって。だから、その人たちの声を聞くことによって、ああ、こういう風にやらなければねぇのかなっていう考え方もまとまるわけ。商工会の指導員だけではね。今でも社会に恩返しをしなきゃねぇと、地域に貢献したいってことで、いくらかでもやってんだけどね。
前には、私は付き合いにくい人間だったってな。なんかこの頃はだいぶ丸くなったっていうことで(笑)。そういう点はやっぱり、80年の人生で、所帯持って50年、その間、各種団体の連中と連携して話し合いしたことによって、今の自分があるなということは思う。だから、私は息子になるべく人と交際を広くやれよと、そうすれば初めて、自分の悪い所も出てくるし、それでほら、成長するんだって話をしてます。
震災後の商店―はたしてどのような商店街ができるのか
商店がないことには、人も住まないしね。だから、早く商店街を、どのように町で方向付けしていくのか。今の流された所も、だめだって言われっか。どの辺で商店街を形成するのか。高台に上がんなさいって言ったって、人の住む所と商店の関係だからね。
今までの商店の人、半分くらいはやめるんでないかな。結局、高齢化しているし、今の若い人ではここではなかなかやれない。人口1万ちょっとではね、人口密度もないし。この震災によって、都会へ出てる人、だいぶ多いから。はたしてどのような商店街が出るか、商店街をここへ作って店舗が充実するのか、それと住民がそこへ居つくのか。どっちが先だぁ。結局、あとは手腕だから。でも、こうなった今、ただ手腕だけでお客さんが寄ってくるか。そもそも志津川は、三方山で、片方が海だから。
退職後と現在―来年は畑やれるんでねぇかと思って
退職後は野菜作りとか、神社の総代したりとか。野菜作りは耕運機は使わねぇんだ。鍬だけ。機械音痴(笑)。体で覚えたから。若い頃からね。私は鍬の方が早く立派に、仕上がりも楽なんだよね。自分の思う通りになっから。
野菜20種類くらい。きゅうり、なす、とまと、ねぎ、とうもろこし、白菜、キャベツ、みょうが、ブルーベリー、大豆、えだまめ、ブロッコリー、すいかもやった。今頃になれば、いんげんか。一人で毎日健康のために。鍬持って、帽子をかぶって。退職してからずっと。ここ通って行った人に、野菜持って行きなさいって。そうすると、おやつなんかを帰って持ってくんのね。
畑は家から、自転車で3分だもん。志津川駅のすぐ裏側に畑があった。海水に浸かってしまったけど、来年は畑やれるんでねぇかと思って。いくらとれるかわかんないけど。