自己紹介 ―現在も気仙沼や石巻で仕事してます―
山形利郎(やまがたとしろう)です。今ね、63歳かな。昭和23年6月28日、宮城県の南三陸町志津川の生まれ。結婚はしてないので独身。2歳上の姉がいるの。甥は2人。3月の震災で家が流されたから、今は志津川の隣の歌津の仮設住宅に住んでます。
中学卒業するまではずっと志津川。卒業してすぐ、大工として東京に行ったの。その後は仙台。ずっと大工をしていた。8年前に志津川に戻ってきて大工してたんだけど、5年前に体を悪くして手術してからは大工ができなくなって、今は電話線の工事をする仕事をしているんだ。震災復興の関係で仕事が忙しいの。今はね、気仙沼とか石巻で。
震災の日
3月11日は、仕事に行っててね、北上町に行ってたんだな。そこも同じように被害を受けてたから、帰ってこられなかったの。1日目はその町のお寺に泊まって、次の日は、南三陸町戸倉地区在郷に車は置いて、歩いたのよ。で、南三陸町の志津川のホテル観洋まで歩いてきて、2日目はそこのバスに泊まって。3日目に、志津川に入る所の橋がないから遠回りして、1か所橋が残ってた所まで歩いて行って、橋を渡って来たの。たくさん歩いたな。結局、3日目に志津川の中心部に帰ってこれてね。すごかった。びっくりしたよ。志津川に戻って来たら何にもないんだもん。
一番最初、避難所になってる志津川高校に行ってみたの。避難してだれかいるかなと思って。隣の家の人とかはいて。小さい頃おやじは亡くなってて、震災の前まではおふくろと暮らしてたんだけど、避難所におふくろはいなくって。
親戚のおじさんで、大工時代の先生でもある人、親父って呼んでるんだけど、その親父とおばさんも行方不明。だから、3人行方不明。この前も、姉と義理の兄貴と、葬式の相談してたんだ。だから今はね、やっぱり津波でのことしか考えられない。
家もね、もう元あった所には家建てられないから。許可出ないから。どっか、高い所削るのかな。どうなのかわかんないな。やっぱりね、今まで住んでいた所がいいもんね。元の場所にってね。まぁ、難しいと思うけど。
2人の親父 ―親戚のおじさんが、俺の所に来いって―
おやじ(父)は大工じゃない。全然違うの。志津川で床屋さんやってたの。でも俺がね、1歳半ぐらいだって言ったな、おやじが入院したから。それで、おふくろが床屋始めたのね。手習いみたいなの覚えて。おやじ、入院して1回も帰ってこなかったから。だからほれ、一緒にご飯食べたこともないし、おやじと俺、全然わかんないんだ。病院は遠かったから、行けなかったの。おやじが仙台の病院で亡くなったのは、俺が中学校3年生の時だな。2月だな、寒かったんだ、あの時も。
俺、床屋はっきり言って嫌いだった。逃げてたの。大嫌いだったの。だから床屋は継がなかった。今だったらやってもいいなと思うよ(笑)。夏場は涼しい所で、冬はあったかい所でいるんだから。
でも、やっぱりおやじが亡くなってっから、みんなにね、役場に行けって言われたのよ。志津川の公務員になれって。公務員は嫌でなかったけど、だんだん勉強するのがいやになっちゃって。入ってればよかったかな。
そうしたら、親父(親戚のおじさん)が大工で、東京に出稼ぎに行くから俺の所に来いって。だから、行くわって。他の職人さんと4人くらいで行ったのかな。その頃東京に行く人は結構いたのね。出稼ぎみたいな感じね。北海道か東京のどっちかだったの。俺が15歳の時で、親父は30過ぎだったと思う。
結局みんな、大工職人とか、船乗りとか、そういうのになる人が多かったの、昔っから。手に職を持てって言われたのね。食いっぱぐれないから。気仙大工も有名だしな。床屋さんの数も多かったのよ。ライバル店が。それに結局、こっちに勤めっところがないから、仙台とかそっちの方に出て行ったりするのね。
東京で大工見習い ―東京はいい所だなと思ったよ―
志津川小学校と志津川中学校を卒業して、親父と一緒に東京に行って、大工の仕事した。7、8年かな。東京の葛飾の方にいた。いろんな会社歩いたね。新橋の会社とか、押上の会社だの。いろんな会社にその都度所属して。弟子入りね。最初は見習いみたいな感じで、5年間は見習いだ。親父が先生。東京では家を建てたな。新橋の会社では家とか、舞台ある所とかやってたのね。
大工の世界、厳しいよ。俺の先生は、特に厳しかったね。俺のおじさんなんだけど。短気なのよ。例えば、掃除してるでしょ。ちょこっとごみがかかると、ものが飛んでくるんだもん。俺の後輩のやっぱり志津川のやつも、東京に入ってきたの。そいつね、10日もおらなかったな。仕事の現場からいなくなったのよ。親父と2人で探した探した(笑)。家にいたんだけどね。
東京はいい所だなと思ったよ。志津川にはないような立派な靴が買えたしさ。今はね、どこ行ってもあるけど。あの時は、弟子は小遣い制だったの。1年目でね、小遣いが1か月1,000円だった。当時としては結構よかった方だよ。別にね、家賃と食費はもたないし、それに、お金もらってもほとんど使わないからな。当時、1杯のラーメンは100円もしなかったね。床屋がね、250円かなんぼだな、安いところで。よく映画館に行ったの。2本とか3本で50円とかだ。娯楽は映画だね。パチンコするわけでねぇし。まだ未成年だから、酒は飲めねぇし。タバコは絶対だめで怒られたもん。2年目で2,000円、3年目で3,000円。
見習い卒業すると一人前。一人前は給料制でなく日当だから、仕事しないとお金になんない。当時東京で、1日1万円までいかなかったかな。9,000円くらいかな。一人前になると、自分でアパート借りたから、稼いで家賃も払わなきゃねぇし、食べなきゃねぇし。
道具もね、ちょうど俺が東京に行ったころに電気鉋が出てきたの。電気の鉋とか、鋸とか、ドリルとかね。自分で買わなきゃねぇから。一番最初だけね、親父に電気鉋とかはもらったんだけど、年数使ってると古くなるでしょ。だから、新しいの買ったりしねばならない。全部機械だから、揃えるのも大変よ。でも道具なきゃだめだから。それに、手入れもしなきゃいけねぇし。だけど、それも今回の津波でみんな流されたの。自分の道具。
仙台へ、そして志津川へ帰る ―いつかは帰って来るって頭にはあったのね―
東京に来て7、8年目に親父と喧嘩したんだな。先輩がさ、あまりにも頭に来たからな、親父に文句言ったのよ。「何で俺の方が仕事できるのに、給料安いんだ」って言ったの(笑)。でも別にさ、親父からは何にも言わないわけ。だから、だめだな、仙台さ行ってみっかと思って。仙台でいとこが工務店やってたから。ちょうどいいころかと思って、喧嘩して東京離れたの。でも別に、喧嘩別れって感じではないよ。親父はその後も東京にいたね。喧嘩しなけりゃ、東京の方が住みやすかったかもしれないけどね。独立ってことだね。
仙台に来て長かったな。30年くらいいたな。仙台でいとこがやってる工務店で大工をして。プレハブだのやってたけどね。仙台で勤めて、仕事で志津川や歌津でも仕事したよ。もう津波で壊れったけど、歌津の公民館だのやったんだよ。がっかりしたね、流されて壊れて。志津川でも個人の家建てたりね。
仙台にいた時は、仙台に住んで、1週間に一度志津川に帰ってきてた。家があるし、お袋は1人で床屋をやってたのね。やっぱり床屋を継ぐつもりはなかったね。大工はお金もとれたし。でも、東京や仙台にずっといるっていう選択肢もなかった。だってほら、長男だし、家こっちにあるでしょ。帰ってこなきゃねえし。いつかは帰って来るって頭にはあったのね。次男だったら帰ってこなかったかもな。ずっと仙台にいたかもしれないな。
東京から仙台、仙台から志津川に帰ってきて、志津川の工務店にいてね。志津川で建てたのは、個人宅とアパートもあるね。志津川の消防署の隣にアパートあったのね。あれも建てたけど、津波で流されたの。2度、1億円くらいかかった個人宅を建てたね。お金のかかった家や大きい家は、やっぱり印象に残るね。
失敗や事故 ―危なく死ぬところだった―
見習い時代は、結構失敗して怒られたよ(笑)。電気鉋で手を削ってみたりさ。あとは、東京で盲腸取ったんだ。10代の頃だよ。
大きい怪我は仙台であったな。28歳くらいの時だな。危なく死ぬところだった。1週間くらい意識なかったっつったもん。これからは会社でプレハブの仕事もやるってことで、静岡まで講習さ行って、帰って、何棟目だかの時だな。材料降ろししてた時だな。2mくらいの高さから落ちて、頭打って。そんなに高くなかったと思うんだけど、あの時ちょうどヘルメットかぶってなかったんだな。なんだか知らないけど、入院中に無意識のうちに先生のことぶん殴ったんだって(笑)。意識ないっちゃ。よく覚えてないの。でも1週間目で、なんか急に目が覚めてしまったんだな。意識もどったのね。で、頭の検査で大丈夫だっていうから。でも、1か月くらい休んだかな、退院して。
それ以外は屋根から落っこちたこともあるな。肋骨折って1か月入院したな。仙台にいたころね。あの時は苦しかった。意識あったし、ヘルメットかぶってたから。
手術後、大工を辞める ―手術すると、体力元に戻らないもの―
志津川に戻ってきて、3年経った時かな。手術して。原因は飲みすぎとタバコだったの。胃の3分の2を取ったの。今も薬飲んでる。3食ご飯食べる前に。
津波の時、薬なくなってさ。仕事に行ってたから、弁当の袋に入れてあったのは1週間もなかったな。だから、2か月、薬飲まないで食べたんだ。胃の悪い人は、ラーメンだめなんだって。でも、避難所ではカップラーメン多かったね。
それでタバコはやめたの。お酒はちょっとならいいんだって。結局さ、大工さんや職人さんはお酒飲む機会が多いさ。ご祝儀もらうでしょ、するとだいたい次の日みんな休みだから、思いっきり飲むわけよ。みんなで行くから、好きだよ。だから、胃を壊したの。
大工の仕事は、朝の8時から10時までやって30分休憩して、それからお昼まで。であと、1時間休憩して、今度3時まで。休憩30分とって、5時か5時半まで。毎日は飲みに行けないけど、みんなで行くか?ってなっとね。それが楽しみで。それしかないでしょ、仕事してて。
今もね、仕事が終わってくっとね、帰ってきて、隣の人と飲んだりね。隣の仮設住宅の人も同じ会社だから、一緒に飲めば1人じゃないからいいのね。仮設住宅、1人の人も結構多いからね。でも、ただ挨拶ぐらいだからね。
手術後に、また大工やったけどね。やっぱりね、手術すると体力元に戻らないもの。筋肉が落ちてね。今、陽に焼けてるのは外仕事やってっから。夜勤もあったっちゃ。
見ればわかる ―仮設住宅だって、場所によって造りも材料も全然違うよ―
やっぱり、見ればわかるよ。こいつはなかなか動きがいいなとか。こいつはちょっと時間がかかりすぎるなとか。よく言われたのね。時間をかけて上手なのは、誰でもできる。早くやって上手なのがいいと。それからやっぱり、仕事は目で盗んで覚えろってことは言われたね。だって、教えてくれないから。俺も上の職人さのやることを見て、やっぱりそれで覚えてきたんだ。一切教えてくれないってことはないけど、細かくはね。でも、俺の親父は教えてくれなかったな。短気だしさ(笑)。
体が動いていたら大工を続けてただろうな。手術をしていなければな。全然辞めたいとは思わなかった。怒られても別に、がんばんだ、今に見てろと思って。今でもやっぱり、建物建ててると気になるもん。いい材料使ってるなとかわかるよ。いい材料はね、目が通ってたり、狂いが来ないやつね。割れたりしないやつ。やっぱり日本の材料がいいな。今は外材多いからね。やっぱり、日本の風土に合ってるんじゃないかな、日本の材料が。秋田杉とか青ヒバ(青森県のヒバ)とかね。そういう材料で建てようとすると、高いよ。
この震災復興で建ってる仮設住宅だって、場所によって造りも材料も違うでしょ。メーカーによって全然違うのよ。それこそ、本当のプレハブだなというのもいくらもあるでしょ。壁に外壁きちんと張ってる所も少ないと思うな。壁とか、天井とか、本当に違うね。気仙沼あたりもね、仮設が雨漏りする所も出てるのね。
チリ津波の時 ―2回流されたんだ、うちは―
チリ津波(昭和35年)の時は小学校5年生だったかな。その時も、うちの床屋が流されたから、親父に建ててもらったの。そこで、おふくろはまた床屋をしてたんだ。それが、今回の3月の津波で家も店も流されたから、2回目流されたんだ、うちは。
チリ津波も見てたんだもの。覚えてる。全部、海の底が見えたんだ。海が引いてね。そうすると、魚が浮くんでさ、それを獲りに行った人が逃げ遅れて死んだのよ。一気に津波が来たから。この前の3月の津波みたいな高さじゃなかったけどさ、家も将棋倒しみたいに倒れていったんだもん。その時俺はね、元の志津川高校があった所にいたの。だから、すぐに逃げられたのね。津波って人生の中で来たことがなくて、これが初めてだから、ぜんぜんわかんなかったよ。
志津川というところ ―これからが一番いいのね、志津川は、夏が―
志津川はね、開拓して入った人多いから、山の暮らしもあったの。海だけじゃなくて、すぐ山だしね。小中学校の頃は、山で結構遊んでたんだ。昔はご飯なんか竈で炊いたでしょ。それで、すぎっぱっていって、杉の葉を採りに行ったの、山に。山で栗拾ったりもしたね。学校から帰る途中で、誰かの畑のきゅうりを勝手に食べたりもして。海でも遊んだな。海水浴は毎日行った。荒島(あれしま)があるところの袖浜海岸とか、俺らの小さい頃は、八幡川でも泳いだんだよ。川幅もちょうどいいくらいでしょ。釣りもやったね。水門がある前がうちの家で、目の前が川だったから。ハゼやカレイも釣れたんだよ。ほら、塩水と真水の合流地点だから。家の2階から竿を流せたんだよ(笑)。
花火もあったしね。7月の最後なんだな。けっこう観光客が来たね。うちの前、車いっぱい止まったのね。仙台からさ、仕事終わって帰ったんだけど、観光客が多くて家に帰れなかったことがあったのよ。志津川は観光地がたくさんあるんだけどね。夏なんかはね、結構海水浴なんかに来てるのね。釣りとかできたし、釣り堀もあったしね。鯛とか釣れたんだよ。でも、今は全部やられてしまったからね。みんな、観光ができる時に来てくれてたらよかったなと思うけどね、しょうがないよな。本当はね、これからが一番いいのね、志津川は、夏が。