人生3度目の被災

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自然の脅威だから想像つかないもんね。だから、いろんな固定観念だとかを捨てて、まず高台に上がって自分の身を守れってのが大事
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Tokyo Foudation
Geolocation
38.6758411, 141.4501125
Location(text)
宮城県南三陸町志津川地区
Latitude
38.6758411
Longitude
141.4501125
Location
38.6758411,141.4501125
Media Creator Username
Interviewee: 勝倉彌司夫さん, Interviewer: 山本満
Language
Japanese
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Japanese Title
人生3度目の被災
Japanese Description

勝倉家13代目。長男として生まれ

私は、勝倉彌司夫(かつくらやすお)と言います。昭和8年12月1日生まれ、現在77歳。出身は南三陸町の志津川。生粋の志津川っ子。家族構成は、3年前に家内と母親を亡くしたもんですから、今は長男と長女と3人で住んでます。6人兄弟で、私は長男です。親父はもともと教員で、志津川の小学校の校長、その後は教育長を務めました。祖父は昭和20年に亡くなったんだけど、昭和初期にこの町の町長をやっていました。その頃の町長は無報酬、いわゆる名誉職でした。

私のうちは、約二百数十年続いてるうちなんですが、私で13代目かな。私は長男だっていうことで、大事にされていました。うちを守んなきゃなんないってことでね。それで何不自由なく生活していました。

私の入学したのは尋常小学校、その後戦争で国民学校となるんだけど、そこに6年いて、その後に今度は高等科ってのがあって、これが2年かな。戦争で敗れたもんだから新制中学校の3年に編入させられた。学校では、奉仕作業や午前と午後の2部授業などがあった。戦前戦後のひどい時にいわゆる学生生活を味わった。

戦争のときはみんな戦いに行ってるので、私たちは働き手ですよね。学校から帰ってくると、山に行って杉の葉を拾ったり木を拾ったり。それは焚き木をするため。そういうのをしないと、ガスもないから。電気はあったけど冷蔵庫や電子レンジとかないでしょ。あとは、例えば海が荒れたりすると、海に行ってワカメや昆布などを拾って、ご飯に入れて食べて。生活のために一生懸命でした。終戦直後は誰も遊んでる人はいなかった。そういうのを経験してるから、今でも何があっても生きていく自信はあるね。

大学は東京へ。その後、教育者の道へと

昭和27年に日本大学に進んで、大学は水道橋で住んでいたのは板橋。大学は文学部の社会学科だった。社会学科だから社会科の先生の資格を取ったけども、新聞記者だとかジャーナリストだとか、そういう道にいく人が多かった。当時は親からの仕送りと家庭教師の収入で生活していた。家庭教師をすると結構いいお金をもらって。収入よりもおやつと夕ご飯を食べさせられ、そっちの方がよかったね(笑)。アルバイトをしないとやっていけなかったですね。

大学を卒業してからは3年くらい出版会社に勤めて、そして長男なので志津川に帰った。おじがやっていたソーセージを作る会社に営業で勤めて、1年くらいかな。その後、町で社会教育指導主事を置かなくちゃなんないってことで、そのためには教員免許を持ってるか、公民館職員の経験を5年以上した人じゃないとダメだった。私は教員の資格を持っていたもんですから、「どうだ、やらないか」って言われて、やったわけです。その社教ってのは、公民館の運営とか、婦人会や青年会とかいろんな団体のお世話をする係なんです。

結婚は昭和39年にした。37年の10月から教員になって、小原木中学校で社会科の先生になった。それ以来32年6カ月教員を務めました。その間、仙台の鶴が丘中学校、そして志津川小学校、志津川中学校で校長して。そのあと志津川町の教育長を6年務めた。そしてシルバー人材センター、60歳以上の人達が集まって、昔のいろんな知識・技能だとかを社会に還元しましょうって組織で、それの初代の理事長になって、9年前から津波が来るまでずっとやってました。

人生で3回の被災。だからこそ言いたいこと

今度の津波で私は被災3回目なんです。1回目は昭和8年に志津川で大きな火事があってね。私のうちも全部燃えてしまった。35年の5月24日にチリ地震津波で、私のうちも町の中にあったもんですから、床上2メートルくらい津波が来てるんです。そのとき私は教育委員会の職員だったんだけど、町長が「津波で青少年が意気消沈してるから、夏の間だけキャンプ村をやろう」と言って、私は教育委員会から派遣されて、そこの初代村長をやったんですよ。だから、77年生きてる間に火事と津波を3回経験して、今度は全部何もなくなってしまった。そういう人生です(笑)。

チリ地震なんか、地震なく来た舶来の津波だったわけですから、よく石碑なんかに「地震があったら津波に用心」って書いてあるんだけど、それを「異常引潮、津波の用心」と変えなければなりませんね。

昨年9月、宮城県主催の「津波シンポジウム」がベイサイドアリーナで開催され、東北大学の今村教授をコーディネーターに、津波体験者の3名の発表があり、私も教育関係者として発表しました。私は数年前から、町や学校からの要請で津波体験のお話をする機会があり、小学生と父兄に「津波の時にはこうやりなさい」など話しています。それが生かされたのかどうかはわかんないんだけど。「僕のうちは高台にあるから津波は大丈夫」って考えがあるわけね。高台にあってうちは大丈夫かもしれない。でも、本人が学校に行く途中だか帰る途中だか、買い物してるか遊んでるか分かんないでしょ。そういう時に来る可能性もあるんですよ。だから地震だとか異常なときにはすぐ高台に上がんなさい、自分の身は自分で守らなきゃならないことを強調しています。そういうことを継承していく必要はあると。

今度の場合は「想定外」って言葉がよく使われるんだけど、これは本当だと思う。我々の概念では、津波は6メーターくらいだから、2階に上がれば大丈夫って思うでしょ。さらにはその奥で、おれのとこは海から何キロも先で津波は来ないだろうって。でもそこまで行ったでしょ? 自然の脅威だから想像つかないもんね。だから、いろんな固定観念だとかを捨てて、まず高台に上がって自分の身を守れってのが大事だと感じたね。

震災前の志津川での生活

志津川は海や山の食材が豊富で、食料にも困らない、観光に力を入れて、人工の海水浴場なんかも作って、自慢のできる町だった。それが一瞬でこういう風になってしまったんですが、一番課題だったのは人口の減少、少子化だね。学校がだんだんだんだん廃校になったり、統合になったり、複式になったりね。複式ってのは、ひとつの教室で2年生と3年生の子供が授業やったり、1人の先生が2学年教えたりすることです。

私も何不自由なく生活してましたよ。毎日、庭の手入れをして。庭も津波の来る1年前に大金をかけて作ったばっかしなのに、みな流されてしまいました。でも、よくみんなに「津波でいろんなもの流されて何が惜しかったですか?」って言われるけど、惜しい物ばっかしで何も言えないのよね。命だけはあったから、それだけでいいかと。私の同級生や知人にも、家族全員を失った方もいるし、いろんな方がいるし、それらを考えればね。

私は、先ほど言ったように、校長、教育長、シルバーセンターの理事長をやったりして、ずっと町と関わってきたので、町内の方はほとんど私を知っているし、いろんな方にお世話になってるわけだから、これからも、どんなことがあっても、ここで生き続けたいと思ってる。この町はすばらしいですよ。ただね、自然の脅威にはおそらく勝てないけれども、それと上手に付き合ってね。やっぱりこの町のすばらしさを、後世に残していくってのは、我々の大事な使命だと。津波が来るからってみんな町から離れてしまったら、この町がかわいそうですよ。私はそういう意味で、必ずこの町で生き続けたいですよ。

津波が来た時、その時私は…

津波来た時には、シルバーセンター事務所にいたのよ。そしたら、事務所の女の子が持ってきたコ―ヒーが揺れてふっ飛んだのよ。そのうち、これはダメだということになって、皆避難しなさいと。それで避難することになって。息子がうちにいたもんだから、うちに帰って、高台に避難しようって言って。避難をしようと思ったら、途中で車がパンクをしてしまった。でも、渋滞してしまったら後ろの人が動けないでしょ。そこで、パンクのまま300メートルくらいずーっと進んで、志津川小学校の高台に上がって。それから10分くらいして津波の第1波がきた。だから、そこでうろうろしてたら、今頃命がなかった。それから9日間、学校の体育館で立ったまま寝たり。あのころ寒かったから、雪が降ったりねぇ。でも、いろんな人達がおにぎりや水を持って来てくれたりして、みんなで協力をしながら避難生活をしました。

被災して、最初はやっぱり家族が心配だったね。息子には電話で連絡したんだけど、繋がんなくて。息子と連絡ついたのは3日目かな。全然通じなかった。瓦礫の中を歩いてきた。そして今度は、私が無事だってことを息子が横山って峠に約2時間くらいかかって、娘に教えに行った。だから、家族が無事だって分かったのは3日後くらい。携帯も通じなかったし、電池も切れてしまうしね。

親戚の確認をしたのも、しばらくしてからだもんね。「おぉーあんたも助かったのかい」って抱き合ったよ。その会話は「よかったね、無事で」ってそういうもんですよ。物がなくなった話なんかはしないですよ。最初は、「無事でよかったね」と、「どこにいるの?」、そしてあとは「お互い頑張りましょう。」とね。それだけだと思う。

避難所で、規律をもって乗り越える

物資が来たのは、3日目、2日目あたりかな。おにぎりなんかは、次の日から来たけど。毛布も3日目かな。兵庫県の物資が一番最初だったね。一番はトイレが大変だった。水洗便所があって、プールがあったから、大便をしたあとはプールから水を汲んで来て、それで流すようにやった。最初は役場職員が運んでたんだけども、みんなで順番を決めて運んで、そして流す。それも自治会で、今日は何班が掃除とかルール決めてね。

時にはいろんな要望が必要なんだけども、役場職員の言うことなんて、なかなか聞かないんだよ。だから、例えば物を配布するときとかに、避難所の中で責任者を決めて、班員を決めて、「今日は物資を何班から渡しますよ」とか、「何班は何人いますよ」とか、きちんと名簿作ってやっていかないと、多くもらったりとかいろいろあるでしょ。規律ってのは大事なんだよ。ああいう時にはパニックになってしまうからね。みんなで知恵を出し合いながらやんなくちゃいけない。人と人との「絆」の大切さを痛感させられましたね。

やはり、車で逃げてはいけない?

私は、たまたま山に近いから逃げれたけど、今回の津波では車で逃げて助からなかった方が多かった。みんな山の方の高台目指すでしょ。結局渋滞になってね、迂回路もないし。だから、これからもし町づくりをするんであれば、高台への放射状の道路が必要だね。避難路の確保が大切だね。今度の町の構想なんか見ても、商店街や水産工場などは下でもいいから、住宅は高台に、何かあったときには、そっからすぐぱっと避難できるようにしないといけないね。

復興にあたっての要望―すてきな町志津川。自然と上手く付き合ってく

これからは、コミュニティ作りってのは大事だと思う。そのためには、拠点となる集会所みたいのがあって、イベントを開いて、みんなを集めて、気分を発散する場所が必要です。何回も言うけど、心のケアとかコミュニティ作りが大事だよね。あとは、子供達のフォローだな。子供達もみんな違うと思う。自分を大事にしてくれた、おじいさんおばあさんを亡くした人も、お父さんやお母さんを亡くした人もいるだろうし、兄弟亡くした人もいるでしょ。そうしたら、精神面でいろいろ傷跡がたくさんあると思うんだよね。だから学校教育でも、目に見えない子供のケア、カウンセリングは大事だと思う。子供の不満、不平がいつ出てくるか分からないから。例えば、お母さん亡くしてグゥーって抑えてる子もいるかもしれない。それがいつ爆発するかわからない。そういうことがあるから、子供達のケアが大切だよね。学校でも、絶えずそういうのを見過ごさないようにしなくちゃなんないな。

町に要望したいのは、私みたいに自分の生まれた町に住みたいっていう人はいるんだから、それらの人達が安心して住めるような、新しい、思いきった、防災に強い町の設計図を作って、それを早く実現してほしい。そして我々が南三陸町に戻っても、安心して生活できる安らぎの場所を早く作ってもらいたいってのが夢だね。すぐにはできないだろうけど、きちんとした計画の下にやっていく必要がある。自然の猛威には勝てないと、我々分かってるからね。もう痛感しているから。専門的ないろんな知識の下、新しい構想ってのは必要だよね。

今回の東日本大震災に際し、世界各国や日本全体からの暖かい支援、いろんなボランティアさんが誠心誠意でいろいろやってくれたことに対して、何をお返ししたらいいかって思います。だから、今後、世界各国や日本国内で何か災害があった時には進んで、支援したいですよね。

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