プロフィール
昭和24年8月の27日生まれです。家族はね、今全員元気ですよ。お袋は喘息持ちなので、避難所から1週間で病院さ移すことにして、あとは皆、無事逃げまして。孫はね、7月の11日に生まれたの。北海道なの。そんで、津波で家流されたんで里帰りしようと思ってたんだけども、今日女房迎えに行かせて、一軒家借りたからこっちに来いということで。初孫なもんですから。迫町(はさまちょう)の佐沼に住んでる。兄弟は4人だよ。私が長男だから、あと下のが弟2人と妹1人だ。皆元気でやってますよ。妹の方もね、孫生まれていますね。で、うちのお袋は、曾孫が2人。うちが皆結婚遅いのでさ、「やっぱ曾孫だけは見たいもんな」って皆そう言うよ。孫はまだ首座んねえからさ、やっぱ抱いでも怖いんだ。カクンてこう首がいくから。やっぱ娘が抱くのと私が抱くの違うらしいの。分かるんだよな。すぐ泣くんだ。で、娘に戻す。
お休み中の佐藤新聞店
仕事は今はなし。前は教員してて、定年後は新聞屋をやってたの。佐藤新聞店っていって、震災前までは南三陸町で1軒だから、3,500部扱ってて。96年やってたの。100年はやろうかなぁと思ってたんだけどさ、大震災で人口が減ったでしょ。5日ばり新聞を避難所に届けたんだけども、油切れたからやめて、で今仙台の本社に任せてんの。とってもできねぇんですよ。車を9台流されて、従業員もバラバラで、配達する方もいないのでね。
朝2時起きして、家族で仕分けして運転手さん6人で配送して、あと配達に30人行って、8時に終わって、ごはん食べて、寝て、でまた午後から。夜は8時に寝る。その繰り返しの生活です。10年前に親父亡くなって、新聞店と教員の兼業はできねえから娘を呼んで、一応仕事をさせて。私は教員辞めた後は正式に新聞屋やってたんですよ。
大学での出会い、生物への道
ここ志津川の生まれ、育ち。この辺から出たことがない。だから他のところはね、分かんないんだ。志津川小学校、志津川中学校で、高校はね、佐沼高校に行ったんですよ。大学も宮城教育大学です。
大学では生物を専攻してた。宮城教育大学にいる先生が東北大の助教授だったんだ。有名な先生だけどね。その人につきたいと思ったんだ。遺伝学の先生ね。人間の体を変えられるってのがあったんだ。それを形質転換っていうんだ。ひょっとすっと、人間が生まれ変わるんじゃないのかって。それくらいインパクトがあったんだ。だから1年生の時にすぐ先生んとこ行ってさ、「先生、ゼミに混ぜてください」ってってそこに無理やり入ったの。1年後にさ、その先生が転勤したんだ。それで自分で生物学をやってたの。
卒業論文では、ミミズの脳の働きを調べたの。生きたまま、ミミズの頭の白い環帯っていう部分の、頭っから3つめと4つめの節の間に脳があんのよ、そこをメスで生きたまんまぴっぴっと割いて、そっから脳を取って、脳がないミミズと脳があるミミズで実験して、脳の働きはどうなってんのか調べた。
大学院で細胞授業プログラムの研究
その後ね、大学院では細胞の授業プログラムってあって、細胞だけじゃなくて、動物が生きるということはどういうことか、植物が生きてるってことはどういうことか、ものはどういうふうに吸収されてそれがどのようにして体を作っていくのかとか、それを最小単位の細胞レベルで考えていこうと、そういう授業内容を考えて修士論文書いたんだ。
細胞論って楽しいんだよー。この宇宙も生き物だから、一番ちっちゃい単位で考えようというのが、私の細胞の授業なんですよ。細胞だけを教えると面白くないわけよ。何なの構造って、受験用だけかってなっちゃう。そうではないんだよって。これが基本なんだよ、そしてこれが集まっとどうなるかとか、集まった後どうなる。で、1回集まったもんがまた分散すんだよ、またくっつくんだよってっと、何で、どうしてってなんでしょ。そうすると、細胞1個1個が何なんだろうねってなるんだ。
それが細胞に惹きつける動機づけなんだ。そういうの深くやって、楽しい授業にしていかないと、理科を嫌いな方々がいっぱい増えてくんだ。やでしょ、計算をしたりさ、化学式覚えたりさ、星の名前覚えたり。つまんないんだ。理科って本来は、ああいうんじゃないんですよ。神秘を解明する道具だから。そのなぜかっていうことがないと、授業やる方も受ける方もつまんないんだ。そんな授業で給料もらってんの申し訳ない。「あー、先生もう終わったの」ってなるくらいの授業をしないと。私はずっと思ってたの。だから大学院に行って、もう少し突っ込んでやればいいのかな、なんて思ったの。
教師としてのスタンス
ほんとは私ね、体育がいいかなと思って。こう言っちゃなんだけどもさ、もうずっと小学校中学校高校と、体育は他の人よりかはうまかったんだ。皆さんは、私が将来教員になったらば、多分体育だろうって思ってたんだって。
でも理科は37年間、やって良かったよ。自分が楽しいもん、うん。教える方が楽しいってことはさ、受ける方も楽しいんだよ、多分。だから、理科だけはまず、生徒も頑張ってっけるからさ。ただ、子供達がその理科でなんぼ身についたかどうかは分かりませんよ。受ける授業が楽しければいいんだ。どこまで責任取るかって難しいんだ。教員は教えたことについて責任を取りなさいって言うんだけどもさ、それでも1時間1時間分かる授業すればその責任の一端をとれるだろう。そういうのが私のスタンスだったから。
チリ地震の時との違い
5年生の時に、チリ地震に遭ったんですよ。そしてねえ、同じクラスの女の子が1人死んだんだ。チリ地震津波ってのは、三陸でも旧志津川町、ここね、それと気仙沼市。鹿折(ししおり)っていって、今回の地震と津波で火事になったとこあるでしょ。あそこが大被害を受けたんですよ。ここでも四十何人死んでんだ。志津川にあった私のうちは、1階だけが水浸しになったんですよ。で、2階に寝起きして。だから、津波は2回目です。小学校は1階廊下だけが水浸しになったの。だから3週間後には学校始まったんだ。ごくごく普通にね。
必要な防災訓練の形
ここではさ、5月24日のチリ地震津波の日に、南三陸町の各学校で必ず避難訓練してんだよ。それから、地区でも町でもしてんだよ、防災訓練だけは。私思ったのは、チリ地震津波を想定した避難訓練だったの。チリ地震ってのは、わーっと来たんじゃなくって、地区によっては波が静かに来て5m上がって、ひゅーっと引いただけだった。屋根の上に登った人も助かったし、畳の上にいた人も助かったんだ。だから防波堤の高さも5m。あんな20mも波が来るとは思ってない。今まで訓練やった50年間は何なのって。誰があれを基準って言ったのかな? 勝手に皆思ったんだよな。
学校では、校長として子供たちにはこう教えんだよ。「自分の命は自分でしか守れないからね。いいですか、他人をあてにしたらダメなんだよ。危険を感じたらば、すぐ逃げなさいよ」って。勤め先でも避難訓練はすんのね。だけどもチリ地震津波を経験した方々は、頭ん中では、「前に来なかったから今回も来ないだろう」という思いがあったんじゃないの。私も逃げっ時はそう思ったの。今夜帰って来れるだろうって。
チリ地震津波は日本に津波が来る前の日にハワイに来て、分かってたから準備もあったけども、今回は準備も何もねかったから。地震2回来てすぐだもんな。それでね、逃げ遅れた方々が大分いるんじゃないかな。防災対策でも、想定っつうのにあんまり重きを置くと、こういう被害がおっきくなんだな。今回は1,000年に1回の地震って言うけども、今度は偶然にそうなったけども、また明日来るかもしれんしね、そんときは全然分からねえんだよ、自然災害だから。そうなるとやっぱり、基本は自分なんだよ。警報来たらば、仕事も放りだしてもよいから、とにかく逃げようっていう条件反射を植え込むことを徹底していかないとな。それはやっぱり小学校からやっていかないとダメなんだなぁ。自分の家から学校までの間で一番近い高台どこなのかってことを、シミュレーションしながら防災訓練をしないとだめだなぁと思った。もう少し学校での防災教育ってのを考えなきゃだめだなあ。マニュアルで全部決まってるんだ。ところが、臨機応変にしなければだめなんだ。私だって、避難所に1回上がって波来たからまた上がって、今回3回上がったよ。私んとこは裏山だから50mまで登れっけど、登れないところはどうすんだべかなーって。
子供の心のケアの必要性
あともう1つ言っておきたいのは、この津波の経験をしてる子供さん方の心のケアね。中には、津波で流される姿を見た方もいるんだよ。で、ある日突然、パニックになるんだ。子供さん方が、じいちゃんばあちゃん方、家族が流れていく姿見たら、一生残るよな。でもしょっちゅう散歩で行き会っても、話題にしないもんな。だから学校教育ってのは、そこまで入っていかないと。心のケアって結局、頭にこびりついたものを和らげて、忘れさせるようにしなきゃなんねえんだ。で、パニックになった時も、自分でコントロールできるだけの余裕を持たせなきゃなんねえんだ。
それはカウンセリングしかないんだよ。しかも、子供は知ってる人には心を開けるけども、初めて来た方には簡単には心を開けねえから、学校の先生方、担任さんをカウンセラーとして研修受けさせて、子供の思いを聞き取れるような人にしてもらわなきゃいけねえんだ。子供の気持ちになれるのは担任が一番だから。避難所は経営が精一杯で、障害児とか子供のことが政策として抜けてんだ。せいぜい遊び場でしょ。違うんだよな。下手したら一生残ってさ、社会生活ができなくなる可能性だってあるんだよ。大人の生活力が一番でしょうけども。今の現状を高めながら、この下も高めていかないと。同時進行にしていかないとさ、ダメなんだ。間に合わねえんだよ、いざって時に。なんとかして復興させようと思ってるけども、いざ形ができて魂を入れる時に魂ねかったらどうすんだっていうんだよ。意欲なくてさ、どうでもいいやってなったらどうすんだよ。そういうこともあんだよ。小学生にも、その次の中高校生にもさ、やっぱそれなりの手当てをしていかないと。
と同時に、町の復興についてもどっかで考えさせて、将来、復興のために何ができるかってことも、機会をとらえて子供たちに投げかけていかねえと、だめになっちゃうよ。そこだけ言ってくれればいいんだ。行政だって分かってるけど、できねえんだな。予算ねえから、でもやっぱり忘れてはダメだなーと。だから、人材がいないところで、それを確保するにはどうするかってところなんだよ。そうすると今いるスタッフを使うほかねえから、レベルアップだから。そういう手立てもあんだよね。その辺まで考えてほしいな。
話す相手は誰でもいいわけじゃない
仮設の方もつらいらしいんだ。家族がいなくなった孤独感をなくすために、どなたかにしゃべればいいっていうでもないんだよね。誰でもいいわけじゃないんだよ。この人はこの人なりの話し相手を探してるんだよ。だからこの人が欲しい話し相手を、第三者がいてお話をしながら発見して、その人を紹介するように手当てをするようにすればいいんだけども、今はこの人のお話し相手のために第三者が入って、「お元気ですか」とかって、それで終わりでしょ。それはね、私からすりゃ、意味がねえんだ。そういうことをきめ細かくやっていかなきゃならねえ。これはね、ボランティアじゃできねえんだ。専門性がないと。やっぱり声掛けする方も、行政でね、心がけ1つでも気を遣ってほしいな。「こんにちは」って言って、「ご飯食べた?」ってな。あと世間話くらいして、おじさんがしゃべんの待ってんだな。それくらいしかねえんだよな。そしてやっぱり正確に把握してきて、この方は「まいってる」な、少しひきこもり気味だなとかってことを、行政さんに報告してさ、あとちょっとケアしてもらえたらば、なおいいかな。とにかく訪問したから孤独感が治っかっていうと、治るわけないんだよ。なかなかそれだけはね、難しいんだ。
頑張れという言葉のつらさ
そういうことも若い教員に教えてやんなきゃなんねえ。子供に「頑張れ」っていうじゃん。元気ねえから、頑張れよじゃねえんだよ。「頑張れ」で元気出せれば出すのよ。出せねえから困ってるんでしょ。その辺若い教員ってのは、なかなか分かんねえからね、何故かっていうと今の若い教員って優秀だから。もう理論づけですごいんだから。それにともなう実績ってねえから大変なのよね。
失敗しちゃダメなんだよ、教育っつうのは。戻すに戻れねえんだから。重要なことなんだ。その辺も含めてね、やっぱり同時進行していかないと。そうすれば復興も意外と思ったより早くなっかもしれん。皆頑張ってやろうってなったらすごいと思うよ。若さはねえ、強さなんだ。若さを誰が作ってやんのか。それは今の大人たちが、作ってやんなきゃなんねえんだな。これが責任なんだよ。自分の生活もあるけれども、そのほかに子供たちをどういう若者にしていくかってことも考えなきゃ、と思います。