復興への歩み、草木とともに

Submitted by Tokyo Foundation on
Item Description
打囃子だのなんかの練習に小学生から入ってもらったんです。大人が指導者になってね。そのようにしないと伝承が上手く続かないっていうことでですね
Translation Approval
Off
Media Type
Layer Type
Archive
Tokyo Foudation
Geolocation
38.6758411, 141.4501125
Location(text)
宮城県南三陸町志津川地区
Latitude
38.6758411
Longitude
141.4501125
Location
38.6758411,141.4501125
Media Creator Username
Interviewee: 佐藤節男さん, Interviewer: 冨永朋義
Language
Japanese
Media Date Create
Retweet
Off
Japanese Title
復興への歩み、草木とともに
Japanese Description

幼少の暮らしが生業の原点-自然とそっちの方さ向いていった-

佐藤節男(さとうせつお)です。昭和9年生まれの77歳です。喜寿ですね。子どもは男2人に女1人、孫もいます。駅前で総合園芸店やってましたが、津波で流されました。

生まれたのは、志津川地区の真ん中あたりにある十日町というところです。十日町というのは、そこでお盆や正月の売出しの日、市日を10日に立てたっていうところからですね。5日に立てたところは五日町。女4人、男3人のなかで、私は末っ子。昔とはいえ、多い方ですね。一番上の姉とは12歳くらい離れていたんで、なんていうか、「めんこたまっこ」って状態で育てられましたね。「めんこ」はめんこい、可愛い。「たまっこ」は、珠玉ってこともないんだけど丸い玉っていうかね。「めんこ」と「たまっこ」は、大体つなげて言います。

小さい頃、体が弱かったんで、中学ではスポーツの方を重点的にやったらどうかっつうことで、野球、バレー、それから陸上競技、卓球もやりましたね。野球はセカンド。陸上は主に短距離でしたが、マラソンも得意でした。学校対抗の体育大会では忙しかったです。でも、それで体の方はすっかり丈夫に。勉強の方も、まあ成績はよかったですね。志津川中学では1学年200人くらいでしたけど、トップだったです。そして志津川高校に進んで。今のように全入っつうことはないですからね、1学年100人くらい。成績は2番。そして宮城県農業短期大学に、今の宮城大学食産業学部だね。そこでは、トップだったな。

自然とそっちの方さ向いていったんですね。親父は水産加工だったけど、実家には畑があって兄がやってました。大麦、小麦。あと、どんなものあったかな。ほうれん草、キャベツ、その他の菜類ですね。家には中庭もあって、そこでスグリを。スグリって、こう丸い、ブルーベリーってありますね。木いちごの仲間なんです。庭にはほかにもいろんな植物が植えてあって、親父やお袋からいろいろと教えられましたね。例えばトリカブト。綺麗だけども、こいつは根っこから花まで全部毒で、食べたりしたらダメだぞとか。山菜採りに連れていかれたときには、これは食べるのいい山菜だ、これは食べられないってお袋に教わったもんでね。

昼夜なく働いた2年間-もう体がガタガタ震えてきて-

農業短大を卒業した後、定時制の志津川高校の歌津(うたつ)分校で講師をしました。農業と理科の授業を。昼間は女子生徒、夜は7時頃から9時頃まで男子生徒。そして、空いてる時間は、公民館で青年学級っていう、各地区の若い人たちに集会所に集まってもらって、いろいろお話をしたり本を読んだりしてました。土曜日も学校があって、青年学級は日曜もありましたし、部落ごとにあったので。もう、毎日、昼夜忙しくて大変だったです。当時、お袋と親しくしていた方の家に下宿してました。4畳半の部屋に帰って、次の日の授業の下調べしていると、もう体が疲れてガタガタ震えてくるような状態になりましてね。本校の夜の授業が終わって家に帰った時に、お袋がうどんか何か、あったかいやつを出してくれてね。ちょっと涙が出てきました、その時は。

教育委員会へ、役場にも出向-なんか起きっと引っ張られてね-

体が大変なので、講師は2年で辞めました。そしたら、ちょうど教育委員会で職員が辞めたから来てくれないかということで、それで歌津の教育委員会に入って、途中で志津川の教育委員会に移りました。歌津の時に社会教育主事の資格を取ったんですけど、短大出てるんで、62単位以上あると講習受ければ、すぐ社会教育主事になれましたから。それで社会教育の方やって。講師の時と同じように、青年学級だのなんだので、いろいろな地区に出向きましたね。今でいう生涯学習ですか。受講生を募って、いろいろと話し合いをしてました。教科書なんか使ったっつうことはないですけども。子どもの頃から本が好きだったもんだから、こういう本があるよって紹介したりね。志津川に帰ってからは、中央公民館の長もしました。今回の津波で、その公民館は波をかぶって、公民館長も教育長も亡くなってしまって。公民館を建てる時、設計段階から入りましたので、思いが深いんです。

教育委員会にいた頃、町でチョコチョコ問題があって、何度か役場の方さ回されたんです。出向ですね。例えば、医者が使った器具類なんかが、それは産業廃棄物だから医者が責任持って処理しなくてないんだというようなことを役場が言う。それに対して町の医師会は、なに、町民全体のお世話をしてんだし、そういうのは町の方で責任持って処理してくれたらいいんじゃないかってことで、ちょっと対立した時期があったんですね。その時、私が役場の保健衛生課に移させられてね。で、先生方と話し合って、産業廃棄物だから自分で処理するっていっても大変でしょうから、例えば、注射の針だの金属製のものは金属の容器に入れて筒の方はプラスチックの方にと分別して出していただければ、私の方でも処理しやすいですからって言ったら、先生達も喜んでね。そのように話してもらえばわかるんだと。何でもかんでも産業廃棄物だからって言われると困るんだということですね。

他にもなんか問題起きっと、そっちの方さ引っ張られて。ほら、当時の役場の職員で、短期大学でも大学出たっていうのは少なかったんです。大学とのつながりだの、こういう問題を解決するのにはいいんでないか、何とかやってくれるんでないかっていう期待があったんだと思いますね。そうやって、役場に移っては問題解決に当たり、終われば教育委員会に戻りという感じで。それで、59歳で辞めたんです。定年まで勤めたらどうかって言われたんだけども、好きな園芸をやりたいからっつうことで。

大好きな園芸を仕事に-子どもの頃から好きなことだし-

総合園芸店は、私が仕事を辞める前から家内がやってたんです。住居兼用店舗だったんで、教育委員会に勤めていた間、うちさ帰ってくると店の方やってました。園芸店開いたのは、志津川ではうちが最初です。短期大学で園芸やったもんですから、園芸店やったらどうだということで。鉢物、切り花、種、農薬とか、そういったものすべて扱ってたんです。

家の中庭に温室つくって、サボテンも育ててました。500種類、2000鉢くらい置いてました。忙しかったもんだから、手がかかんないのっていうとサボテンがいいかなって。これね、これ(直径3センチくらいのサボテンを見せてくれる)。サボテンは水分を出す気孔がうんと少ないんです。水を体内に多く蓄えていて、水やり忘れても、こいつはどうってことないんです。寒くても水やんなければ大丈夫です。細胞液の濃度が高くなって凍りにくくなるってことですね。その温室にも入れるようにしてましたから、欲しい人には売ってました。

お客さんは結構多いんですよ。「づんつぁん、いだが」って来る。「じいさん、いるか」ってことですね。はいはいって出て行くと、「農薬欲しいんだけんども」って。「どういう薬っさ、病気すか、虫すか、両方効くやつすか」って。全部わかりやすく説明するんで、年寄りのお客さんが多かったです。私はとことん説明するもんだから、妻には「そんなに詳しく話さなくてもいいんだから」って、よく言われましたけっどもね。薬害はこうだからって、そっちの方まで話が行ってしまってね。家内は切り花担当で、保健婦だったこともあって、お客さんとのコミュニケーションのとり方が上手でしたね。

勤めてた時も忙しかったけど、商売やってた時も忙しかった。昼は役場、夜は店。でも、生き甲斐だからね。子どもの頃から好きなことだし。息子も農業短期大学さ入って。同じ先生に私と息子が2代続けて習ったっていう教授もいましたね。

民俗芸能を守る-地域づくりとしてやったね-

駅前商店街振興会に入ったり、観光協会の会員、副会長と10年くらい在籍してましたね。その他にもほら、私もいろいろ興味持つもんだから、民族芸能ね。どこでもそうなんだけども、神社ごとに民族芸能、打囃子があるんですね。三陸沿岸には打囃子が160ぐらいあるって、民族芸能関係の先生なんかが話してましたけっども。その打囃子の保存会の会長、4年やりました。入谷(いりや)の打囃子は県指定なんですけれども、私、町の社会教育担当してたもんだから、いろいろ応援したりなんかしたったんです。やっときは徹底的にやるもんだから。研修視察っていうことで、山形の山車祭りや盛岡のさんさ踊りを見に行ったりもしましたね。

昔は民俗芸能だのなんかやるにしても、地域との結びつきもガッチリしてたし、地区民の長男だけしか入られなかった時代もあったそうだけど、参加者も結構多かったんですね。この頃はよそから入って来た人なんかもいっと、なかなかそこさ入り込めないということもあって。私はほら、会長やってた時は、地区のPTAの会長さんに協力していただいて打囃子だのなんかの練習に小学生から入ってもらったんです。大人が指導者になってね。そのようにしないと伝承が上手く続かないっていうことでですね、地域づくりの1つの手段として。

3/11、寺で一晩過ごす-家内が呼んだんだかね-

あの日は、息子夫婦と3人の孫と6人で自宅にいました。大地震の後から津波までちょっと時間があったんで、うちの息子は消防団さ入ってたもんだから、川の水門閉めに行きました。5分くらいして息子が戻ってきて、とにかく逃げなきゃダメだつうことで、車2台で大雄寺(だいおうじ)っていう大きな寺に、家内の墓地予定地のとこさ行きました。私は分家したもんだから墓地持ってなかったんです。家内が呼んだんだかなんだか、そんな感じがね。

3月だったからまだ寒くて。エンジンかけて車内を暖めては、暖まったら止めてっつうようにして一晩過ごして。翌日は車を置きっぱなしにして、内陸部にある入谷の小学校まで歩いたんです。1時間くらいですかね。その体育館が避難所だったので。物資が来るまでは、おにぎりが毎食1個、1日にもらえる水は15ccくらい。このビンですよ、その時に使ってたのが(「節男」と書かれたガラスのビンを見せてくれる)。

それで、山の高いとこにあるうちの姉の家が大丈夫だっていうのわかったもんだから、息子達は、私が一番年とってるし、医者通いしているし、お姉さんのとこさ行ってた方いいんでねえかって言って、そんで私は姉のとこさ行って2ヶ月間泊まってました。

草取りの毎日-株や芽を見つけると、楽しくてね-

この仮設から3、4キロ離れたところにある商工団地に土地持ってるんですけど、息子がそこに店建てっかって。津波で流された駅前は、もう建てられない地域になってますんでね。今は「佐藤園芸」って看板出して、切り花なんかを売ってます。

その土地は貸してたったんですが、今から2ヶ月前の9月末に返ってきたんです。駅前に店があった時から10年以上も、全然草取りがされてなかったんです。だから今は、毎日行って草取り。というか、それこそ根っこをひっくり返し、ひっくり返し。もう、クズの蔓とか根がすごいんですよ。手首ぐらいの太さになってんですから。普通だと、指の太さぐらいですよね。もう木のようなもんです。根切りバサミは全部流されてしまったんで、刈り込みバサミやノコギリ持って行って切るんです。仮設は一応2年なので、どうなるかわかりませんけども、住まいも一緒に増築するにもしやすいようにと思って。今日も午前中行って来て。年取ってっから、あまり力もないし大変なんですよね。除草剤も根がちょっと深くなってくっと、あまり効かないし。それに、あまり除草剤使いたくないと思って、全部手で掘り起こしてるんです。そのクズの葉っぱ、冬は枯れて飛ぶんですよね。そうすっと、近くのうちさ迷惑かけますんでね。できるだけ年度内に、少々寒くても行って、全部クズの根っこを切ってしまって。ただ、自分の体のことも考えなくてはないから、午前中行けば午後休むということにして。とにかく毎日2、3時間ぐらいですね。

でも、それが楽しみでね。前に植えていたものの株だの芽が出てるのがわかるんです。例えばサフランとか、それと所々にアスパラガスなんかもありますね。アスパラは葉っぱ見ればすぐわかっから。そんなのはなるべくそこさ残してね。アスパラは半永久的に出てきますんでね。いろんな雑草だのなんかも、ほとんど名前わかりますんで。こういう草が生えてるなっていうの確認しながら、紙に書き留めているんです。ムラサキシキブとかね。これ、葉っぱの根元に紫色の丸っこい実が成るんです。そういうのを見つけると楽しくてね、いやいや。今のとこ、そいつを楽しみにして。

old_tags_text
a:4:{i:0;s:18:"卸売・小売業";i:1;s:5:"70代";i:2;s:9:"園芸店";i:3;s:36:"宮城県南三陸町志津川地区";}
old_attributes_text
a:0:{}
Flagged for Internet Archive
Off
URI
http://kikigaki101.tokyofoundation.org/?p=2270
Attribution URI
http://kikigaki101.tokyofoundation.org/?p=2270
Thumbnail URL
http://kikigaki101.tokyofoundation.org/wp-content/uploads/058-profile.jpg