農業、漁業、土木で培った経験で復興を支える

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行政で説明されるよりも、実際にやるときはこれだけの差があるな、ということが分かるんです。当事者ですから。
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Tokyo Foudation
Geolocation
38.6758411, 141.4501125
Location(text)
宮城県南三陸町志津川地区
Latitude
38.6758411
Longitude
141.4501125
Location
38.6758411,141.4501125
Media Creator Username
Interviewee: 渡辺重一さん, Interviewer: 橋本拓真
Language
Japanese
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Japanese Title
農業、漁業、土木で培った経験で復興を支える
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自己紹介、家族構成

渡辺重一(わたなべしげかず)といいます。昭和22年9月16日生まれ。満64歳です。6歳のときに親父が亡くなったもんですから、農業高校卒業と同時に農家の担い手でした。息子は2人です。農協とシルバー人材センターの職員です。震災以前は妻と2人で暮らしていました。長男は別にアパートを借りていました。妻と私は同じ志津川町内の生まれです。お家は全壊状態で跡形もないです。土台も、石が置いてある状態だったので、津波ですっと浮かされて、あとはメリメリ、バリバリと壊れ、どーんと流されました。いまは妻と次男と一緒に仮設住宅に住んでます。2DKの仮設住宅です。

大震災当日

私は兼業農家なもんで、震災時はちょうど自宅近くの山の畑にいました。そこで近所のおじさんと立ち話をしていて、午後2時過ぎごろくらいというのを覚えています。宮城県沖地震が来るというのを常に報道で聞いておりましたので、やっぱり来たかと思ったんです。その地震が大きくて、すぐにまた大きな揺れが来ました。部落全体が変な軋む音を立てながら土埃を上げているといった状態でした。これは一大事ということで、2回目の大きな揺れの中を、2人で駆け足で自宅に戻りました。いつもの訓練通りの避難リュックを背負って逃げろ、と妻に言いました。避難場所は近くの小学校を指定していますので、とにかくそこに逃げろということで、自分がいつも乗っている軽乗用車に乗せて逃がしました。その時も今もそうですけれども、私は行政区長をやっていますので、自分の集落の通りの人たちに声をかけて避難させて、避難させながらも私は一番先にその避難所に行って、避難所を開けなければいけませんから、自転車をこいで行って、避難所を開け再度避難してくる人を確認しました。

そんな中で、車いすの身障者のおばあさんが私の自宅近くにいるんですよ。その方は避難しようとしてもなかなか動けない。防災無線が6mから10m以上の大津波が来ると知らせていたちょうどその時に、そのおばあさん、その旦那さん、嫁さんさ行った長女の方、そして一番末の娘さんの4人がいたんですよ。そして私の5人で「ここにいると危ないから避難しよう」ということで、目の前の道路にその娘さんの軽乗用車を引っ張り出して、そこに押し込めて避難場所の小学校に避難しようという段取りを取ってる最中に、道路の500m位先から津波がどーんと押し寄せてきた。津波を見た瞬間に、ここにいてはだめだ、車ではもう間に合わないと判断したので、すぐ20mくらい離れている山があるんですけれども、その山に沿って登って行けば助かるのではないかというとっさの判断で、車いすを無理無理3人で山のほうに引っ張って行って。で、そこで降ろして急斜面の山を登ろうとした。そういう段取りで身障者の方を車いすから降ろそうとしたときに津波が腰の高さまでもう押し寄せて、メリメリ、バキバキと家が壊される轟音を聞きながら、その5人があっという間に流されてしまった。そして、私以外の4名は生死不明の状態になった。

私も一緒に流されて、瓦礫の中を泳いで天井を見た。空が見えた瞬間に瓦礫が迫ってくるのが分かったから、それを避けながら泳ぎ、山際から出てる枝にすがったんですけど、でも細くてだめだった。グルンとまわっているうちに、また山から出ている小さな木の株があって、今度はそれにすがった。そうしているうちに津波によって体がぐーっと浮かされて、その山の斜面を這い上がることができた。そして、山の中腹まで上がって行って集落を見たらば、もう瓦礫の海。5月24日にチリ地震津波訓練していた、その想定の高さ以上の波が、どんどんどんどん山の方へ内陸の方に押し寄せて行ってるのを見ながら、恐ろしくも何もなくテレビの画面を見ているような気持ちだった。私は山の中腹以上に登って行って、最初に避難させていた皆が小学校からあそこに避難するだろうなという神社を目掛けて、約1時間山の中を歩きました。そして合流したという状況です。

家族はみんな仕事中だったが無事だったんです

かあちゃんは私と一緒だったから、私がリュックサック背負わせて避難させたので、ずぶ濡れキズだらけの私に会いびっくりしたけれども、為す術がない。それでも、私は元気な人たちに、隣の行政区に炊き出しをお願いして来いと指示した。その炊き出しがあったのが夜中の11時くらい。避難者が50人以上もいますからおにぎり1人1個というわけにもいかない。私も半分くらいだった。おいしかった。で、その前にかあちゃんには、「ここにいたってなんも助けになんないから、本部があるベイサイドアリーナ(町の総合体育館)に山越えして行って、とにかくおれの肌着とか衣類貰ってこい」と、暗くなった5時半ごろ出発させた。もちろん息子たちは勤めてますから、所在が分かんない状態。

息子は大丈夫だろうと思いながら、私は自分の行政区長という仕事もしなければならないと思い、翌日の午前中からご遺体の搬出とか不明者捜索に当たっていたんだけれども、今度は寒気が来て、とても駄目だと。ベイサイドに行った妻も全然返事がないんですよ。今考えると当たり前だけれども。行かせた人がさっぱり来ねえから、私が行って指示出すからということで、私と脚力のある元気な方5名を連れてベイサイド目指して山越えしたんです。で、約2時間半くらいかかってベイサイドアリーナに着いた。先に避難していた若い人に遺体の捜索に当たってほしいという指示を出した。その指示を出して、救護班に行ったら、全部脱がせられてパンツまで取り替えさせられて、低体温なので入院しなさいと言われた。で、入院しましたが入院設備なんてあったもんじゃない。いすを並べて「そのいすさ横になってなさい」と。そこで、一息ついたら「息子たちどうなったべ」と心配になったのさ。で、どこさも行けない状態で、右往左往しているかあちゃんがいたわけさ。私が入院しなさいって言われた時点から私と一緒にいるようになった。

次の日の夕方になったら息子が来た。まぁ生きていたっていう情報はあったんだけども、ようやくその場で確認できたんです。孫も避難させたし、息子の妻も、妻の母親も大丈夫ということで安心した。その次に心配したのは2番目の息子のほうで、どうやっているか見当がつかない。連絡ももちろんつかない。そうやって夜を過ごしていたら夜中の10時ころにひょっこり訪ねてきた。息子は農協マンで、隣の町が勤務地だった。そこも全滅したので、そこから45号線を横切って内陸の山を回ってここに着いたという。で、4人して抱き合って喜びました。最高に安心しましたね。なんにもいらない、これだけでいい、そう思った瞬間でしたね。うん。

時代の流れで会社勤めへ

おじいさんが亡くなって、高校を卒業と同時に家業を継ぐことになったわけだが。3年ぐらいすると、農業と漁業の少ない収入ではどうあがいても生計は苦しいわけなんですよ。耕地面積が普通農家の3倍くらいありましたので、それを1人でやるというのも大変だったわけです。最盛期には、田植えのときと稲刈りのときは常時2人か3人、多いときは5人くらいアルバイトとして雇ったわけですよ。それが高校卒業と同時に農業のほうも近代化ということになってしまって、いろいろな機械が入って、ゆいこ作業というのが段々段々なくなっていって、手伝いに来た人たちも手伝いだけでは飯の食いぶちができない。ということでそういう方たちが率先して会社勤めに走っていったから、なおさら人手がなくなる。そういう状況のなかでどうしよっかなって考えたけれども、まぁ転職はできないけれども、第一種兼業農家のほうがいいんじゃないかなという気持ちも働いて、そっちのほうで働く段取りをしたんです。

土建会社の門を叩く

その間に、高度成長期ですので、一番最初に道路がバイパス的に通って行ったんです。バイパスに面したとこに自分の水田があったんで、ここが適切だということで、水田を埋め立てて町の誘致工場に応じたんです。それが成功しまして、その地代収入と農業の収入、そしてあと漁業の収入とを3本柱にしながら、ちょこっとやったんです。如何せんやっぱりね、細い収入ではとても無理だったということで、親戚のおじさんが勤めている土建会社の戸を叩いてそこに入った。3つを同時にやるのはちょっと無理な話なので、では海を少し休もうということで海を休む。最初は兼業農家の農業を主にして勤め始めたということです。段々に会社のウエイトが大きくなったので、会社を柱にして農業はいつでもできるやと縮小した。そうしてやっているうちに減反政策になって、農業は自家用米生産でいいやということになったわけです。

高度成長期に乗って

土木建築のほうは約25歳から、結婚前からずーっと勤めだして、55歳まで30年間勤めました。タイミング的に土木建築のほうも高度成長期に乗って発展したんです。最初はただのアルバイト。次はいろいろ勉強もしまして、石油スタンドの取扱者の免許を持っていましたので、スタンドの運営を任せてもらってやっておりました。やるうちに今度は、生コンクリートの製造ラインを作るというので、「そこをおまえがやってみろ」と言われて。製造工程は全然わかんない、無から始めての勉強でした。こうやってああやってと練り上げる方法を覚えて、その工場を作って皆様に出荷したところ。志津川に、その当時生コン工場はなかったんです。隣の町、登米市まで買いに行ってたんです。その不便さの解消にもなって、これはいいもんだと。生コンクリートは瞬く間に、その高度成長期の復興が伸びるのと同じようにどんどん生産が伸びていって、工場を3回も建てなおしました。生コンクリートの工場のほうは、そうですね25年以上はいました。

勉強すればなんでもできる。これがおれの自負なんです

農業のことはいくらでも知ってっけども、土木建築というのは全然知らない。ましてや特殊技術の生コン製造とか、工場作るとかは教えられねっどできない。でも勉強すればできるという自負があった。半年くらい会社の配慮があって勉強して、自分で最初に生コン練ってみたときに、できたんですよ。これはすばらしいこった。できるんだな。経験がねぇからできないとか、やったことないから無理だという話はなしだなと。地域で誰もやったことのない生コンを自分が作って売るっていうのを会社の柱として作り上げたんです。これがほんとに自負になってます。

国のお墨付きをもらった生コンを作りたい、そういうものじゃなきゃ今後は需要に追い付かないし、もちろんこの地域社会のインフラ整備に対して品質の保証ができなくなるからということで、JISマークをもらえるための勉強を今度は私1人ではなく20人の従業員全員でやりました。そして、そういう生産設備を作り上げ、生産能力と思考能力と販売能力の検査を国の規格で全員で受けました。1回目は落ちちゃったんですけど、2回目で見事合格したんです。

亡くなるまで南三陸町で

退職して、55から今の間は、スタンドの免許を持ってますから、スタンドのほうで管理をやってほしいということで、2年間はやりました。その後は、同じように土木建築の会社さ声掛けたら、「じゃあうちのとこさ来ていいから」ということで、そこに籍を置いて、今は8年目か9年目くらいです。そこでは総務のほうにいて、雑用係を全部仕切ってやってきた感じです。生コンはもちろん得意分野だから、そこがそうでこうやって、ということで聞かれれば詳しく説明します。

これからも年齢の許す限りは会社に勤めたいなとは思っています。なぜかと言うと、復興に関する情報がいろいろ入ってくるからです。行政で説明されるよりも、実際にやるときはこれだけの差があるな、ということが分かるんです。当事者ですから。

土木会社として街の復興に関わっていくなかで、たぶん見たアイディアというのがきっとあると思う。土木でも建築でも、その場に行って、いやこのほうがいいんではないか、こうした使い方のほうがいいんではないか、とかいう仕事が私にかかってくると思う。それが本当にやりたい仕事なんです。人づくりを考えるような話し方、考え方を伝えていきたいなと思います。

最終的には10年以内にマイホームを建ててここに住みたいと思います。でもその前にやるべきことは生産基盤の確立であると思います。漁港の整備に頭を使い、次に瓦礫を片付けて農業の生産基盤の方向付け。すぐ再生産は無理だと思うから、それを3年以内にやってみたい。その双方のためにはその近くに人が住まないとダメ。資材置き場の倉庫とか小屋がなければできないと思いますので、それをどこに作るのか。流された場所か、かさ上げされた場所に作るのか。そういうのが近々の課題。それから初めてマイホームもしくは公営住宅であるとかという話になる。なるべくだったらみんなで一緒に亡くなるまで暮らしたいですね。自然災害に対しては完全に安心安全な場所というのはないと思う。

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