佐々木(ささき)さとみです。生まれは昭和15年8月3日、71歳。家族は7人です。私と息子夫婦と孫たち4人。職業は居酒屋です。街の真ん中の五日町で、居酒屋を40年くらいやって。もう流されてないんです。海抜0mっていってね、高潮の時に一番最初に水が上がるうちだったんです。そんなとこだったんだけども、お店をするにはね、条件がいいところだったから。すぐ川だし、海だし、街の真ん中だし。いいものは出してないんですよ。四季折々の、志津川ってと、海、山、なんでもあるから。そのものを食べさせるような料理専門でやってたんだけども。
戻ってはだめって聞かせられてたんだけど
当日は、社会福祉協議会主催の芸能大会が高野会館であってね。うちの息子が協議会に勤めてたもんだから。今まで10年以上やってて、初めて息子が私を誘ったの。それに行って、終わったのが14時ちょっと過ぎ。そして帰って家に着いたら、地震なんですよ。家の前の電柱がボッキン、と折れたんですよ。ママ(息子の嫁)と子どもたちが帰ってきたんだけど、いいから逃げろ逃げろって言って、なんにも持たないで逃げたわけ。私も後から車で途中まで行ったんだけど、孫たちいるからお金!って思って。そして車を途中に置いて、家に戻ってきて。それから、保育所に上がったんです。そしたらもう…少し濡れたんです。危機一髪ってとこかな。うちに戻ってはだめだって、いっつも聞かせられてたんだけども。
まづ…悲惨でしたね。おかげさまで命だけは預かったもんだから、今この志津川町を、昔のいい時代もあったんだぞって、残そうと思って。でないと今からの若い人たちは分かんないでしょ。子どもたちっつのは忘れていくもんだから。
息子の帰還
息子も2日帰ってこねえのよ。んでも、頭おかしくなるかと思ったよね。なんか寝れないし、寝ると、流れる情景見てしまったし。息子だってそうださ、子ども4人もばあさんと嫁さんさ預けて。ってったって、道路がないし、会館は高台でしょ。あそこの上にいたんだもの、下りてこれないんだもの。そこにあんだ、年寄りたちだけだし、離れられないし。若い人だちって4人ぐらいかな、あん時いだの、それあんだ、380人も見てたんだ。具合悪くなる人も出たべし。そして2日後の午後に息子は泥だらけになって帰ってきたのね。自分は一番最後にあれしたから。それこそみんなで歓迎して。
最高の立地だったのよ
うちらは川のそばだから流れてくださいってなもんだもの。うちから、道路あってすぐ川さ。これっくらいしかない。でも夏は良かったのよぉ、風情があって。お客さんは堤防さ腰掛けてビール飲みながら、子どもたちは花火をしたりさぁ。夏ね、涼しいでしょ、中より外の方が涼しんだから。でっかい川が流れてんだもの。外さビール持ってって「サイコー!」とかって飲んでんの(笑)。あれを思うとさぁ。
夏は息子と嫁さんで、若い人たち相手にビアガーデンをやっててね、22時過ぎるとおまわりさんに怒られてね。2回目まではみんな知らないふりしてんのね、私も「ハイハイ」って。3回目になっとパトカーが「ママ、ダーメダーメ!」って。でも、泊まりでねえおまわりさん達がさ、奥で飲んでんだもの(笑)。やっぱ外ってのがいんだよねぇ。開放感もあって。夜さぁ、空は見えっぺしさ。おもしろいお店屋さんだったのさ、型にはまらない。しかもうちは「いらっしゃいませ」でねんだ、「どこさ行ってきたの?」「今日なんの会?」って。
いいとこなんだよ、津波が来るまでは、志津川町は。海あり山あり、あとはお客さんがボンと置いてくし。鍵なんかかけたことないんだから、うち。隣に「どこさ行ってくるからねー」って。そういう志津川町だったからさ、考えられないでしょ。
市場さ行ってきたお客さんは、「玄関さ魚おいでたど。くさっど」って。鍵かけないうちだから魚が流し台に入ってたり(笑)。志津川町ってそうやって店だって支えられて。普通の家だってそうだと思うよ。いーいとこだったのよ。
オヤジと2人で始めたお店
もともとはオヤジ(夫)と2人で始めたんです。でもオヤジが3年前にポックリ亡くなったんです。クモ膜下で。それで、どうしようかーと思ってね。でもお客さんがやれやれって、「やってっとな、寂しさも忘れっから」って言われてね。それからは料理は私が作ってて、夜息子が帰って来れば手伝うもんだから。あとうちいいところはね、生ビールなんかお客さんが自分で注ぐの。一気にどっと来るもんだから、もう夏なんかね、喉渇いて早く飲みたいっていうかね。だから自分で注いで、自己申告するような店だったから。そして余ったものはおにぎりとかにしてカウンターの上にやっといて、お腹すいた人はまずもって食べて。そうやってた店だから、「今日何もないの、おばちゃん」て言われれば「毎日毎日タダであるわけないべや」てね(笑)。
休めない定休日
これがね、定休日がね、うちにいるとだめなのよ。店と自宅つながってるから。うちにいると「いだのか」って脇から入ってくるんですよ。で、「店開けろ」って。ま、いんだけどね。してほら、鍵かけておかねから、休みだからって日帰り温泉に出かけてると、途中で電話入ってくんのね。「いまビール注いでたけど、冷蔵庫のなかの食ってっど」って。そういうお店! みんなの溜まり場、うちうち(笑)。しかもガス出さねえでビール注いで、「なんか今日のビールさ、泡出ねえの」って(笑)。そういうお客さんなんだ。1年365日あるうち300日以上うちさ来てるお客さんいるから。毎日、とにかく休みでも来んだもの。そして、ずるずるべったりいるわけさ、お客さん。2時頃までね。あと、めんどくさいと泊まってけって言ったり、すると朝になるとちゃんともぬけの殻で(笑)。
山も海も、おいしいよ
春になっと山菜でしょ、タラの芽、ワラビ、蕗、ミズ、葉ワサビ。山入っとなんでも採れっから。お客さんも持ってきて料理してけろって言うし。あとほら海もあるから、春先んなると、メカブ。私はメカブはたたいて(刻んで)出すだけじゃないんです。メカブ焼いて青くなるよね、それを醤油と七味で食べたり、天ぷらにしたり。それがまたね、おいしんです。海藻はマツモあるし、ヒジキあるし、とにかくなんでもあるの。ワカメもあるし、でもワカメもワカメばかり出したんではあれだから、いろんなアレンジして出してたから。素材があればね、まづね、何でも挑戦してみたのさ。おいしければさ、いんだから。
あと、夏場はほら、ウニが出てくるでしょ、ホヤとか。けっこうおいしいものが。ホヤなんかもゆでたり、味噌につけたり、あとはホヤの塩辛作って食べさせてやったり。もちろん生ホヤはおいしいよ、志津川町は生ホヤでやってっから。
うちはお客さんにボウルで出すんです。取り皿と、ドン!て。お客さんもそれがいいわけ。はらこも、本家がサケ屋だから、ご飯をドン!はらこをドン!て出すの。そいつはほら、タダだから。お客さんもそんなのが良くて来るわけさ。そういう店って都会なんかないと思うわけ。田舎もないけどね。ドンって出して、ハイ入れもの!ハイすくいもの!って。トッピングとかそういうのは無いのね、一切ね(笑)。
出たとこ勝負の料理っさ。習ってきたわけでもないし。田舎料理そのまま出して。そ、おいしいよ。
お盆料理、秘伝の餃子、シメのラーメン
毎年8月14日にね、東京からオートバイククラブの人たちが、ぐるっと走って来るんだけど、うちで志津川町のお盆の料理を食っていくんですよ。14日っていうのは志津川では必ずお墓参りするもんだから。油麩ってあるでしょ、あれとなすびとミョウガを入れたスープで、うどんだけなんですよ。これがまた絶品なんです。バイクで走ってきて、それを食べてうちで交流して帰っていくんです。
あとはうちは餃子、辛い餃子ね。大人の餃子よ。仙台でお店やってた友達が餃子教えるからって、オヤジと2人で通って教えられた味なのさ。だからその味が恋しくて、仙台からも人が食べさ来たんですよ。その餃子が、風邪流行るとね、看護婦さんたちから持ち帰り用の注文が入って。生そのまま持ち帰って水餃子にして食べる人たちもいたし。結局、風邪防止。寒くなってくるとそういう商売もね。まあ、金曜日だね。ほらニンニク入ってるから。銀行の人たちは「俺、明日下向いて仕事してっから」って、それでも食べたがる。それは今息子が秘伝を継いで。その餃子はずっとありますから。
あとラーメンも。支那そばってのかな。私肉嫌いなもんだから、あんまり肉っつの使わないんですよ。昔ながらの昆布と野菜だけでとったスープで。結構あっさり味で。それが、呑んだ人たちに最高ね。今ほら、コレ(メタボリック症候群)で脂はドクターストップだからって、「呑んだらさとみのラーメンだ」って、ほかで呑んできても。だから、「ここはラーメン屋じゃないぞ」って(笑)。
チリ津波をきっかけに居酒屋に
チリ津波んときも2階まで来たんだけど、あの時は水はスッと引いてったから、家は残って、あとは洗って、乾かして、少しきれいにしてから再開したんだけど。
もともとは、豆腐屋と八百屋だったんです。でも大きな店が昭和51年にできて、これではだめだと、ほらやっぱ、流れってのは大きいところに集中されるから。うちの息子で今5代目なんだけど、ずっと昔はうどん屋さんだったんですって。それを聞いたもんだから、オヤジは学校が東京で、その時にちょこっと料理の修行をしてきたんで、ラーメンも出す居酒屋みたいなのを始めようと。そうやって、チリ津波をきっかけに八百屋さんから変わってやったんです。お客さん来るか来ないか分からないんだよ、その時はね。でもほら、ちびりちびりとね、来てくれて。
オヤジが東京から帰ってきて2年目ね、私が隣町の歌津から嫁いだのは。だから右も左も分かんないし、他人様だからよけいなこと言われないし。でも、オヤジは一生懸命な人だったから。
「さとみ」だってさ!
うちの実家は呉服屋なんですよ。それで兄貴が東京に仕入れさ行ってた時に、ついでに提灯屋行って「いま提灯と暖簾に店の名前入れてけれるってけど、なんて名前や?」って電話よこした。名前なんかまだ決まって無かったんだけど、うちのオヤジが「めんどくせ、『さとみ』にしろ」って、そして兄貴も「んだな、めんどくせえな。どうせおめえがやんだからな」っていうことになって。それでお店の名前が「さとみ」に。みんな、志津川町もびっくし(笑)。「『さとみ』だってさ!」て、その前が「やおてい」だったからさ(笑)。
それを息子がそのまま継ぐから、ああすごいなって。結局ね、名前変えると、お客さんが別な人がやってっと思っちゃうからさ。だから「名前だけもらいたい」ってすぐ店始まったわけさ、6月末かな。子どもたちは多賀城の、ママのお兄ちゃんとこさ引っ越してたんだけど、学校あるから。自分だけ戻ってきて、ママの実家の茶の間借りて始めっからって。えええ!って。すごいね。私の息子にしては、すごいんですよ。やっぱりね、名前だけは残したいから、今どんなとこでもいいから集まるところ作りたいって言って。あと友達の後押しもあったけどね。いい友達だからね。
息子はこの4月に仕事を辞めたのね、私足悪くて仕事できなくなったもんだから。今はまだ茶の間でやってんだけども、脇にプレハブ建てて、そこで再開するような形で一生懸命やってるから。結構ボランティアの方たちが立ち寄るって言ってるから、あと若い人たちの集まり場みたいになって、そのまま続行してもってくれればいんだけどね。
田舎は田舎なりに付き合いながらやってんのさ
ほんっとにうちのオヤジってのはすごい人だねえ。お店やってるとさ、付き合いも大変さ。いろんな野球大会だのってのあると応援行かなきゃなんねえし。休みも寝てらんねんだもの。あとほら、志津川には綱引きのチームがあって、大会があるんだけど、志津川町のメインイベントだね。22年間、うちのオヤジがその後援会長ってやってね。志津川町は強くて男女でアベックで行ったこともあるんだよ。それにもぐるっと付いていって。若い人たち選手さ、お金出させないように銭っこ集め。何十万づつ出すんだよぉ、企業の人が。ありがたいっちゃぁ。結局それも、若い人たちがね、店使ってくれるから、一生懸命それで返してやったり。
それと、子どもいねけっど小学校の運動会は全部回るから、まづ。ぐるっとご祝儀持って回るの。先生たちお店来てくれるから、ね。帳消し? そういうのはどこからも出ねえからさ。飲み屋とかそういうのは大変なのさ。田舎は田舎なりにね、付き合いながらやってんのさ。
オヤジ死んだ時お寺さんで、「記憶にある葬儀の参列者数、しばらくこの人数見なかった」って。すんごい人だったんだから。びっくりしてしまって。結局なんさもかんさもやってきてたから、ね。金もねえくせにさ、体が続く限りそういうのはやってくれた人だったからさ。それで息子はそれをなくしてらんねと思って「さとみ」ってのを継ごうと思ったんでね? オヤジが一番一生懸命やってたのを、なくしてはならないと。
みんなで火囲んで、おめでとうって
年越しは店休むのね。店休んで、神社で友達と5人でお蕎麦を300食、31日の23時からタダで食わせるんだから。ちゃんとしたお蕎麦だよ。あのクソ寒いのに、雪ん中やるんだよー! 山さ、全部、釜から鍋からみんな持ってって。蕎麦300食運んで、こんなおっきな鍋にタレ作って、ミカン箱1つにネギ刻んで、天かすもミカン箱に1つ作って。そのうち、天玉用にって、卵提供する人出てきたりさ、お酒提供する人出てきたりさ(笑)。お祭りみたいに酒も飲み放題だから。それを5人でやって300食1時間ちょっとでなくなんだよ。毎年だよ、15年だよ。そうやって八幡神社を盛り上げたわけさ。
結局ね、人が集まるところには集まんなきゃなんねからってやって。好きなのさ、そういう大がかりなことが。そしてみんな喜ばせてさ。ま、ボランティア精神だな。喜ばれるのがうれしくって。そうやってタダで食わせて、みんなタダで食って飲んで、わはは、ほほほって、みんなで寄って、火焚いて、みんな丸くなって話しかたする。それでほら、元旦のおめでとうってやるわけさ。それが良くてさ。
「おはようございます」の寂しさ
そうやって楽しくやってたのにも関わらず、一瞬にしてねえ。八幡さんはなくなってしまったし。もう年越しの蕎麦もやんね。エラい(しんどい)。
でもねえ、死んだ人たちを思うとさぁ、自分が生かされてると、志津川町をなんとかしなきゃね、って思うのっさ。でもほんとにどうしたらいんだかねぇ…。結局友達もみんなバラバラになってしまったし、環境も違ってくるしね。鍵かけなくってよかった家が、いま仮設で鍵かけないといけないし、何か外に出しとくと「しまってくださーい」って。なくなったのなんだのって言われてしまうから、それもやだねえ。近所の人ともバラバラなのそれが。最初っから移動すんのも部落単位でやればよかったのを。「おはよ」って言ってたのが、「おはようございます」になっと…。相手にひょっと引っ込まれると声がかけづらいでしょ。
とにかく早く町並みが
この6ヶ月つのは大変ですね。とにかく早く町並みみたいのを作ってもらえれば。土地だね。まずもってね。まだそういう方向性も何もない。噂はいっぱい飛ぶんだけど、私は文章できたものしか絶対信じない。文章できて、初めて「ああ、決まったんだ」って思う性格なのね。職業柄かもしれない。いろんな人が来るでしょ、みんなの話みんな違うでしょ、それを全部受け入れたら大変でしょ。それを「うんうん、そうなればいいねー」って、聞き流しって悪いんだけどね。だからお店には合ってんでない(笑)?
まあ、大変です。これから、先が見えないから、ね…。屋敷そのまんまけろって訳にはいかないから、ある程度町並みでも作ってもらって、店だけでも作ってもらえればねえ。家は山ん中さ建ててもいいし。ま、がんばって、志津川町ね、なんとか残しましょうよ、ね。