田んぼの中に生まれて
私は後藤とく子(ごとうとくこ)。昭和26年6月17日に、南三陸から1キロほど、松島の隣町の黒川郡大郷町の、田んぼの中で生まれました。4人兄弟の長女です。真ん中に弟が2人、一番下が妹、全員2歳違いなんです。私と妹は年が6つ離れているので、小さい時は妹をおんぶして遊びに行ったりして、必ず妹が背中にいたのを覚えています。
私が小さい時は家の手伝いをするというより子守が仕事だったから、友だちと遊ぶ時も妹を連れていきましたね。家が農家だったので、両親は常に田んぼに出て、おばあちゃんが炊事の方をやっていて、おばあちゃんの手伝いは小さい時からやらされましたね。だから、おばあちゃんに色んな事を教わったので、大きくなってからそれがすごく役に立ちました。縫い物も炊事洗濯などの家事のことも小さい時からやらされていたので、私が結婚してからもあまり苦ではなく自然とできました。私は健康優良児で体格がよかったので、小学校2、3年の時にはあてにされていたというか、家のことはやらされていましたね。田んぼに行って田植えとかも全部やらされたので、6年生くらいになったらもう大人と同じ仕事ができたので、今になって思うと良かったなぁって思います。その時は、友だちがみんな遊んでいるから、何でうちだけ田植えや稲刈りなのって思ってすごく辛かった。遊びたいなぁと思いながら手伝っていました。自分の子どもには家事を全然教えていないから、「あぁだめだなぁ」って思います。
ばあちゃんと私
祖母が縫い物が得意で、60歳くらいの時、家で食事の世話をしながら自分の時間で常に縫い物をしたり編み物をやっている人だったんですよ。その影響でね、私はそれを見ているのが好きだったんです。小さいからできないというか、小学校1、2年生ではあまりやらせてもらえなかったというのが本当なんですけど、それをずーっと見ているのが一番楽しくて好きだったんです。高校ぐらいの時にはもう自分でスカート縫ったりブラウス縫ったりして着てましたし。レース編みが好きで、学校がバス通学だったので待ち時間にずーっと編み物してたりとか。それで、うちはあまり裕福ではなかったので、材料を買ってもらえなくて。友だちが新しいキットを持ってきてやっていると、じーっと見て「あぁこういう風にするんだぁ」みたいな…。ただ見ているだけで楽しかったんです。
手芸って趣味の世界なんですけど、それはずっと今も続いています。だからこの震災があって、何もすることがなくなった時に、手芸を一番先にやりたいって思いましたね。家を流されたのは仕方ないのだけれど、ミシンとか手芸のそういう物を流されたのがすごい悔しかった。作ったものもありましたし、手芸の色んな物、レースや糸や布でも結構集まっていたので、それを流したのがすごく悔しいですね。だから、妹に「何欲しい?」って言われた時に、一番先にミシンって言ってしまいました。こっちは冗談のつもりで言ったのね。でも「じゃあ私使わないからあげっからー」って言われて、なんかその時すごく嬉しかったですね。手芸があったら生きていける。人が持っている物につい目が行ってしまうの。何かの時に、「あ、これ頂き」って思うんです。ずっと仕事をしていたので、「時間を作ってやる」っていうのが1つの楽しみ方で、暇がいっぱいあるとなかなかやらないんだけど、家事をやりながら時間を作ってやって…おばあちゃんと同じことですね。自然とそうなっているんですかね。
趣味と実益を兼ねて
中高は手芸部がなかったので、そういうことは休み時間にずっとやってましたよ。常に針とかを持って歩いていましたね。自分で「こういうの欲しい」と思って作ったり、友だちへのプレゼントにしていました。で、作って出来上がると見せたくなるの。そして見せびらかして「わぁ、良い、欲しい!」とか言われるとあげてしまう。「また作れる」みたいな…。何枚でも何枚でも作りたいから、自分で持っていても仕方ないから「あげちゃったらまた作ればいいや」っていうのと、自分のやったことを褒められて、認めてもらったみたいで、そういうのであげてしまうんです、今もそうだけどね。友だちで手芸をやっている人が1人2人いて、常に目新しいものを持って来てるの。だから常にくっついていたような気がする。
高校生になってお小遣いをもらえるようになってから、材料を自分で買えるようになって、その頃から本格的というかずっとやっていたわね。やりたいものはみんなやっていたわ。新しいのができるとやりたくなるので、お小遣いの半分以上はそれに使っていたかもしれない。誰かにプレゼントするっていう目的があると力が入るじゃないですか。「あの人にこんな感じで」ってイメージして。そういう目的があると「10分でも欲しい!」ってやってました。
でもそうやってやったことが趣味と実益を兼ねて、生活の糧になるくらい。昔は趣味だったんだけど、今はそれで稼げるのよね。震災の前は、ボックスショップに出してお小遣い稼ぎをしていたし、震災の後に、入谷に災害復興支援の事業で内職センターっていう働く場所を作ってもらったんですよ。手作業なんですけど、そこですぐ働けたんです。
就職して、職場結婚
18歳の時、仙台コカコーラに就職して、営業所の経理の事務をやっていました。高校卒業の間際に簿記の1級を取ったんです。実は3級を取れば単位はもらえたんですけど、それもハマっちゃって、すごくおもしろかったのね。それで1級まで受けたら受かってしまったの。数字が好きなのかも、小さい時から。
高校を出たらすぐに仕事がしたかったので、資格を持っていれば有利だし、勉強がおもしろかったというのもあって。お給料もよかったので、コカコーラに入れたのはすごくラッキーだった。就職した時は経済が伸びている時期だったから、入ってすぐボーナスをもらったり、今とは全然違いますね。
そこで5歳上の主人と知り合って、ハタチの時に職場結婚したの。年は離れているのだけど、主人は別の仕事をしていたから実は私と同期なの。やっぱり年上だし、私は長女だからお兄ちゃんに憧れがあって。全てが大人なんですよね。そういうところが良かったし、すごく明るい人だったからね、それに惹かれたのかもしれない。結構物知りで、何でも率先してする人…行動力があったかなぁ。
結婚は、父親に大反対されてね。実家が農家だから、農家に嫁がせようと思っていたみたいで、サラリーマンでまだ年も若いし。それを、主人が手紙を書いたり家に訪ねて来て親を説得したの。父は頑固だったけど、慣れない農家の手伝いをしてくれるうちに、仕事をしながら人柄に接する時間が増えて、自然と許してもらえたんです。許してもらえるまで半年くらいかな…今考えると怖いわね、何もわからなかったから。何も知らないって、強い半面怖い気がする。父は厳しかったけれど、母は柔軟性があるというか、相談すると何でもやんわりと包んでくれる優しさがあって、バランスが良かったわね。
志津川へ
結婚して16年多賀城にいたの。長男が生まれたのが結婚して8年目。主人のおじさん夫婦がいたのだけれど、おばさんが亡くなったので、長男が1年生の時に、おじさんの面倒を見るということで子ども2人を連れて、私は志津川に。転勤もあったので主人はずっと単身赴任でした。
あまり隣近所もよく知らなかったので、とにかく友だちを作ろうと思って、長男の小学校のPTAに手を挙げたのね。そのおかげで先生とも仲良くなれて、それ以来毎年、三男が中学を卒業するまで役員をやっていました。何か行動を起こさなきゃだめね。自分から求めていけば何か拓けるというか。震災後すぐに仕事が見つかったのも、常に「働きたい」と発信していたからだと思うの。趣味を通しての友だちがいたというのも大きいし。
仕事を4つやっていたんです。1つは生協のメンバー同士の交流会の企画や運営を20年ほど。志津川から気仙沼までのエリアを担当していたので、友だちが沢山増えたわね。他には、役場で消費生活相談員として振り込み詐欺や悪徳商法の相談を受けたり、土日に釣り堀で15年ほど仕事をしていたの。あとは、洋品店から洋服の袖や裾を詰めたりする内職をしていたわ。みんな長いけど、どれも辞めたくなくてね。
震災のあと色々助けてもらったのも、絆だなぁと思った。兄弟の絆、今まで大事に育ててきた友だち同士の絆が今回本当にありがたかった。津波でメモも全て流されて、連絡先がわからなくなっていたから。頭が真っ白になるというか、脳みそに血が集まっているような感覚。一生懸命考えようとしても、何も考えられないの。そういう経験は2回目…。1回目は主人が事故で突然亡くなった時。主人は15年前に亡くなって…事故で。亡くなった時は52歳。
津波の後、頭が真っ白になってしまった時は、しょっちゅう電話をかけている実家の電話番号がわからなくなった。でも、息子に助けられました。息子は3人いて、良いところ悪いところをそれぞれが持っている気がするの。次男が一番似てますね、頑固なとことか何でもやりたがるとことか、他の人に気配りするところが。だから次男なんだけど、兄弟を仕切っている。小さい時は扱いにくかったけれど、大きくなってから一番頼れる存在なの。
ばあちゃんの教え
私は祖母が好きだったから、いつも大好きなばあちゃんにべったりくっついていたの。ばあちゃんが、友だちとお茶を飲む時にもくっついていたわね。ばあちゃんはわが道を行く人だったから、「人の家は人の家、うちはうち」とよく言われたのを覚えているわ。それは今も残っていて、我が家もそうなっているかもしれないわね。息子が小さい時、運動着の膝に穴をあけるとアップリケをしたのだけれど、子どもはそれが嫌だったみたい。でも「うちはうち」と知らないふりをしてたわ。でも大きくなって、息子たちは人と比べたりせず、自分が思うことをしていて、おばあちゃんの教えが生きている気がしますね。何か欲しいものをねだられても私は厳しかったみたいで、今になって「お母さんが一番強かった」なんて言われるんです。長男が1年生の時に志津川に引っ越した時も、そこでいじめがあったみたい。それを6年生の時に聞いたのね。「いじめる方がバカなんだ」みたいに考えられる子だったんだねぇ…。それもおばあちゃんの教えなんじゃないですかね。聞いた時は驚いたけど、自分なりに対処してたのね。
家族と兄弟の絆
2月から嫁が働きに出たので、孫を預かっていたんですよ。1ヶ月ちょっと預かってからあの震災で、孫はあの時まだ5ヶ月だった。自宅は海の近くだったので、津波の被害に遭って、全部ないです、きれいさっぱりと…。だから孫を流さなくて良かったなぁって。家族が無事だったことが、後になって尚更良かったと思った。物はなんとでもなるけどね、人の命はどうしようもないですからね。我に返った時、「あぁ命があっただけでも良かったなぁ」って思える。
昔は兄弟と喧嘩しましたけど、今、大きくなってからは兄弟4人もいて良かったなぁっていつも思いますね。特に今回の震災があって感じましたね。今は弟が1人だけ青森にいるんですけどあとはみんな県内にいるので、すごく頼っちゃいました…。3日くらい連絡は取れなかったんですけど、やっぱり実家の弟が一番先に駆けつけてくれたし、一番下の妹も1週間くらいしてかなぁ…来てくれたし、青森の弟は1ヶ月くらいしてからなんですけど、落ち着いた頃に来てくれて、「欲しいものないか?」みたいな。まず、何もなかったので、「今一番必要なものは何?」って聞いてくれたので、その言葉だけでもすごく嬉しかったわね。そう言われて、その時欲しい物は何もなかったんです、何にも。だから、そう言ってもらえること、その言葉だけで十分だった。
しばらく次男のところに身を寄せていたけれど、長男と2人で仮設に移ったんです。孫の面倒を見るために、消費生活相談員は12月で辞めちゃって生協も3月で辞めることになっていたんだけど、震災の後、今の仕事の募集を見て次男に相談した時、「お母さんはこれからの設計を自分で考えていいよ」と言われて、ありがたかった。
まゆ細工―手芸仲間と共に―
今の仕事の募集があった時は、すぐに「やりたい!」って言いました。最初は手作りの漆塗りの高級な箸を、みんな太さとか色の具合いが違うので、同じやつを組み合わせて袋詰めする作業だったんです。その後事業が拡大していって、今はまゆ細工をやっています。志津川の入谷(いりや)は、まゆの発祥の地なんですよ。それでまゆを使って、今回の復興のために何らかの事業を興すというので、まゆ細工が始まったのでそっちに移って。すごく楽しいです。まゆって小さくて白いでしょ? それを色んな色に染めて花弁の形にハサミで切ってお花を作ったり。今は、まゆ細工をやっていた友だちが先生で、教わりながらみんなで相談して…。
まゆはちょっとやったことはあったけれど本格的にやったことはなかったので、もう毎日毎日楽しいですね。新しい手芸が見つかったみたいで、それに没頭しています。箸のほうは9人、まゆは4人で働いています。皆、手芸繋がりで顔見知り。そういう仲間が自然と集まるのね。こういう仕事があるってなった時に、この人だったらできるということで声をかけてもらえて、7月からすぐ働けたのでラッキーでしたね。ずっと趣味でやってきたのが良かったなってつくづく思います。外に出られなくて情報が入ってこないのが不安だったし、1日誰とも会わないのが苦痛になってきて、募集を見てすぐにやりたいと思った。別の仮設の情報も入るし。復興のために興した企業なので、いつまで続けられるかわからないけど、それまでにまゆ細工の事をマスターして、この仕事がなくなっても自分でやれるように今のうち頑張って教えてもらおうと思って。好きなことだから楽しいし、マスターしたら自分のものになるじゃないですか。