自己紹介―小さいころ―
首藤正紀(しゅとうせいき)です。72歳、昭和15年生まれ。生まれたときからずっと志津川に住んでいます。ここで高校だけは出してもらって、あとは農家やって。うちの学校は入谷(いりや)中っていうんだけど、1学年100人ぐらいの学校で高校行くのは5、6人行くか行かないかくらいだったけど。中学校も小学校も山越えして30分くらい歩いて通ってました。
小さいころは、夏は毎日川に行って遊んでた。ところどころ深みがあるんですよ。そこが夏場の遊び場ですね。1日中そこさ入ってました。岩から飛び降りたり。今はみんなプールに行って、川に入って遊んでる人はいないね。あと、魚捕りね。釣ったりもしたけどほとんど捕まえて。カジカとか。タモは私たちが子どものころはなかったから、ざる持ってって捕まえてました。猫さ、食べさせてました。捕まえて食べるって言ったらアユかウナギぐらいかな。冬場は雪降れば、自分で竹で作ったスキーとかね。竹の節を使って。そりだって自分で作ったんです。コマだって作りました。車作って、急な道路に行って、走って降りて。車輪も手作りで。遊びだって私たちの年代はほとんど手作りで、工夫して、遊びながら作って遊んで。今のお母さんは危ないからって刃物持たせないけど、子どものころから私たちはのこぎりだって斧だってやってました。今みたいに小遣いたくさんあるわけでないし。作るのも楽しみのひとつ。見よう見まねで。大きい子たちがやってるのを真似して。
農家のくらし
長男で、農家だから、生活の基盤の農地があるからここにずっと住もうと思いました。小さいころから長男は残らなきゃいけないって叩き込まれてますし、農業でなんとかやっていけるようになってますし。家は7人家族で、奥さんと息子と嫁さんと孫3人です。兄弟は今の時代では恥ずかしいくらいいます。8人います。私の上に2人いて、私は3番目。妹がいて、一番のしんがりが弟で2男6女です。
農家は朝早くから夜遅くまで働いて。冬は日が短いから、ゆっくりのんびりできる。夏場はそのかわり、夜が明けて3時半には起きて夕方8時くらいまでやってますよ。夏場は3回か4回シャワー浴びます。7時ごろに朝ごはん食べるときでしょ、10時ぐらいにお茶するときでしょ、お昼でしょ、あと夕方ね。1時から3時ころまでは日中は暑いから昼寝します。やる気があればいくらでもやることはあるから。ただそれに対する見返りが少ないだけで。
集落の生活
車持ってないと困りますね。三陸線(鉄道)は直接恩恵なかったね。車あるし。酪農組合で仙台へ月2、3回行かないといけなくて、仙台で駐車場探しが大変だから電車に乗って行ったこともあるけど、普通はみんな車持ってるから車のほうが多いですよ。年寄りが遠出するときは電車利用したけど。親戚なんか来るなんて言っても途中まで車で迎えに行ったりして。
区長は行政関係の仕事をしてます。地域のことはなんだってわかりますよ。街の人がどうかはわからないけど、昔からの農村地帯の集落はね。今年は集会所を幼稚園に貸しているのでやらなかったけど、毎年、芋煮会するんです。年寄りも子どももみんな集まって、芋煮して食べる。芋煮会って山形でやってるんですよ。秋の収穫物を汁にして。私の集落では老若男女全員だから、100人くらいの人が寄るんですよ。
みんな交流が広いからね、都会の人みたいにとなりに誰がいるかわかんないとかはないからさ。私の集落は58戸あるんだけど、小さいころからわかってるからね。人の出入りが少ないから、あそこに誰がいてってね。津波のときも、部落を各班に分けまして、こういうとこにこういう人がいてって名簿を作って全部出したら、高知県から支援に来た保健婦さんが驚いていた。
部落の方、近辺の方はほとんどわかりますね。みんな同じような農家だからいろいろありますね。長くみんな住んでるから、小さいころからあの人はどこどこのおじさんでってわかります。あのころはみんな歩くか自転車だからね。今は車だからわかんないですよ。まして嫁さんなんて新しくきたってわかんない。どこの家の嫁さんだかはわかるけど。徒歩だったらあいさつもするし、いろいろ声かけて無駄話もするしね。だからどこの誰だかわかるわけ。現代社会は忙しくなって、車も忙しくなって、道路だってすれ違うだけであいさつも大してないし。どこの誰が入ってきて現在何人で生活してるか、避難して入ってきた人、出てった人全部知ってます。津波で仕事できなかったり、家にいるけど親戚の家が大変だからっていく人もいるし、手伝ってくれって言ったらちゃんと寄ってくるんですよ。いちばん助かったのは、となりの町から友だちが2トントラック1台分、精米して食べるようにして米と野菜持ってきてくれたこと。となりの地区までも野菜を配って。うちのほうは津波の終点だから道も通れて。
うちは酪農やってたんで、大きな機械で通れなくなってた先の道路のがれきをよけたんです。いつ津波が来るかわからないから橋の上に1人見張りを立てて。部落で大きな機械持ってる人とも協力して、45号線と398号線と暗くなってから道路だけつないだんです、こわかったけど。だから家のほうに避難できたわけ。それだけでもずいぶん車もさばけたわけ。
自主防災って、なんかあったときにやるっていう組織を作っておったんですが、私たちみんな被災してるから、集めようとしても集まらないわけさ。私より若い人たちだと管理職クラスの年代の人たちだから、職場さ行かなきゃいけなかったり、家族がいないって探さなきゃいけなかったりとかして。だから私らがやって。災害になると機能果たさなくなってしまうんですね。支援に行くのはいいけど、自分たちだと組織も何も壊滅してしまう。昔から住みついてる農家の人は幸いにも協力してくれる。生え抜きの地元の人たちなもんで。残ってる人たちは子どものころからずっといる人たち。たまに嫁さんが来るくらいしか変わらない。
私の嫁さんはとなり村からです。昭和43年かな。私は27歳で、女房は成人式終わったくらいでした。親戚の紹介の見合いで。私のころは見合いやらで結婚して。
震災そのとき
地震では影響なかったんです。食器棚も食器も崩れなかったの、不思議なくらい。私はあのとき、高野会館で老人クラブの演芸の発表会やってたんです。その終わりころに、閉会の前置きのお話をしてたとき地震が来たもんで、私も集落の老人クラブの方々と乗り合わせの準備をしていたの。私の車に誰々は乗りなさいよって。天井と天井の電球がぶつかるくらい大きかったから、だーっと階段のほうさ行ったから、パニックにならないように戻して、ドアを開けさせて、「座れ」って言った。駐車場に走って行って、帰ったら誰もまだ下にいなくて。みんなは3階にいて、「動くな」って言われていたので私だけ帰って来たんです。高野会館にいた人たちは400人くらい、屋上で2晩飲まず食わずで缶詰だったみたいです。
「南三陸町、30分で跡形もなくなっている」と12日の1時ごろラジオのニュースで放送があって。高野会館は陰になって見えなかったんだね。しばらく経って、12日の4時ごろラジオのニュースで「高野会館にも400人くらいいる」って放送があって、ようやく安心して。それから学校に留められた孫たちを迎えに行って。「津波に関係ないとこ歩いて来たから返してください」ってお願いして連れてきたんですよ。山歩いて帰ってきた。
姉と妹の家が被災して。妹の息子夫婦と娘夫婦と、我が家に避難してきて、26、7人で2カ月ほど我が家で生活しました。お姉さんの家も被災したもんで、炊き出ししてやってました。一輪車で子どもたちが1日に3回運んでました。1回に炊くごはんだけで2升くらい。それを日に3度。2晩くらいは50人くらいいましたよ。農家の昔の家は大きいです。部落の独居老人の方や帰れなくなった人をうちさ連れてきて、親戚の人も連れてきて泊めてやったり。奥さん方は疲れで3日目に具合悪くして、ワゴン車借りて女の人3人岩手県で病院探して、1軒目断わられたけど2軒目で薬もらって注射して帰ってきて。その間は、部落のお母さんたちに声かけて、3人くらいに手伝ってもらって。
養蚕・たばこから酪農へ
今までやってた農家じゃだめだと思って酪農始めたんですよ。初めは田んぼとたばこと養蚕やってて。でも、中国から安い生糸がやってくると日本では養蚕はできなくて。たばこも吸う人がだんだん減ってきたから。生産物は安いです。買う物は高いです。農家からはみんな離れて。働き手がたくさんいるころはよかったんだけど、働き手がいないとできないということで私が酪農始めたんです。今は暇を見て農業している人もいるけど、だいたいは現金収入目当てに働いてる人が多いです。
搾乳機械も入れたんです。それまでは人手でやっていたんです。私たちが視察に行ったころは研究中で実用化されてなかったけど、実用化されてすぐに買おうと思ったら、日本ではまだ生産されてなかったんです。私は東北で一番最初に搾乳ロボットを採り入れたんです。
その後、酪農は息子たちに任せて、私たち夫婦はビニールハウスのほうやってたんです。そしたら津波で全滅になっちゃって。私の住宅は高い所にあったから無事ですが、津波の終点近くだからがれきを置いて行かれたんだ。がれきだけ運んで水だけ帰って行ったんだ。9月中頃に撤去はすんだけど、塩抜きしなきゃいけない。耕すとがれきがまだ出てくる。セシウムがどうなるかわからないけれども。まだ種を蒔いたのは私ぐらいで、みんなまだ土地を放棄してる。放棄すると雑草生えたり大変だから、雑草生える前に耕して。私は早め早めでやったつもりなんですが。
輪菊、キュウリ、キャベツ、白菜、季節の野菜いろいろ作ってました。今までの3分の1もないけれど、やれるならやりたい。畑だってまだ塩害がありまして、キュウリ作ったら、最初の幹は成ったんだけどそれからが育たなくて、収穫も3分の1くらい。トマトは塩に強いっていうからやったけど、なかなか実が成らなくて。でも、麦なんかは強いからいいんではないかなって思うけど。堆肥を普通より余計使ってやってるんだけど、結果は来年の春にならないとわかんないです。残骸を片付けたらまだまだ畑やりたいですね。行政は海の方を一生懸命やってくれてるけど、畑の方はおいてけぼりで。塩害やら何やら時間もかかるし、もっと早くしなきゃいけないんだけどね。
ボランティアの方々
私たちのハウスは10棟、450坪全部やられた。業者にやってもらおうと見積もり出してもらったら、1棟70万80万かかるらしい。私の年齢では農業ではそんなに稼げないから、10棟は建てられない。がれきの中からハウスの骨を探して直して、3棟だけ自力で建てたんです。ボランティアの方の手を借りましてね。そのボランティアの方が家さ、住みついたようになって、その方が友だちを連れてきたりして。ほんとはそういうのだめっていうんだけど。せっかく南三陸町にボランティアさ来てくれているので、最初のうちは自衛隊のお風呂もなくて、ボランティアの方は女の子でも10日くらい入れなかったみたいだから、お風呂開放してあげて。うちは地下水を汲み上げたり、発電機を借りてきたりして、1週間くらいでお風呂ができたから。お風呂入れてあげて、ご飯を食べさせてあげたりして。「泊ってください」って言って一晩に9人泊まったこともあったかな。「食べるものは粗末なものだけですよ」って話して。南三陸町は本来なら海の新鮮なものがおいしいんだけどね。夏場は日が長いから、ボランティアの方が午後4時くらいに帰ってくると手伝ってくれるんですよ。収穫したものを一緒に食べて。米なすとか輪切りにして焼いて食べる。おいしいって「お土産にください」って持ってくんですよ、いつも。
ボランティアで来てた学生さんたちにうちの孫たちふたり、お盆にお台場さ案内してもらって次の日また送ってきてもらって。孫は中3と小学校4年と5年。みんな男の子。初めての東京見物させてもらって。
孫たちもボランティアの人たち来るのを待ち望んでて。ボランティアのおかげで復興してるようなもので。ボランティアの方々は自主的に働きに来るって言って来てくれるんで一生懸命働いてくれるんですね。それに報いるために、入れ替わり立ち替わりでたくさんの方々を泊めています。