名前は佐藤徳郎(さとうとくろう)。昭和26年7月18日生まれで今60歳、家族は女房と息子と次女。長女は10何年前にお嫁にいってる。俺20歳から農業始めて40年になんだ。津波が来る前はハウスでほうれん草と菊をやってたのさ。昔、仙台に農業の学校があって、そこさ2年間行って、その後栃木県野木町ってところに農業研修で2年間。だから志津川を空けたのはその4年間だけだった。今回、登米市に避難したとき、40年ぶりでこの地を去った。まさかそういうふうになるとは思わなかったよね。
志津川は農業が盛んだったのさ
昔はね、農業が盛んだったのさ、30年も40年も前はね。養蚕、葉たばこ、米が志津川の農業関係の主流だったわけさ。うちでもおじいさんの代から昭和53年まで葉タバコは作ってた。当時はね、けっこう金にはなった産業だったのさ。そして海やってる人も田畑はもってるから。養殖が盛んになってきたのが、今から30年くらい前かな、それ以前は半農半漁。漁業やってる人たちも農業収入をあてにしながら、漁業やってたんだよね。それが養殖が盛んになってきて、海は海、農は農って形になってきたんだけっども。だからそれまでは面積的にも田畑はあることにはあったね。一番最初にだめになったのが養蚕、中国物に押されて生糸がダメになって、その次にダメになったのが、米。昭和40年代から減反が始まったでしょ。それだけじゃなくて50年代から価格も下がってきた。去年なんか最悪の価格だ。うちも4、5年前までは田んぼもやってたんだ。
小さいときから園芸が好きだったの
私で3代目なのさ。そんなに古い農家ではなかったのさ。おふくろが野菜をひき売りに行ったり、酪農やって牛乳を売ったり、百姓だからいろんなことで日々の生活を立てていたの。米や葉タバコは年に1回の収入だから、それを基に土地を買って畑を増やしていったんだね。親父ががんばったんだな。親父が基盤をつくってくれて。
でも俺はそのまま継ぐんでなくて、施設園芸をやりたかった。小さいときから園芸は好きで、農業の学校に行きたいっつのも園芸をやりたかったし、栃木に行ったのもきゅうりとかトマトを作りたかったから。ものすごいそっちの方に興味があって。栃木から帰ってきて、自分のビニールハウスを建てて、それでやり始めた。最初は200坪から始まって、徐々に増やしながら、流される前までは1,100坪まで。俺が親父から引き継いだのは農地を引き継いだ訳だよね。俺は、息子には施設を引き継がせたかった。
うちはね、代々いろんな野菜は作ってたの。ただ、すべて露地的なものでしかやってなかったの。この近辺でビニールハウスを最初にやったのは俺が最初だったのかもしれない。栃木から帰って来ても周りでハウスやってるのは誰もいなかった。
夏のほうれん草ってのを作ってみた
ハウスは菊とほうれん草。夏場のほうれん草がハウスでないとだめなんだ、もともとが冬の作物だから。夏に露地でやったら、ちょっと雨降って晴れると全部腐れるんだ。ほうれん草は6月から10月の10日前後までが一番の高値なのさ。俺たち昭和53年頃から作ったのかな、夏のほうれん草っての。当時誰も作る人いなかったんだから。それを仙台の市場に持ってって、ものすごい値段が付いたのさ(笑)。冬のほうれん草の何倍なんてもんじゃないよ、ほんとにびっくりしたんだから。ほうれん草って長日作物っていって、日が長くなると花が咲くよね。だから花が咲いてるのもあんのよ。芯の方さ花があっから、その花をちぎって。とにかく品数がなかったから、そういうものでさえ、売れたんだから。当時夏場のほうれん草てのはねんだから、他の地域でも。そもそも作るものとしなかったんだから、当時は。たまたま本で見たのよ。で、やってみっかつう感じで。
菊とトマトをやってたったんだけど
菊は平成元年から始めて、今から14、5年ぐらい前までは菊とトマトを両方やってたったの。その時はトマト高かったんだ、単価が。でも体が続かなくて。お盆の忙しいときに、俺1週間に3回事故りそうになったんだ。で、これ以上無理はしねえ方がいんでねってことでトマトやめて、それから菊を10年ぐらい一本でやってて。
菊とほうれん草と、半分花屋
でも油が100円ぐらい高くなった年があったのさ、5年くらい前に。俺の考え方は、例えば、1本60円の菊で、油代が50円だったら、1本10円つくからなんとかなっぺ、と。でも、それを遙かに上回る燃料費だよね。60円でなんとかなるかなって思ってるときに、これでは100%割に合わない。それから、これではダメだなっつうことで、夏は菊を作って、冬にほうれん草。でもどうしてもね、他の人の出来と差がありすぎたわけ。市場では、このほうれん草は一般セリにかけんのもったいないからって、予約相手ってのに回された。予約相手つうのは、セリにかけないで最初の単価を大体決めておいて、お客さんは物を見ないでやるっていう。それでうちでは、何があっても注文を受けた量は出さなければなんね。そのうち、夏場も作ってくれって。冬場だけだと、せっかくあんたさ付いたお客さんが離れるからってことで。んで、菊をある程度縮小して、畑の方を大きくしてきたんだ。半分の施設ではほうれん草、半分を菊って。
そして3年前からはまた少し変えて、8月のお盆と9月の彼岸この2ヶ月だけ集中的に作った。あとの10ヶ月間は花を仕入れて加工して売ってたの。だから半分花屋。うちは菊もすべて自分の販売なのさ。農協販売でなくて。よくスーパーとか量販店で、三角の袋で花4、5本入ったやつあるよね、うちではあれをやってたったのさ。
全財産は2,000なんぼ
地震の時も、中田町の花の卸屋さんに仕入れに行ってたのさ。3月11日だから、うちでは3月14~17日あたりがお彼岸の注文が殺到するから、そのためにある程度買っておかなくてなんね。そして、仕入れ終わって、精算し終わったっきゃ、あの地震だったのさ。だからある程度有り金はたいて、精算してくるよね。んだから、おつりが2000なんぼなのさ。津波後は、全財産はそのおつりしかなかったのさ。
町の姿がなくなった
志津川まで戻ろうと思っても、橋が渡れなかったり、三陸道もバーが閉まってたりして。それでぐるっと回って398号線さ来たんだけど、志津川の合同庁舎から500mぐらい上で、交通規制されてて。俺の前にも車が止められてたんだけど、俺の車ハイエースで車高高いから、ちらっと見えたっけ、川から瓦礫流れてくるのが見えたわけさ。ああ、やっぱり津波来たって。そこで、俺は窓開けてクラクション鳴らしながら「津波だから逃げろ!」って叫びながらゆっくり走って、後ろに50~60台連なって。で、自分は家に行こうと、大雄寺に抜けるとこを下がって行ったっけ、またそっちから波来たわけさ。あ、これではダメだと。んで戻ったんだけど、後ろから来た人たちも、こっちもダメだと。そこがたまたま高台の土建屋さんの資材置き場で、そこに50~60台の車を駐めて。そして俺は山道をたどって大雄寺の駐車場まで来て、志津川の町みたら、1軒も残ってない…。町の姿が全然ない。
女房は、息子は、
大雄寺にうちらほ地区の人たち40何人いた。でもそこには女房の姿はなかった、息子の姿もなかったし。それからハウスの方さ下がっていったら、女房はいたった。女房は地震が強かったから近所のじいちゃんばあちゃんとこに様子見に行ってて、息子は地震だったから、水門さ行くって。おらほの消防団は川の警防だったわけさ。だから俺、あの津波を見たとき、息子はダメだなと思った。
でも最初は心配したけど、大丈夫だなって思ったのは、高台の家1軒残ってるとこさおらほの消防自動車が駐まってたったわけさ。息子は常に運転手だから。たぶんあそこに運転して持ってったのは息子だべなって思った。そして、消防の班長が機転をきかせて、おらいの息子は水門さ行くって言ったけども、「だめだから行ぐな!おっきな津波来る可能性あるから行ぐな!それよりも部落の人たち1人でも多く避難させた方がいい」って。で水門さは行かないで部落の避難誘導に当たってたって。でもやっぱり何人かはダメだったし。おらほで28人ぐらいダメだった。
おらいの息子ね、避難所にいた時にね、やっぱりトラウマってのがあんだな。夜寝てて女房の腕ひっぱんだってさ。夢見てんだべな。波来てっときに、助けに行くべと思ったやつを、班長が止めたんだって。「おめまで流されっから行くな」って。だからそれを止められてなければ、おらいの息子はダメだったかもしれない。ただ息子にしてみれば、あのばあちゃん助けに行けたったかもしれん、と。
とにかく夜が明けんのは長かった…
津波の晩ね、俺は流されなかったビニールハウスの中で一晩過ごしたわけね。焚き火をしながら。夜もね、一晩、波が来てるわけさ。津波がね。後ろの部落で1軒建物火災があって、その建物の火が、波が来っと海面に映るわけさ。それが高台に避難してた警察車両からは海が見えるから、波引いたとか波来たとかって言われて。波引いたって時は、ハウスん中から出て、まだ5~6m高いとこに家1軒残ってたから、何mでも高い方がいいからって、その高台まで上がるわけさね。こいづ何回も、3回目さなってくっと高齢者はさ、「もういい」って…。「もういいがら、若い人たちだけさ逃げろ」って…。そう言われっとつらいよね。…でね、とにかく夜が明けんのは長かった。
みんな、極限を生きてきた
うちら中瀬町行政区ていうんだけども、俺は区長だから、翌日から自分ところの地区の人たちを探しに各避難所に出かけてった。女房からは娘と地区の人とどっちが先なんだって言われたけど。3月13日も出かけて、でも避難所からちょっと出ただけで交通規制かけられてたから、やむを得ず車駐めて降りてきた。したら、「おとうさーん」て声するわけさ、んで見たっけ、娘だった。山ん中1日半かかって、帰り方わかんないから、いろんな人たちに聞いて、同じ職場の人と2人で帰ってきたった。
息子は消防団だから、それよりも遅れて1週間後に避難所さ来たったけども。1週間は捜索と遺体の捜索。志津川高校の自転車置き場、屋根だけのところに薪焚いて、コンクリの上に段ボール1枚。毛布1枚も無く。周りなんもねんだよ、屋根だけ。そのなかで消防団6人だか7人が、とにかく捜索しなきゃなんねってことでやってた。重機が1台だけ残ってて、ただ燃料は別なところにあったから。夜中のうちに5km以上ある山道を、ポリ缶2つで運んで。そしてその日のうちに45号線まで重機を持ってきて、まだ波来てる最中、とにかく瓦礫をどけなければなんともならないって。そういう活動を1週間やってきたわけさ。
みんな、それぞれが、極限を生きてきた。ギリギリのところを生きてくっと、それでいま落ち着いてくると、やっぱ涙腺はゆるむ。
チリ地震津波と今回の津波
まさかね、自分がよ、避難所生活すっとか、仮設の生活すっとか、本当に夢みたい。そういうのは想定はしてないし。俺が小学校3年生の時にチリ地震津波があったよね。その時だって家には津波は来なかったし。やっぱり1つの教訓の中でチリ地震が最大の津波っていうような、そういう印象はあったのさ。そしてうちらほみたく奥の方に来っと、山がせまってくると、どんどんどんどん波が高くなってくるよね。だからうちらほでおそらく海抜20何mぐらいの波の高さになったはず。
今回、瓦礫撤去に行ってた時、チリ地震当時の写真が見つかったのさ。海の近くに簡易裁判所ってあったのさ、それが本当に海のそばでありながら、古い建物でありながら、建物は残ってたんだ。今回の津波なんかはさ、最後の到達地点まで、家が全然無いよね。だからその波の威力っつのは…。チリの場合はただの水害。海がただ盛り上がって、家は流されないで泥水だけが被っていった状態だと思うのね。一部は家を流された人もいたけども、だいたいは残ったんだ。だから街だってそれなりに、復興するのも早かったし。
地元に戻ってくる
うちらの行政区は、流される前は197世帯あったの。それが残ったのがたった8世帯。603人がそこに生活をしていたんだけれども、いま仮設に、自分の地域に戻ってきたのが220人ぐらい。私は3月20日あたりから、仮設だったらば地元に戻ってくると、地元の民有地、ってずっと考えてたの。それで勝倉さんていう、おじいさんの代から付き合いをさせてもらってる人がいるのね。そして、仮設を建てるんだったらここの土地を貸してもらいたいとお願いした。勝倉さんからは「あんたから頼まれて俺だめって言えないよな」って言ってもらえて。ただ、それからが大変よ、相手は国だから。
4月の説明会では、全町で約3,400の仮設が必要だけど、町の公共用地で確保できたのがその3分の1しかないと。あとの残りは、近隣の市にお願いしたいと話があったわけさ。俺はね、絶対地元、民有地だと。でもどこにかけあったってだめさね。国がだめなものはだめなんだよね。県がだめなものはだめなんだ。ところが、たまたまテレビの密着取材だのがあって、どうやら被災地の現状を中央に直接伝えてもらったみたいなんだな。それから、民有地も許可になってきたわけだっちゃ。
600人の生命がかかってる
それまではどこさ言ったってだめだから、やっぱり真剣になってやればさ、こういう平穏な言葉では言えねえよな。だってとにかく門前払い、門前払いだっちゃ。
俺ね、3月の段階でみんなの前で言ってるわけさ、「ここさ戻ってくっぺし」て。言った限りやんなきゃねよな。よく「何がそういう風にさせたのっしゃ」って言われんだけども、なんでもないのさ。やっぱりねこういう未曾有の災害っていう時に、いぐら私のようなものであっても、600人の人たちの生命がかかってる。今後がかかってる。そうなって、それをやらなければ俺、孫子の代まで言われる、俺が亡くなったって。亡くなってからまで言われんの情けねっちゃ。んだから、自分で考えられる範囲の中では、とにかくやれるものは全てやったような気はする。ただ、気はするだけで、分からない。相談てのもできねんだよな。即断、即断でいかなけね部分もあるっちゃ。そうすっとね、やっぱり、俺こういうふうに決めたんだけっども、みんなこれでいいのかなと、そういうような思いもやっぱりでてくる。
本当にね、こういう災害の時のリーダーってのはさ、ものすごい孤独。もう全て自分の頭で考えて、行動する、即断をする。ものすごく難しいよ。でもねぇ、思うのはさ、やっぱ人間捨てたもんじゃないつう感じはある。自分では何にもできないんだよ、できないんだけっども、自分が真剣に頼めば、誰かが動いてくれる。いろんな人たちに世話になってきた。
これからの楽しみは
本当にすごい人たちに俺たちは恵まれてきたなと。津波でなければ会えなかったし、こうやって人対人の付き合いはできないよなって。俺がたまたまでも区長をやっていたからいろんな人たちと会えるし。本当にそれが財産なんだ。こうして出会えた若い人たちの今後の人生も楽しみにしてるし。俺ね、何年か経ったら、自分がきっちりと自分の仕事に復帰してね、3年か5年かかっか分かんないけども。そしたらみんなのところをぐるっと歩ってみたい…。そうすれば、全国の孫に会える。そういうのは楽しみ。そういうことがねえと、やっぱり耐えられねんだ。
俺、震災後、8月の避難所の退所式までは、涙つのは流さなかった。流す余裕がなかった。ほんとにね、その前の5ヶ月間はね、いろんなことがありすぎる。今やっぱりね、ある程度みんなが落ち着いてきて、涙腺がゆるむ。というのはね、流されてえんえんではないのさ、やっぱりみんなね、いろんな人のお世話になってる。そういうのがね、ありがたい。
とにかく早く自分の仕事に復帰したい
ハウスは全部だめだね。息子が就農するときに約2,000万かけて作ったハウスが丸10年でパアだよね。それで、これから自分が仕事に復帰するまでは、最低3500万はかかる。その金の捻出どうするか。国が小さい圃場までね、補助を出してくれるか。それがね、今一番頭の中に。
今バイトには行ってる、土建屋さんさ。最初のうちは瓦礫撤去だったから、これは本当にむなしい。今は住宅の基礎工事が出てきて、やっぱり出来てくものじゃないですか、だからそういうのは仕事をしてて楽しいよ。ただ、自分の仕事ではねえから。
遅れてもいいから、復帰すんのは。ただ方針さえ分かればいい。方針さえきちっと分かれば、俺も事業を興せる。それがまだ全然闇の中。それでずっとつながれるっつのは、キツい、つらい。俺だってやっぱり意地あるし。あの狭い仮設から早く抜け出したい。そしてねえ、お金が入ればいいっつう問題ではなくて、俺たち年代になってくると、平均寿命であと20年と言われても、元気で働けるってのはおそらくあと4、5年だと思う。65歳になれば、俺だってどっかかっかはいかれてくる年代になってくんだよ。そうなってからではさ、いくら息子がやるっていいながらも、やっぱりかなり厳しいよね。とにかく早めに復帰して、早めに家建てたい。