登米の農家に生まれ、子供の頃から労働力
私の名前は阿部宗則(あべむねのり)。生年月日は、昭和18年4月7日、今は68歳。今住んでるところは、南三陸町志津川の入谷(いりや)で、山間地帯、農村地帯で、この自治体では大きな災害はなかったという地区なんです。生まれは登米市、隣町です。
子供の頃、兄弟は4人で、男3人女1人、三男一女の次男です。昔はしつけが厳しいというか、学校が田植えの時期に休みになるくらい、子供も労働力としてカウントされているという時代だったんですね。
当時は登米市でなく登米郡って言ったんだけど、とても小さな集落だから、駄菓子屋さんがあるくらいで、買い物は佐沼に行ってさ。これは懐かしい話なんだけども、遊びといったら、野球の三角ベースや戦争ごっことかしてましたね。農地は大切で、子供が遊ぶと固まっちゃうから、遊ぶ場所としては米の出荷前の倉庫前の広場で遊んでました。
小学校も中学校も地元で、高校は農業高校に進んで、学校ではすぐ自動車の免許を取りました。中学のころも高校のときも、やっぱり労働力でしたから、勉強は二の次。それよりも田舎の仕事。三助(風呂沸かし)やったり、薪割りやったり、そういう仕事がありましたね。生き物に餌与えたり、その頃は家畜が機械みたいなもんで、田起こしなんかするんですよ。牛を草食わせに散歩に連れてなんかしてね。
就職して志津川へ、食糧事務所で40年間
高校卒業後は、なんか就職しようという気持ちにもなれなかった。仙台の専門学校さ2年間行ったんですよ。農業関係の専門学校です。そこで公務員試験も通って、我が家に仕事で食糧事務所というところに勤めてる先輩達がよく来たんですよ。そしてなんとなくそこに勤めたんです。そこでの仕事っていうのは、米を管理すること。農家の生産した米を検査して倉庫に入れとくわけさ、そして国民に配給するため卸に販売していく、そういう仕事をしてました。それで志津川へ来ることになりました。
私が志津川に来たのは昭和39年。結婚は事務所に入って2年半、23歳でしました。子供は息子1人と娘1人。今は、妻の母親と息子夫婦と住んでるんだけど。娘は岩手の方さ働いててまだ結婚しないでいるから、おじいさんになる暇がないんでさ(笑)。こればかりは、なにしてるというわけにもいかないですしね(笑)。
私が志津川に来た時なんて国道45号線が舗装になってませんから、砂利道です。町も35年のチリ地震の津波があって、まだ、区画整備もなってない状態でしたね。そして52年だったかな。鉄道が開通したんですよ、待ちに待った鉄道が。便利になりましたよ。私は40年間、60歳の定年までそこで勤めてました。だけど、私が辞める2年くらい前に食糧事務所そのものがなくなってしまったんです。定年で仕事辞めてからは、少し農協でパートして米穀の検査員の仕事したりしました。今は畑仕事してます。まぁ食糧自給率向上のため、30種類以上の野菜を作ってる。じゃがいもや落花生、タマネギ、ニンニク、ラッキョウとか。完全自給自足して、周りにあげたりしている。
震災当日、第3区区長の私
震災前は、地域では区長をやってました。第3区区長です。区長というとまぁお世話役ということで、役場からの通達を知らせるとか。区長会議の内容をA4のプリント作って、バイクで家回って渡して。だから、地域との繋がりはあるんだ。それじゃないと、何をしてるか分からないから、目には見えないもんだからさ。そしたら、「あらぁ、区長さん来たの」なんて言ってね。手渡しが大切。ただ言葉を一言交わすんだけど、繋がりがあって、それが大切なんですよ。
震災当日は、畑で野良仕事しておって。そしたら、だいぶ揺れが強いだ。隣の酒屋のタイルがね、ぺんぺんぺんぺんぺん飛ぶわけさ、もうね、「おぉーこれは大変だなぁー」って思って。崩れるんじゃないかって思ったけど、うちは大丈夫だった。それで津波が来ると、防災無線が鳴る。どの程度の津波かわかんないうちに無線は切れる。それよりも、地域の住民の避難する場所を確保しなくちゃいけねぇっつうことで、公民館さ行ったわけさ。公民館が地区の避難所になってるから。そして、行ったらそれどころでなく、津波かぶった被災者が来る。ようは、津波の避難所になって。下半身濡らしたり、泥まみれになったおばあさんとか搬入されてくるわけさ。それで、「なんだ、そこまで津波が来たんだ」って分かったわけね。
そしてそれ以降は、そういう人達の救護、手当。もうその時は雪も降ってまして、寒いから暖房確保、着替えを出してもらい。それを提供してもらって。そして入谷地区に土建屋さんが結構あったんですよね。そこはだいたい発電機持ってて、それを避難所で使わしてもらってさ。ストーブとかいろいろ持って来てたんだけど、結局は電気なわけさ。だから、それ使って公民館は寒さからは解放されたわけさ。
んで、まずは夕ご飯。炊き出しする人がいねくてはならねぇから。とにかく全体をやんなくちゃならなかった。あの志津川のあっち(中心部)の方のひと達は、全部やられてるわけだ。小学校、中学校、高校も全部避難してる人達いるわけだから。そいつの食糧も確保しなくちゃいけない。ともかく各部落から午前・午後200個ずつ、おにぎり作り。炊き出しは大変だったね、10日間は。以後は、自衛隊の炊き出しが始まる。
震災、その時家族は…
息子と嫁は仕事で、家族は自宅にいて。嫁は折立に仕事で行き戸倉中学校さ避難して、どんどん山へ逃げて助かって。その後登米市登米中学校さ行ったもんだから、みんなが違う場所。4日目には安否が確認できましたけど、その時は安心しましたよ。息子も折立に行き津波に会い津波が川を上ってくる道路を逃げて荒町まで来た、一緒に逃げてた上司が見えなくなったって。上司は車で津波にのまれてしまったんです。でもその上司は、3日目かな、夜に歩いて来たんです。無事だったんですよ。流されて車が止まったところを逃げて。山さ入ってライターで火を焚いて、杉山で一晩過ごして。次の日に歩いて山を越えて来たわけさ。みんなが「もうダメだって」言ってたもんだから、来た時は「幽霊でないかな」なんて言ってたもんで(笑)。だからねぇ、危機一髪よ。車はダメよ。助かってからは、みんなで助け合ってね。燃料を確保したり、おにぎりを運びだしたり。
恵まれた避難所、だからこそみんなの力に!
いま語る公民館(避難所)は恵まれた状況だったんだけど、他は大変よ。もう1つの小学校の避難所には発電機が行ってねぇ。3日目あたりに小学校にも発電機が行った。小学校は大変だった。体育館は寒いしねぇ。公民館は建物も小さいし、わりと暖かかった。そういう意味で「ここは恵まれた避難所だから」って話をしてさ。おれも地元の区長として「がんばれ」と、皆を励ましながら避難所を眺めて、争いがねぇようにしてたな。他では物がなくなったって、そういうのが発生してた。ここではそういうのがないように、なくなってもなくなったって語んないように、「物は自己管理して下さい」って言ったわけさ。1回でも物がなくなったって喋ると、「おれが疑われたんじゃねぇか」って雰囲気が出てくるから。
そして、おにぎりを握るのもね、自衛隊が米炊いてくれるんだけど、「自分達でもらって食べるだけじゃだめだ」と言って、避難所いる娘さんとか奥さんに「代わってください」と。そういうのに協力もらって、1人40から50個作って配布した。支援物資も多かった。特に、志津川はみんなに目をかけてもらった。米もだいぶ支援があった。
震災後に地域の民家に避難者が、70世帯位の集落に31世帯、97人が避難してきたんですよ。当時、米は1人1キロだったので、5人いれば5キロそういう世帯に配って。その中には、「ガスや電気がないから米もらっても炊けない」って言う民家もあったんだ。でも、薪でも焚けば炊ける、そういう状況なんです。だから、「電気を待っているようではだめだよ。工夫してやれ」と。問題は、民家に避難したんじゃ、やっぱりなかなか支援ができなかったこと。
被災直後は、物資とかそういうのを配分するのに、燃料のガソリンや灯油がなかったのが大変だった。あとは電気ね。35日間こなかったわけですから。4月の16日にようやく復旧したんですよ。でも、うちは早いほうだったんですよ。それまではソーラー電池で、外の明かりはちょっとあった。水道が復旧するのはまだまだ後だった。ガスはうちのとこはプロパンだからそれほど問題ではなかったんです。
復興の兆し。支援してくれたみなさんありがとう。
7月の始めにはに公民館を空けてもらったんだ。公民館で地域の総会をできるようにしてもらって、ボランティアの人々に来てもらって、いろいろ助けてもらった。だから、ボランティアの皆さんには頭が下がる。大学のボランティアセンターのバスで、結構いろんな大学が来ました。大正大学の関連企業が来て、かつて生産されていた「オクトパス」くんっていうタコの文鎮作ってもらってね。タコが赤だけだったんだけど、ゴールドとか黒も作ってもらって。それを作る型枠が全部流されちゃったから、また作ってくれてね。
物資も余ってきて、毎週体育館でバザーやったりしましたよ。倉庫片付けなくてはならないから。そうやって公民館が中心となって、音頭を取っていろいろ工夫しました。
それでも、よく乗り越えてきたと思いましたよね。やっぱり人の繋がりだとかで助け合いました。重機持ってる人がまずは道路作って、でも燃料がない。そしたら、トラック持ってる人がトラックの中の燃料を持ってくるわけさ。他にも電気が復旧するまでは、防災無線から声が聞けると癒しにもなると思って、モーニング・コールを流したりね。電気が復旧したら、テレビも見れるしもういいかな、と思ってやめたんだけど。
今後の課題
高台ってのが当然なくてはなんない。まだ町の人にも方針が発表されてないわけだけども、中途半端にここまでは津波が来ないっていうのもダメさ。高台に逃げなくちゃいけない。まだまだ土地の値段が高いから、震災以降もっと高くなった。町営住宅でもエリア住宅でも作ったらいいじゃないかな。登米や佐沼に職場があるから、みんなここ、志津川まで住みに来ねえもんな。