お茶っこの会をひらく、志津川唯一のかばん屋さん

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「そこまで来たから寄ってみた」ってパンを買ってきたり、お茶っ葉を買ってきたりして寄ってくれるの。道路を通った人も呼ぶの。「とにかくお茶飲まん」って言うの。
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Tokyo Foudation
Geolocation
38.6758411, 141.4501125
Location(text)
宮城県南三陸町志津川地区
Latitude
38.6758411
Longitude
141.4501125
Location
38.6758411,141.4501125
Media Creator Username
Interviewee: 菅原幸子さん, Interviewer: 澁澤陽芽
Language
Japanese
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Japanese Title
お茶っこの会をひらく、志津川唯一のかばん屋さん
Japanese Description

自己紹介

生まれもこっち。旧姓は萩野。結婚して菅原。菅原幸子。

女3人、男3人の6人兄弟。私はいちばん上。両親が働きに出てたからね、弟や妹の面倒を見て。お母さんは生牡蠣の工場。お父さんは大工。そして、150mか200mしか離れてない所から嫁に来たの。

お茶飲まん

今、ひとりで暮らしてます。かばん屋をしていたんですけど、やめて、年だからもうできない。もとの場所には家を建てられない。地盤が沈下して、水がざぶざぶ来てる。あの辺一帯はね、建てる許可が出ないんだね。あそこに住めるまでには何十年もかかるんでない? われわれがあの世にいってもどんなもんだか。だから、高台に建てる計画をしてるみたいだけど、私たちがいた町はだめだね。それでも志津川のそばにやっぱいたいねぇ。生まれも育ちも志津川だからね。

かばん屋をやっていて、昭和44年の景気のいい時代にはよく売れたよ。2万もする学生かばんとかランドセルが飛ぶように売れた。それから少しずつ売り上げが下がって。忙しい頃から買いに来てくれたお客さんにお茶出してたの。主人は裏でおにぎり食べて、私は店にいて。いいとこだったよ。商売してたから知らない人がないというか。みんな声かけあって。

年はとってても気持ちはまだお姉さま。7年前に主人が亡くなったのでお店をやめようかと思ったけど、問屋さんとかお友だちに「あなたがやめたらぼけてしまうよ」って励まされて、かばん屋もひとりでほそぼそと続けたの。

「そこまで来たから寄ってみた」ってパンを買ってきたり、お茶っ葉を買ってきたりして寄ってくれるの。道路を通った人も呼ぶの。「とにかくお茶飲まん」って言うの。

海のある生活

夏は海の家で12年間働いてたの。息子と主人と3人でやってたの、生き生きと。海の家のスーパーハウスを借りた人は3軒ぐらいあって、うちは物販だから、傘を貸したりボートを貸したりしてたのよ。いろんな人との交流もあったし、ぴちぴちちゃんを見られるから楽しかったのよ。海には海水浴客があんまり沖に行かないように見てるボートがあって、陸では学生さんが見てて。人口海水浴場で、シルバーの方がごみ拾いやらして綺麗な海でね。

もとは岩だらけの海だったところが、県の事業で人工海水浴場が出来たの。私たちが小さいときはカキとかのいかだが並んでいて、そこの下を見たりしてたね。大きい船が入ってくるとあおられて水飲んだり。夏は海だね。海の水はきれいで波がないから。小さい子供達も安心して泳いだの。冬はそりすべりとか。縄で後ろに小さい子乗せて競争したり。家の中で鞠つきとか、ゴム跳びとか鬼ごっことか。

三陸津波とチリ津波

私も津波に関係あるもんだなって思ってね。昭和8年3月3日にね、三陸津波っていうのがあったらしいの。私が生まれて21日目に。それから昭和35年5月24日、長男がお腹に入って8カ月目でチリ津波。物は流されて、かばんが全部なくなって、2トントラックが家の中に入ってたの。2階の家は残って、私がまだ20歳代だから、がんばったわけ。そのときは何の前触れもないんだよ。地震はチリだからね。気象庁からも発表がなかったの。でも、朝早く海に出た漁師さんが引潮がすごいのを見て、「これはおかしい。津波が来る」と。何の発表もないのに来るわけがない。でも、漁師のかたがたが騒いだわけ。「津波来るから逃げろ」と。どのくらい来るかわかんない。大したことないだろうとも、私も一応逃げたの。町で指定された避難所で高台にある志津川保育所に逃げて、一晩か二晩泊ったかな。

津波にやられて流された家もあったけれど、うちはかろうじて残ってた。ただトラックが入ってるし、タンスはひっくり返ってるし、畳が全部盛り上がっていたの。山のように。これではどうしようもないって。1階が全部そう。お勝手に行ったら、鍋も釜も泥だらけでね。とにかく洗って消毒して使える物は使った。水道はあったんだけど、水が出たかどうか定かじゃない。飲み水はね、避難した保育所のところまで汲みに行ったの。大きなお腹で。そして自衛隊のかたに持ってもらったの。「お母さん、持ってあげるから」って。着るものも全部川に持って行って洗ってね。「お腹冷やしたら赤ちゃんに悪いから」って、自衛隊の方々に川に入ってもらって洗濯してもらったの。そういう経験があったの。

自営業だからお店やらないと食べていかれない。お店の建物は残ったし主人も若かったから、一生懸命がんばって今日に至ったわけなんだけど、そしたらまたこんな大きいのが来た。

震災そのとき

兄、姉達も自営業で昆慶金物店をやってたの。主人の姉たち、家族5人この震災で亡くなったの。20歳になる孫がひとり残っただけ。こないだ、形だけでもお葬式をしようということで。骨壷の中には写真か何か入れて。遺品も何もないんだもん。親戚だけでお葬式をして、供養をして。5人の写真を見て、私は泣きました。

お昼まで死んだ姉と一緒にいて、お向かいのパンとか野菜とかいろんなもの売ってるお店屋さんでお買い物したの。姉はうちに寄って、お店でお茶を飲んで12時に帰ったのよ。お昼食べて、お客さんが来たから「はい」って出てったの。そしたら、話もしないうちにああいう大きい揺れが来たでしょ。ひょっと見たらね、斜め向かいにある洋品屋さんの土蔵の土がね、屋根からだぁーと崩れて落ちたんだよ。それを見てね、「これはただ事ではない」と。それでねお店の帽子だけは値札付いたまま持って、玄関に出たの。扱っていた志津川中学校指定のかばんの商品券を全部かばんに詰めたのね。主人の位牌も入れて、私の通帳とはんこ、それから薬、お店の鍵。息子のジャンバーが玄関にあったからとにかくそれを着て。げた箱も開けるひまなかった。だからそこにあったぼろの靴を履いて逃げたの。

うちはちょうど十字路だったからね、どっちからも45号線の車が来るわけ。何度も「止めてくれ」と言ってやっとちょっと止まってくれて、無理無理車の間を通って高台に上ったのよ。そしたらすぐ波が来た。すぐうしろ。私、足痛いのも忘れて走った。高台の奥まで。奥には保育所があったから。そこまで走ればいいかなと思ったの。そしたら水がまだ入って来たの。それで、ともかく上に登ろうということで杉山に登ったわけ。登れないんだねぇ。杉はあるし、雑草もあるし、雑木はあるし、道はない。ジャングルのようなところをみんなで登ったの。保育所の人たちも。子どもが「ママー、ママー」って泣くんだよね。可哀そうでね。「あららぁ、なんだべ」と思って私もすぐ後ろを登ってた子どもの手ひっぱってね、「さささ、泣かないで行こな。ばぁばと一緒に行こな」と、とにかく登って行ったのよ。口の中さ何か変なものが入ってぺって出したのよ。ほんだから歯も、下の入れ歯がなくなった(笑)。そして山のずっと上まで登ったらね、道路があったの。そこから200メートルくらいのところに小学校の体育館が見えたの。そこに行きました。その子どもはあとはたぶん先生が連れてったと思うのね。私は子どもが連れて行かれたのもわかんなかった。

小学校の体育館に入ったのは600人くらい。ストーブも何もないんだ。3月11日。まだ冬。なぜかあの時は雪降ったのね。中に入って寒いけどがんばって椅子を借りてね、どこかのおばちゃんと一晩座ってたの。ストーブも1台だけあったんだけど、灯油じゃなくガソリンで焚くストーブなんだね。車が何台も上がったから、各車から少しずつガソリンを抜いて燃やしたのがたった1台。子どものある人とか、お年寄りとか、足の悪い人とかちょっと身体の弱い人だけがストーブのまわりにいたの。私はちょっと勢いがあるふりして離れて、あったかいんでないかなと思ってよその奥さんと背中と背中を合わせて、私が持ってったマフラーをふたりでかぶって、3日そういうとこで過ごした。電気もない。

何にも食べてないからぐらんぐらんして、「どなたかね、あめかチョコレート持ってないですか?」って言ったのよ。そしたら、男のかたが「もらってきてやっから」って、探してきてくれたと思うの。チョコレート1個もらった。ここでは死んではたまらないと思った。負けてたまるかーと思って奮い起して、また「もう1個ないかね」って言ったら、「また探してくっから」って。お世話になった。チョコレートやらあめやらもらって。チョコレートもって来てくれたのは会長さんだったの。それで元気になったわけ。

橋も流されたし、何にも情報が入ってこないのよ。南三陸町いちばん遅かったねんでか。物資も入ってこない。物資運ぶ橋もないし、トラックも通れない。何にも通れないの。飲まず食わずで。入谷婦人会のかたが作ってきてくれたおにぎりを1個もらって、そこで3日間。

それから、自衛隊の方々がヘリコプターで飛んできたわけ。「あぁ、見に来てくれたんだなぁ」って。次の日あたりに自衛隊のかたが来てくれたの。ヘリコプターで小学校か中学校の庭に下りて、それから炊き出し始まったのよ。それであったかいごはんとお味噌汁をいただいたときには、私泣いたの。本当に泣けてね。ありがたかった。これで「私は助かったんだな」って思ったよ。となりの奥さんとさ、「よかったね」って抱き合って泣いたの。何にもないけどさ、命助かったからなんとかなるだろうと。がんばろうね、と。

命があるだけでよかった

そうしてるうちに、妹がいないの。妹探さなきゃいけないから、高校に行ってみんなに「妹がいないもんだから、探してください」って言ったの。マイクもないから、叫んでもらったの。「お姉さん、いません」って言われた。高校に行っても、中学に行っても。別の避難所のアリーナ(ベイサイドアリーナ)までは足が痛いから行けなくて、誰かに「探してくれ」って頼んだわけ。でも「いないみたいだよ」って。どうしようって思ってるうちに、妹の息子が私を探して小学校まで来てくれたの。「おばちゃん、おばあちゃん(妹)死んだって」って。そのとき私、ぺたーっと座ってしまった。力抜けて。「何で死んだ」って言ったの。

その日、妹は気仙沼のほうにお線香あげるために行ったの。それで、お昼をごちそうになって、そのときやられた。地理的にもどこに山があるかわからないから、とにかく夢中で走ったと思うの。行きか帰りかわかんないけれども、山の向こうのほうの杉山のふもとで車を見つけたわけ。1週間くらいだったかね。青い車だからすぐわかったのね。「ばあちゃんの車あった。シートベルトして死んでた」って。そう言われたの。そんときも私「なんで行ったか?」って。親戚の人が死んで、お線香あげなきゃいけなかったから行ったって。しょうがないなぁって思った。6人いる兄弟のうち、私のすぐの妹だった。私のお店でイベントがあると、いつも手伝いに来てくれたの。片腕をもがれたような気持ちだったよ。私の生き甲斐だった。火葬して、埋葬しておさめたの。あの津波では助からない。兄弟6人生きてれば本当はいいんだけど。仮設に写真を置いて、お水とお茶をあげて、「なんで死んだ?」って毎日言うの。主人の位牌も持って逃げたから、主人の位牌と妹の写真並べて毎日ね。でも、生きて2人の供養してあげようと心に決めた。

本当に、命があるだけでよかったなと思ったね。あとなにもいらない。なんとかなると思ったね。主人が私を助けてくれたんだなぁと思って。だから、主人に「ありがとうね。命だけは助かったからね」って。

姉弟

避難して東京にいた3カ月間は、弟が私を母親のような感覚で見てくれたの。1週間私のそばに寝てくれたのよ。私の声が母親に似てるんだって。

弟は私が行く1カ月くらい前の夜にね、少し怪我したの。お風呂から上がって、だーんと玄関で転んだらしいの。私が行ったころ、頭が痛くなったらしくて、目つきもなんかとろんとしてるし、変だからお医者さんに診てもらえって言ったの。そしたらね、すぐ手術したの。私が行くと間もなくだよ。そして、10日間入院したんです。弟が「ほんとはね、ぼくが姉を面倒見なきゃいけないのに、逆になった」って言うわけよ。「母ちゃんだからいいんだ」って言ってあげるの。私の「痛いかぁ」って言う声がね、母親に似てるんだって。

こないだの20日に私を「母ちゃん」って呼ぶ、3番目の弟が来たのよ。その3番目の弟の同級生が8人津波で流されたの。それで来年の3月11日に供養してあげたいということで、そういう相談に来たのね。役員のかたがたが来てどういう会議になったかはわからないけど、寄ってってくれたの。「母ちゃん、元気かぁ?」とかって。来てくれたの。うれしかったね。

車椅子のおばあちゃん―観洋さんでの生活

観洋さん(ホテル観洋)にもけっこう避難してたね。いろいろ知らない方もずいぶんいらっしゃいました。9階の6人部屋に5人。ご夫婦のかたが1組と私とあと車椅子のおばあちゃんと娘さん。私も明るい性格だから暗くしたくないけど、他人同士だからある程度遠慮っていうのはあるからね、なんか精神的なものだかなんだかわかんないけど、下痢が続いてねぇ。

ご夫婦のかたは仮設に行って、残ったのはおばあちゃんと娘さんと私と、6人部屋に3人になったの。おばあちゃんは85歳でいろんな話をした。おばあちゃんも志津川の人だから話が合うわけ。娘さんはがれき掃除で昼間はいないの。おばあちゃんがどこかに行くっていうと私が車いす押して、エレベータで下に行ったり。踊りがある、歌があるっていうと連れて行って見せたり。熊本から支援に来ていた方々も毎日お茶っこ会に参加して、おばあちゃんを車いすに乗せてたね。そして、おばあちゃんに宮城の代表的な歌を歌ってもらったりして。そういう風におばあちゃんと仲良くしてたの。8月18日に沼田仮設住宅に入ってから会ってない。会いたいのほんとはね。でも会えないの。

かばん専門店と志津川

嫁に行くちょっと前に、うちのすぐ裏のお裁縫の先生のところで和裁を習って、足踏みミシンを買ってもらって。ミシンで弟のユニフォームを作ってくれたの(あげたの)。チリ津波で流されちゃって、今もらったミシンが3代目。東京の弟の奥さんのものを糸から何やら一式もらったの。おばあちゃんやらお部屋の方に、巾着やらなにやら作ってあげて。私の趣味っていうか生きがいというか。好きだからね。

かばん屋のころも、かばんに少し故障があると主人が修理したりしてるの見てたからね。昭和35年の津波だから、昭和35、36年だね。かばん屋をはじめてすぐにチリ津波。若いからね、がんばった。その頃はね、志津川にかばん専門店って1軒だけだったの。八百屋さん、洋品屋さん、ガス屋さん、近くにお店が並んでね。志津川の中心、商店街だったの。バスだけだったのが、息子が高校1年あたりに気仙沼線が開通した。仙台やらどこやらにお買い物にみんな行くようになって、だんだん志津川も下火になってね。むかしからのお客さんだけがうちで買ってったの。

今はがれきのところ。今は三陸鉄道も線路がぐにゃっとなっちゃって、復旧の見通しないんじゃない? 頂点まで生活のレベルが上がったから、がくんと下がった感じね。お金さえあれば何でも買える時代じゃない。本当に私から見ると頂点に見えたね。

これから

年は忘れて若々しく。20歳の孫にすすめられてジーパンも履くし。東京にいたときスニーカーを買ったの。若くしたいから、「派手なのください」って言ったの。4歳の孫に「仮面ライダーみたいな靴だ!」って言われた。「かっこいいかぁ?」「かっこいいよ」ってね。4歳の孫を追っかけて走らなきゃいけないから。この靴を履かないと遊べないの。あの孫がいなかったらそれなりの年でひょんとしてると思うの。孫のおかげで若返りが始まったの。「ばぁば」って来るからね。孫が来るとしゃきっとなるわけ。重機が好きで、普通の乗用車とか見ても興味ない。大きくなったら重機を動かす運転手になりたいって夢があるんだって。「それには汚い服着てヘルメットかぶんなきゃいけないんだよ」って。それが夢なんだ。

もといた場所にはもう住めないからね。これから山のほうに息子たちと住もうかねって。でも、できることは自分でやってみようと。仮設でも新しいお友だちできたから。大いにお茶っこの会に参加しておしゃべりしてこようかな。今は孫もいるから命ある限り、まえを向いて歩こうと思って。

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