名前の由来
阿部長記(あべちょうき)です。昭和11年12月20日生まれの75歳です。生まれたところは、当時の志津川町五日町67番です。きょうだいは、男4人に女2人の6人きょうだいで、私が長男です。
名前に「長」という字のついたのが、私で3代目なんですよ。親父が「長寿」、それから私の爺さんは「阿部長兵衛」っていいます。
これは千葉海苔店(志津川にある海苔店)さんの父方のおじいちゃんの千葉清兵衛という方がつけてくれたんです。清兵衛さんはわたしのことを大変かわいがってくれまして、戦後、小学校5、6年ころまで、いろいろと面倒を見てもらったんです。
農業8割、漁業2割
うちは親父とおふくろの働きで農家を維持していたわけですけど、農業が8割か9割ぐらいで、残りの1割か2割っていうのは漁業やってたんです。
農業は、いま中学校のある下の辺り一帯に、4反くらいの田んぼがありまして、それから今の小学校と中学校の建っている場所に山の畑、そこで米を中心にしまして、麦、小麦、大豆、じゃがいも。傾坂地には果樹を植えて、秋ですと柿、夏場ですと牡丹杏(ぼたんきょう。スモモの一種)です。
山を切って焼き畑農業もやりまして、そばも作ってました。そばは全然手入れしなくてもいいわけですから、秋になってそばが出ますと、全部刈って干して粒にしましてね、それを精米所に持っていって粉にします。当時の升で6斗とか7斗、あるいは1石取れました。大晦日になりますと家族総出でそば打つわけですよ。親父とおふくろがぶって(そばを打って)、私が煮て、それを1軒分ずつお重に入れましてね、自転車で親戚のうち、近所、みんなに配る。
山行くと、バッケ(フキノトウ)、ワサビにコシアブラ、ワラビにシドケに…、とにかく山菜も10種にあまるくらい種類あるんです。わたしもそのうち7、8種類取ります。春すぎ、「今日はちょっと山へ散歩してくる」って行って、帰ってくるときはその晩の自分のうちで食べる分には余るくらいのおかずが何種類もあるんです。
漁業はワカメ、マツモ、フノリ、ヒジキ、そういった海藻類がだいたい春2月末から3月はじめ、ウニが5月から7月まで、タコが9月の末から11月ぐらい、この辺タコが有名なんです。志津川ダコ。それからアワビが12月の前半から1月の前半くらいというふうに漁期が決まってまして、そういうときに出漁して、自分の食べる分とか、あと多く取った分は漁協さんを通じて出荷する。
なぜこの町では海産物が美味しくて、種類もいっぱい取れるかっていうと、この町の町境はぜんぶ分水嶺になっていて、よその町に降った雨は入らず、取り込んでいる有機物を全部ここに集めて志津川に入ってくる。一時、公害の問題でいろいろ騒がれましたけど、ここは全然そういう心配がないんです。
貧しさの中の豊かさ
いまの子どもさん方には想像もつかないんでしょうけれど、その当時親父とおふくろがいろんなことやってなかなか暇がなかったんで、小学校の3年ぐらいまでは、私が妹や弟を連れて学校へ行ったんです。それから帰ってくればお守りか、私のすぐ下の弟が小さい子どもたちの面倒をみながら、私は農業のお手伝いをしました。本格的に大人なみに農作業をさせられたのは10歳過ぎるとすぐです。
うちは貧しかったんですけども、反面、生活の潤いを求めるように、季節季節の節目にはいろんなことやっとったようです。きょうだい、両親も含めて、誕生日が来ますと、赤飯炊いて氏神さまにお参りをしたりして。いわゆる「ひもじい」っていう貧しさじゃなくて、自分のうちで食べるものは自分のうちで、いわゆる自家生産、自家消費やってました。
厳しい父親
稲刈りも芋掘りも、昔は全部手で、鎌や鍬での作業でした。それを親父から教わりながらやるんですけど、自分が教えたように作業をやらないと、鎌の柄で頭をたたかれるわけですよ。親父は町内でも有名な頑固一徹者で「なんだよ、これ! なんでおれがいまやって見せた手つくれ(手つき)でやんないのか、だから鎌も鍬も持てねぇんだ」ってのが普通でしたから。
あとは鉄拳制裁ですよね。嘘をついたり、他人のうちのものを盗んだり、それが露見しますと、ほんとに農作業で鍛えた握りこぶしで鉄拳制裁。痛いです。こぶがでますから。ですから少々のことにはへこたれないで、がんばってこれたなとは思っていますけどね。
農作業の手伝い、結をむすんで代掻き
田圃をやる際に「代掻き」ってやりますよね。田圃を一回おこしまして、それに水を張って肥料を入れて、そこを馬に引かせて、農耕用の大きなマンガって機械がありまして、これで田の土を柔らかくするわけですよ。そのマンガを親父が押さえて、私が馬の鼻を竹ざおでリードしてやるんです。その「鼻取り」をやるのが、だいたい10歳前後から。馬の数が少ないので、お互いのうち同士で「結(ゆい)」をしあって、雨が降ろうが風が吹こうが、よその家までみんな順繰りにやる。報酬はゼロです。
土蔵と養蚕の町
私が生れて7か月半ぐらいで、志津川の町の中心部が焼けるような大火がありました。昭和12年5月6日ですね。火事で焼け、それから何回も津波があって、そのたびごとに町は総ざらいされますから、町内には文化財とか歴史的な建造物ってのはないんですよ。
ただその前まではね、志津川町にも土蔵が、私たち覚えている限りで、多い時で20棟から30棟くらいあったんですよ。なぜかっていうと、明治三十何年かな、ちょうどここにお蚕さんからとる生糸の製糸工場があったんです。旭製糸工場といいまして、宮城県では第2番目の株式会社組織で、そこで使われたボイラーはじめ製糸機械のほとんどは当時珍しくアメリカから輸入されていました。製造された生糸は、パリとか、ミラノ、シカゴの万博で常に金賞を取って、それがオクセンシ・キンカサンっていうブランド名で、それをここで作っとったんです。そこに使う繭を、年間通じてあまり湿気や空気の変動のないところに貯蔵しなければならない。それからそれでお金を儲けた方々が、いろんな貴重品を入れといて火からこれを守るんだということで、土蔵がけっこうあったんですよ。それがめぼしい文化財でした。
独自の発電 たくましい精神構造
この町で独自の配電をして電気を町民一般の方々に配電したのが、いまから100年前の明治45年(大正元年)なんです。旭製糸工場の蒸気ボイラーを回した際に残った蒸気でタービン回して発電をして、宮城県でも珍しかったって聞いてます。
だからそういう先進的なものの考え方と、少々のことにはへこたれないようなたくましい精神構造をもった人が多かったんじゃないんですかね。自分の親父見てて、「いやぁ、明治の人間ってのはすげぇがったなぁ」って、今でも思います。
入谷の歴史、砂金と蚕の物語
以前は志津川町単独でした。志津川町と戸倉村と入谷村とが合併しまして「志津川町」になった。
今から850年から700年くらい前、奥州藤原氏が全盛時代、入谷(いりや)の山の沢に砂金があった。だからいわゆるゴールドラッシュで、かなり豊かな生活を送ったらしいんです。いまの入谷地区は世帯数が1,200、300だと思うんですが、もうすでにいまから数百年前の藤原時代には、1,000軒以上の世帯があったというふうに言われています。でも、自然の資源っていうのはいつかは枯渇しますんで、それが取れなくなって人々はとたんに苦しみを味わうことになったんですね。それで江戸時代に入りましてから、入谷村の肝いりをやっとった山内甚兵衛さんの息子さんの甚之丞さんという人が、この窮状を見過ごすわけにはいかないから、福島へ行って養蚕の勉強をしてこようと何年間か修業しまして、地域の人たちみんなに教えた。それからというものは、入谷村は養蚕を生計の柱として一大産業に育てたっていうんです。
数年前亡くなりました私のおふくろの形見の品で、嫁さんに来たとき着てきた、うちの紋が入ってる紋付の着物があるんです。その紋付は、私のおばあちゃんが自分で蚕を育てて繭を取って、その繭から自分で糸を取って、自分で機を織って染め上げた紋付だそうです。
林材業の人生
昭和26年に中学校終わりまして、うちが貧しかったものですから、志津川高校の定時制課程に4年行き、昭和29年から昭和56年まで製材工場に勤めました。結婚したのは29歳です。
この辺、周囲は山ですから、戦前に植林した杉が育ち、戦後にこの山を伐採して。昭和28年ごろ、製材工場とか材木店とかというのがここに14軒ほどございまして、製材業ってのは一大産業だったんですよ。
そういうふうに勤めてからも、日の長いときですと仕事に出る前の朝仕事と仕事から帰った夕方、農業手伝って、それから土曜、日曜日とか休日とかには、朝から晩までうちの手伝い。でも働くってことは、全然苦になりませんでした。むしろただいるほうが退屈ですよ。
製材工場を辞めまして、それで木材の出荷ルートの関係で友達が横浜におりましてね、昭和57年から3年ほど横浜の材木会社でいろいろと販売の仕事をさせてもらってたんです。ですけど、だんだんと国内産の木材が外国産の木材に押されまして、わたしみたいに国内産の木材だけを相手にしてきた人間は、なかなかついていけなくなりましてね。子どもと家内とか両親を置いて単身赴任でいくわけですし、たまたま親父も弱ってきて農作業もむずかしくなってきたから、そこを50歳に退職して、60年に戻ってきました。
地元の鉄鋼業に就く
いまはタカノ鐵工ってところで嘱託みたいになって仕事してるんですが、その前に、その前身を仲間8人で出資しあいながら創業したんですけど、ここは田舎だもんですから、鉄骨加工工場作っても売り先をみつけるのに大変なんですよ。その後つぶれまして、そのつぶれた工場を、わたしも含めて従業員ぬきのままそっくりタカノ企業に引き取ってもらったんです。倒産した際に、親から譲られた田地田畑全部、手放しちまったんですよ。破産する際には、改めてきょうだいにみんなに頭を下げて回りました。
自慢できる仕事
うちの娘が「おとうさんの人生はほんとに波乱万丈で、ベストセラーになる」って言ったことありましてね。
わたしも長い間、鉄骨加工、鉄骨の建物の建築の仕事をやってきまして、いま子どもが成長した時期に「あれはお父さんが作った」って自慢できるわけですよ。いちばん末っ子の娘が、修学旅行かなんかで仙台へ行って、先生にでかい声で、「お父さんがここの鉄骨作ったんだんだ」というふうに話したそうなんです。そういうことを通してあの子供たちが親の姿を話せるっていうのは、やっぱり親として誇ってもいいのかな、この仕事やって間違いはなかったなって感じを今はしてますけどね。
地元の材料で家を建てる
ここは昔っから大工さんが多く「気仙大工」っていいまして、日本全国に出稼ぎで神社仏閣を作って歩いた宮大工だったんです。その流れがこの志津川にはあるんです。ただ大手住宅メーカーのせいで、仕事がなくて失業状態です。最近、県内の林業家のかたがたが、できれば地元の材料をつかって、復興するように家屋の新築をやってくれって、県を通じて職人組合の方にもお願いをしているようですので、地元の材料使って地元の大工さんによって作ることになれば一番いいと思うんです。
そうでないと地域が活性化しないわけです。今回、津波で流されたわたしのうちを建てるときの条件が、「すべて地元の材料を使ってくれ」でした。私は地元の材木屋さんといろいろお付き合いあるんで、そういうつながりも大事にしたいから。そうしましたら材料を発注すると同時くらいに、偶然、地元の材料を使った建築物に対しては県の補助金が出るって制度ができたんです。だからうちの建築はすべて地元の人にやってもらった建物で、いまでもちょっと珍しいって言われたんですけどね。まあ、そういわれても跡形もないもんだから、どうにもならないんですけど。
語り部ガイドの仕事につくきっかけ
いまから何年か前に、家内といっしょに車で越前の東尋坊にいった時、そこにお土産屋さんの小さなおばあちゃんがいろいろ案内してくれたんです。「おばあちゃん、かなり元気なんだけども、失礼ですけど何歳になられます?」って聞いたら、86歳っていいまして。「いやぁ、古希迎えたばっかりくらいにしか見えませんね」っていったら、「へぇ、じゃお茶いっぱい、ただでごちそうすっから」って。ただのお茶ですから、ただでごちそうされるわけですけどね、そういう冗談も平気で言う。それで「いや、びっくりしたなぁ、あのおばあちゃん。おれもな、歳とったら、ああいう年寄りになりたいもんだな」と家内と折に触れて話してました。
それから10年くらい経って、同級生の連中で古希のお祝いで花巻温泉に行ったとき、そこの新渡戸稲造の博物館で、わたしと同年代のかたに全部説明してもらった。なるほど、そういうのもあったんだ。何かそういう機会があったら率先して参加しようと思っとったところに、平成20年のデスティネーション・キャンペーン(JRグループ旅客6社と自治体、地元の観光事業者等が協働で実施する大型観光キャンペーン)の前の年、平成19年の後半にミニキャンペーンをやろうということになりまして、そのひとつのケースということで、ガイドの話が持ち上がったんです。志津川の観光協会と南三陸町の役場の産業振興課が音頭をとり、同好の志とか興味のある人を呼びかけまして、講習会を何回か開いて、独り立ちをしました。
これからの志津川を描く「津波ミュージアム」
最近TPPとか様々な問題ありますけど、一次産業の農業と漁業は、ここのものをここで消費する分については、本来そんなに問題がないと思うんですよ。これ以外はここに来たお客さんが買っていく。ということであれば、町の一次産業の活性化を図るためにどうすればいいのか、ということになりますよね。そうすると人が来なければだめなんですよ。
いま防災庁舎を津波のモニュメントに残そうということを聞いてます。あんなモニュメントを作って残すんだったら、むしろ「津波ミュージアム」を作って、そこに避難ビル等を志津川のシンボルモニュメントという形にしたほうが、もっといいんじゃないか。利用価値もあるし、人を集める要素も結構あるし。われわれには、そういうふうにして、形と言葉で、次の世代にこの気概を風化させないような義務があると思うんです。