自己紹介と家族構成
阿部章(あべあきら)です。昭和25年4月12日生まれです。今年で61です。4人兄弟の一番下です。志津川生まれで志津川から出たことがないんです。母親は私が中学の時ですか、父親は私が20半ばだったかな、病気で亡くなりました。ちょっと心臓が弱かったんで。姉がいて結婚するまでは、2人で暮らしていました。上の兄貴は仕事の関係で家を出ていて、応援ていうんですか、苦しいときにはよくしてもらってたりしました。家屋は全壊です。震災後に1度見に行ったんですけれど、それ以来行ってないですね。もう見るのも嫌で。土台も半分以上なくて、自分の家で確認したのも、玄関に貼ってあったタイルだけです。いまも避難所から最初に移動した仮設住宅に住んでいます。
震災当日―高い壁が流れてきた―
当日はちょっと体の調子が悪くて、家で休んでたんです。ハローワークに行って、お昼食べて、ゆっくりしようとしていたんですけれど、その時に地震になったんです。その2、3日前にも小さな地震があったもんで、それ以降は家族2人分のリュックサックみたいなものを枕元に置いて寝起きしてました。当日は、近くに住んでる一番上の姉を誘って避難しました。その姉は子供たちと離れて生活していて1人暮らしなんで、何かと心配の種です。地元に残っているのは私だけなんです。仕事も12月いっぱいで辞めて、ちょうど保険の手続きをやって休んでいるときにこういう風になってしまったんですね。
リュックサックだけを背負って、家の前に偶然にも停めていた車に乗って姉を乗せて、小さいときから避難している上山公園に避難しました。時間にすれば何分もないと思うんですけども、避難して車から出ると、第1波っていうのかな、波が上まで上がったんです。普通、波っていうのは横に広がりますよね。でも、第2波は壁のまま来て、その余波がずっと上山公園の奥のほうまで来て、子供が犠牲になったんです。あれはすごかった。そのまま高い壁が流れてきたという感じだった。土蔵造りの家がその公園の下にあったんですけれども、それが飛ばされるのを目の当たりに見てしまったんです。それで怖くなって、山越えして、一番大きい避難所の志津川公園の体育館のほうに避難したんです。私はだいたいそこに1カ月いたかな。その頃にまた、2次の集団避難というのが始まって、そのあと登米市のほうに移ったんです。避難して2週間くらいで仮設の抽選が始まって、私たちは運よく1回目で抽選に当たりました。だから、そこに実際にいたのは2週間くらいです。
仮設住宅に入って
仮設に入って、赤十字から届いたのか、最低限の生活に必要なもの、電化製品ならテレビ、冷蔵庫、エアコンは完備してますけど、一番困ったことは食べるものですね。食事は自分でということなので、それが大変だったんです。震災前ですと隣近所に小さい店でもあったんで不便はなかったんですけど、買い物が不便でした。車ですと30分から40分くらいかかるところに、だいたい1週間に1回、2回ずつ買い出しに行ってましたね。お金のほうは、兄弟とか親戚に見舞金をいただいて、それで何とかしのいでいました。それから町とか国からある程度義援金が出たんで。
あの日までは…―マラソン、卓球、旅行―
結婚する前からマラソンをちょっと始めていました。マラソンて言っても5キロや10キロなんですけど、たまにやっていて。息子が小学校2年生くらいになった頃から、地区のマラソン大会に出て、毎年、親子マラソンで走ってました。
息子は今、仙台で1人暮らししてますね。専門学校終わって、去年から調理師をして。まぁ、たぶんこっちには来ないっていうことですねぇ。最初は中華をやっていたんですけれど、中華と洋食のどっちにするか、まだ本人も決めかねているみたいですね。
震災前は1年に1回、春か秋に必ず1泊2泊とかで旅行に行ってました。蔵王は結婚して間もなく1回行ったのかな。あとは、この辺ですと、安芸温泉、あと鳴子温泉。ここから1時間ほどで行けますから。そういうとこは結構行きましたね。とにかく近場ですね。そんなに余裕もないですから。たまに兄貴のいる神奈川の海老名に行きます。行く時は新幹線ですね。海老名駅まで迎えに来てもらって。自分で運転できるのは県内で、県外は1回福島に行ったくらいですね。兄貴は横浜の市役所ではないけれど、公務員をやっていたと思います。定年前にもう辞めたんじゃなかったかな。兄貴は子供がいなかったから、2人で悠々自適にやっていると思います。
水産業とガソリンスタンドの仕事
地元の高校を卒業してから、同じ部落に水産関係の会社があったので、そこで5、6年働いたのかな。水産関係といっても、大きな船で沖のほうでマグロを獲るとか、そういったとこなんです。そこで事務って言うか、下回りみたいなことをしました。昔で私みたいな年代ですと消しゴムも何もないし、事務とか伝票整理って言っても、そろばんとか、よくて電卓ですからね。
水産会社では遠洋に出るもんで、そういうときに何人かの人で船に出入りして、準備をいろいろやったり。今の時期ですとサンマです。だいたい11月12月くらい。年が明けたらマグロですね。いろいろ装備を季節によって切り替えて。あとは食料の準備とか手配です。船は年中出てるんで、残った人はいろいろと忙しい作業をするわけです。
その後、社長の弟がやっているガソリンスタンドのほうに人がいないから、そっち手伝ってくれってことで移って。おんなじグループの会社だったんです。そこからずっと震災前まで仕事していたんです。
ただ、ガスは危ないので、そういった危険物を扱うための資格を取るのが、大変でしたね。学校を出てからちょっと時間が経ってますから。今はセルフになっていますけれども、ああいうのはすべて資格がいるんですね。私は2回目の試験で取ったんですけれども、やっぱりなかなか大変でした。何十年もいるとこではないし、だいたい多い所で8年でしたね、震災前には休んでいたんですけれども。腰があまり丈夫でなかったんで、調子悪いからって、1年くらい早く辞めたんかなぁ。結構力仕事も多いですからね。見るのとやるのでは全然違うし。冬場ですとね、結構寒くて大変なんですよ。慣れるまではなかなか大変でしたね。
仕事がある、家族がいるということの喜び
早い人ですと6月ごろから仕事を見つけて働きだしたんですね。私のほうは運よく、住んでる町役場のある社会福祉協会を通して仕事が見つかって、だいたい7月ごろから仕事が始まってますね。
私は運よく仕事が見つかりましたけれども、同じくらいの年代の人でも仮設にいる人は大変だって聞きますね。働きたくても、年代で新しい仕事がなくてね。同じ仮設の両サイドに、70過ぎのおじいさんおばあさんがいましてね。どっちも独り暮らしなんですが、大変だと思いますね。なんだかんだ言いながら、家族があって仕事があって生活している人はいいですよね。身近な家族が亡くならなかったのが、一番の救いですね。
現在は内職センターで
5月6月に雇用対策に応募して、一応7月から内職センターで働いております。元は入谷中学校という学校だったんですけれども、廃校になって校舎そのものは取り壊していなくて、そこの特別教室というんですか、そこで働いております。
私は内職センターの箸の仕事です。箸っていいますと、普通は塗箸とか割り箸とかありますね。それと繭細工と、復興ダコっていうオクトパスの文鎮づくり、その3つに分かれているんです。今のとこ、そこに入って一応塗箸をやっております。製品が何十膳とできて入ってくるんですけれども、それを検品ていうんですか、傷とかいろいろなところを検査して。良しであれば、シール貼って袋に一膳一膳入れていく。そういった仕事をやっております。あとはそれをまとめて段ボールに入れるんです。連絡が来た時に、すぐに発送できるように準備しておくという仕事ですね。女の人9人と、男が2人かな。オクトパスのほうは、臨時社員が7、8人いるのかな。タコは色を塗ったりだとか、タコを置く台を削ったりだとか結構仕事があるんですね。そういうところは、ボランティアで応援してもらったりするんで助かるんです。
これからはとにかく雇用だ
志津川は漁業の町ですからね、やっぱり水産関係が復活しないことにはだめなんじゃないかなと思いますね。水産が今はストップしている状態です。水産関係の会社をやってる人や、水産関係の仕事に就いてる人が多いんで、やっぱりそれが重いと思いますね。今は、ほんとになんでもいいから働く場所が必要です。雇用問題が一番です。私ぐらいか、その上の年代の人たちが、一番難しいんじゃないかと思いますね。ほんとに大変です。これからどうしたらいいもんかと思います。
志津川の水産をもう一度
まだまだ見つからない人が志津川だけで2、300いると聞きますし、私たちの部落でも32、3人亡くなった方からまだ3、4人見つかっていないですし。同級生でも3、4人犠牲になっています。これだけ時間も経ってますから、見つかれば家族としては諦めはつくんでしょうけどね。こんなに酷くなるとは思わなかった。瓦礫にも挟まってないから、ご遺体は海の中なんでしょうけどね。引き潮で持ってかれて。今は魚でも食べるようにはなったけど、前ほど海から獲れるものってのも、食べる気持ちにもなんないような感じなんですよね。仮設に入って食べるようになったのも、この頃です。ずっと沖で獲れるような鯖とか、今の時期は秋刀魚ですね。そういったのぐらいです。志津川では、時期的にはそろそろ鮑の季節なんですよ。貝類の場合はどうなってんのかなと思うんです。牡蠣、ホタテ、鮑、海苔もそこの海で養殖してましたんで。ちょっと今は好んでは食べれないですよね。たぶんみんなそういう気持ちじゃないのかなと思います。
ここを離れたくないですね―今までの暮らしはとても贅沢だった―
マイホームを建てたいとは思うんですけど、代替地をもらえるんだか借りるんだか、まだその辺も決まってないんです。子供が今のところそういう状況なので、2、3年様子を見て、離れることになるか。もしくは子供がそのうちこっちに戻ってくるってことになって、仕事があればね、こっちに家を建てたいとは思うんです。できないとは思いますね。もし、町営住宅とか建つんであればそっちに入ろうと。そういうのは、この仮設出ないとできないのはわかるんですけどね。子供がずっとそっちにいるっていうんであれば、そっちに行くしかないのかなとも思いますね。私としては南三陸町を離れたくはないけども、離れざるを得ないという感じですかね。残るとしても、住宅かなんかに入ると思いますね。だって、子供に、「お父さんとお母さんさそっち行くぞ」って言ったら、「来ないで来ないで」って言われちゃいますもんね。やっぱり、少々濡れていても窓ガラスがなくても、自分の家がいいですよね。今回のこういう生活の思いをすれば、やっぱり今までは贅沢だったのかなというふうに思いますよね。