自己紹介
阿部禎介(あべていすけ)、生年月日は昭和13年2月2日生まれ、73歳です。私と家内と92歳の母親と3人暮らしです。今は仮設のほうで3人で暮らしています。私と家内は息子と娘の多賀城にいたんだけどね、仙台のほうに二次避難して。母親は私の弟のいる大崎市にある温泉場の、避難所にしてもらった施設に行きました。で、8月の末から3人合流して仮設に入ってきました。震災が起きる前も3人で暮らしていました。
今は一応、民生児童委員をやっております。もう4年目ですね。震災前は南三陸町の志津川、旧清水小学校のすぐ近くに自宅がありました。海から約1kmですね。海岸線からほぼ平坦地なので。民家が立て込んでいたので海は見えなかったんだけども、今は何にもなくなったんで、すぐに海が見えます。
南三陸町で過ごした青年期 ―海、山、畑、そういう時代だったの―
今現在は統合されて学校もなくなったけれど、小規模校だったんで、全校生徒で43人しかいなかったのね。
ところが我々のころは、自分の同級生だけでも1クラスで47名くらいいたの。だから教室、机で後ろまでいっぱいだったんだよ。あのころはみんな兄弟が多かったんだよね。だって12人、1ダースの兄弟がざらにいたんだよ。兄弟6人は普通、1人なんて記憶にないね。
当時は中卒ですぐ、家庭を助けるために船に乗った仲間もいれば、私の場合は鹿島建設に出稼ぎだね。会社から派遣されてきて、そういう世話する人がいたのね。そういう人がね、1日いくらだけどこういうところがあるから行かないかって。でもたいていの人は、18歳になるまでは家の手伝いしてたね。農家が多かったから。そうだね、本当あのころは高校に進学できない人が多かったね。
青年学級ていう、たとえば小学校の先生たちが、その夜生徒が下校した後に週に1回くらい、進学できなかった我々のために勉強を教えてくれたの。南三陸町、旧志津川町ではそういう組織がほうぼうにあったの。で、それぞれ交流会をやってね、あれがまた楽しくてね。もう本とかそういうものに飢えてたからね。ただ、みんな集まってわいわい騒ぐだけなんだけど。でも、ちゃんとそろばん教えてもらったりね。
それ以外はうちの仕事をしてたね。漁業やってる仲間は、みんな家業の手伝いなんだ。海出たり、山行ったり、畑耕したり、そういう時代だったの。あとは、食べ物だけは農家やってたからあったんだけどね。もういつも小遣いとかには不自由してた。山行ってね、自分で薪を切って、それを買いに来る業者屋さんがいるのね。2mとか1m くらいかな、それを木で囲ってロープ張ってそれにいっぱい薪重ねて、それを置けば、業者さんが買いに来てくれる。微々たるお金なんだけどね、それを小遣いにして仲間との付き合いに使ったり、たまにみんなで誘い合って映画観に行ったりしたね。映画は片道1時間くらいだけども、志津川にあったの。やっぱり月に1回くらいね、なんか面白そうなのみんなで誘い合って、男女も夜道ワイワイしゃべりながら。同級生、先輩とかね、多いときは20人くらいでね。ご飯とか、買い食い、そんなものはできなかった。だから映画観てだべって歩く。映画は楽しみだったね。今は映画なんて忘れたわ。テレビとかDVD見られっからね。
出稼ぎ ―常にうちのことは案じてたね、長男だし―
18過ぎてから2年くらいかなぁ、出稼ぎして、うちにも仕送りして。20歳くらいまでかなぁ。その頃、もう反抗期になってきて、親父っていうのは軍人あがりで、それから過去に役場の職員もしてた。その親父が厳しくって、反発して、とにかく出ようと思って。「こんな生活はもう先の見通しが暗いしね、百姓はやだ」って思って出稼ぎに出た。だからかれこれ7年くらいうちに帰って来なかったね。
最初は千葉県の海岸地帯だなぁ、あそこの定置網に応募して、岩手県の仲間と一緒に行った。それでね、そこで数ヵ月過ごしたの。その後は、今度は叔母のつてを頼って、横浜に出たの。いとこもいたし、なんか俺にできる仕事ないかなって言ったら、ちょうど義理の叔父さんって方がちょうど三菱系の会社にいたのね。そしたら、「俺んとこに来てみるか」っていうから、一応面接受けて、そこでいろんな技術を習得して。もう夜学にも通わせられたのね。我々みたいのに夜学教えるところがあってね。初めはまじめに通ってたんだけどね。そこ3年通えば、一応定時制高校みたいに、そういう資格がもらえたのね。だから何とかずるして休んだり、休みは多かったけど、一応資格だけはもらったの。
そうしている間も、常にうちのことは案じてたね。長男だし。弟や妹はどうしてっかなーって。一番下の妹は私と17歳年が違うの。俺がうちいなくなったころに、また一番下の末っ子が生まれてんの。それで6人目。3歳くらいか、いくらくらいだろうな。5、6歳になってたのかな。一回家帰ったらよその人だと思ってね。「あの人いつまで泊まってるの」って、よその人だと思ってね、自分の兄貴なのに。今も時々笑い話で言うんだけど、そんなことがあったの。
横浜にまだいられたんだけど、仕事中に怪我したんだよね。怪我して、しばらく入院している間に、いろいろ自分も考えたんだけど。親父がいとこのおじさんを頼んで迎えに来たの。うちに連れ戻してくれって。それで、やっぱりうちも恋しくなってきたから、親父の言うこと聞いて帰ってきたの。
漁船の仕事―外国も見られっかなと思って、それが始まりだったね―
帰って来てみたら、やはり家計が裕福でないようだし、手っ取り早く家計を助けんにはその頃は漁船しかないと思ったのね。その漁船てのは、もっとも嫌いだったの。遭難してるでしょ。漁船に乗って、20歳の同級生の親友3人がおんなじ船で遭難して亡くなってんの。そういうのも、間近に体験してっから。でも、しょうがないなぁ。手っ取り早く家計を助けんのは、これしかないから。だから同級生に頼んで、俺を船に乗せてくれって。
船には漁労長っていう一番偉い人がいるでしょ。そん時は25歳だから、お前、その年で乗って何になれんのって。つまりは、もう遅いってことね。とにかく頑張るから乗せてくださいって。そしたらそれがいきなり1年航海、フィジーに船団で行く船だったの。なんか外国も見られっかなと思って、それが始まりだったね。あと船の資格取るには3年間の乗船履歴が必要だった。これがないと国家試験を受けらんないの。だから3年間は下積みで、いろんな勉強して、独学だね。あとは機関部員の経験を積んで、それで3年の乗船経歴を付けた。国家試験に臨んで。国家試験は、どんどんどんどん上があるからね。だからそれで最初は中間くらいので受けたんですよ。それはもう受かってね。最高幹部にいかんでも中間くらいのね、給料も上がるし。でもこれで満足はできないなーってさらに上を目指した。
そして、「とにかく免許は取ったと、次は結婚してうち建てよう。もしくはうち建てて結婚しよう」と思って。その目標を立てたのね。まぁ目標だけは立派だけど。そしたらもう、全部実現したからね。我々の生活だと満55歳から年金がもらえるわけ。10年以上勤続すると、退職金が満額なんです。大した額じゃないんだけどね、でも100%出るの。だから、それも目指して頑張って。円満退職してね。
退職後、2、3ヵ月好きなことやったかなぁ。釣りしたり、もう54で退職したから年金もらうには1年早いし。そんなこんなしてると、近くの船の修理をしている鉄鋼場に、うちに来てくれないかって言われて、2、3ヵ月勤めてたかな。そしたら、前に自分が乗ってた船がまた沖に来てるでしょ。そしたらオーストラリアから私の代わりに行った機関長が体調崩して帰国することになったから、急きょ来てくれないかって、それで飛行機で行きました。それは臨時で行ってきて、今度こそ退職だよ。北極に近いほうに行ったこともあってね、オーロラ見たりね。だから赤道も通ったし、はじっこからはじまで行った。楽しいっていったら楽しかったね。
町のために―もともと生まれ育った町だしね―
船辞めて2、3年後かな、行政区長やってくれって言われて、それも7、8年やったかな。非常勤公務員で、忙しかったね。自分みたいな人間でも信頼されてんだから、それに応えられるように。もともと生まれ育った町だしね。そしたら今度は民生委員やってくれって。厚労省からの指示だからね。まぁ人選するのは南三陸町だけどね。厚労大臣から辞令もらうの。あとは県知事と、町長と。仕事がたくさんあるの。国勢調査もやってます。本当、自分の時間はあんまりない。なんかね、自分っていうのは、正義派っていうのかな、悪く言えば頑固なの。絶対、人に譲れないタイプなの。ただ、モットーにしてんのは、自分にできない約束はしない。あとそして、70過ぎて民生委員やるようになって、やっぱり相手の立場っていうの、相手の目線で考えて話をしないとなって。相手の立場をより多く理解してやろうって。
とにかくみんな力貸しあって、声かけ合って、将来の不安がないように、行政がもっとがんばってくれないとね。我々だって限界あるからね。ただ、仮設に来てみんな表情が明るくなったなって。毎日、朝起きればすぐ声掛けられるでしょ、固まってきてるから。その中には、幸い震災から逃れたとこに住んでる高齢者もいるわけね。そういうところは定期的に車で訪問して、民生委員だからね。まぁ生きがいだね。今の任期あと2年残ってるのね、まるまる2年。だからそれが終わったら退任しましょ。
祭り―もっかい太鼓打ちたいな―
本当に地域が一体になって楽しめんのは祭りだったの。だから達者なうちにあの太鼓の音色とか打ち囃子とかの賑やかさ、もう一回ね。お祭りを最後にやったのはもう5年前くらいになるね。震災がなければそろそろやる頃なんだけどね。ところが、小学校が統合されてバスで送迎になって、地元の小学校にいなくなったでしょ。だから集めて稽古すんのも大変になってきたの。前は体育館借りてそこで稽古したんだけど、そういう子どもたちも少なくなってきたからね。でもとにかく、高齢者とか地域の人が、祭りはいつやるんだって催促してくるからさ。とにかく先に立ってやんなくちゃなんないから。もっかい太鼓打ちたいな。だから、集団移転とかね、高台に移んのとか決まったら、その時点で若い人に声かけして一回だけ祭り開きたいな。子供たちの喜ぶ姿ね。お化粧してさ。ちゃんと衣装も着せて。お祭りの振袖、タスキ着せて。頭に鈴つけて、太鼓ずらーっと、小太鼓、大太鼓があってさ。大太鼓は小学校高学年。子供神輿がまた面白いんだよね。化粧してお姫になる子もいれば、すんごいお祭りなの。準備にびっちり1ヵ月かかる。地域の人々全員に役割分担があって、花作りとか、みんな手作りだよ。これは歴史古いんだよね。俺たちがもう子どものころからだよ。みんな期待してると思うな。
復興 ―ふるさとってものを、残していかないと―
早くみんなの明るい顔を見たいね。兆しだけでも見たいね。ああ今度はここに住むんだって。そういう場所が早く決まって欲しいね。一応仮設住宅は2年って決まってるでしょ。行政も頑張ってるんだけど、うちの自治体でも若手がいろいろ土地交渉してる。無償で譲ってくれる地主さん探してたり、希望はあるみたい。みんなの力は、本当にすごいってば。
この土地からは出れないね。もう愛着なの。この土地がなくなったらって、考えたくないもんね。
私はね、そんなにお金があるわけではないけどね、娘も息子もどっちも同居ってのは無理なのね。お互い、今回4ヵ月半お世話になってきたけど、みんなやっぱり我々に対して神経使ったのね。我々もまた子どもに対しても。だから集合住宅とかね。家賃安くしてって、そういうものがあればそういうとこに入って、なるだけ、地域の人の近くにいたいな。ここからは離れたくないな。そして、やっぱりそういう形で故郷っていうのは孫や子どもに残すべきもんなのね。だからやっぱり孫たちのことを考えると、故郷ってものを、地域の名前を、ちゃんと残していかないと、と考えてます。
だから我々が消滅した100年後でもこの教訓を無駄にしないように、語りついでってもらいたい。さらに、地震情報だってさらに密度増してって、正確に出るようになるはずだから。みんな個人個人でもパワー持ってるからね。負けん気ね、人に負けるもんかって。振り返ればなんの誇れるもののない人生だったけれど、人間100年も生きられないもの。少しでも人々の役に立ちたいと思っています。