志津川で一番古い旅館の世話好き女将

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季節のものはちゃんとその時にやらないとね。
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Tokyo Foudation
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38.6758411, 141.4501125
Location(text)
宮城県南三陸町志津川地区
Latitude
38.6758411
Longitude
141.4501125
Location
38.6758411,141.4501125
Media Creator Username
Interviewee: 阿部節子さん, Interviewer: 安藤寿康
Language
Japanese
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Japanese Title
志津川で一番古い旅館の世話好き女将
Japanese Description

150年続いた旅館の女将として

阿部節子(あべせつこ)です。昭和18年3月3日、ひな祭り生まれの68歳です。4人兄弟の3番目で、上が姉、兄、あと私、妹。2つずつ違います。

父は町会議員を2期やって、母親と兄貴がうちで食堂をやってました。父親が病気になって、8年間母が介護してました。父親が昭和62年に78で、母親が平成8年に77で私と同じに心臓が悪くて心臓弁膜症で亡くなりました。兄は肝臓がんでもう8年くらい前亡くなっちゃった。姉はうちの実家の近くにいます。妹は平成元年に42歳で交通事故で亡くなったの。

仕事はお父さん(夫)と娘とあたしと3人で、五日町の八幡川のすぐそばで阿部旅館っていう旅館をしてたんです。昔は阿部屋っていってね、江戸末期、明治2年からもう150年くらい続いて、うちのお父さんで6代です。子どもは女の子2人です。上の子が47ですね。結婚しないでうちにいて、旅館の家業やってます。下が4つ違いだから43。仙台の方へ勤めてます。

去年の1月まで、おばあちゃんを8年間介護しながら暮らしてきました。3年くらい前からは目が見えなくなって、去年の1月8日に95歳で亡くなって、丸1年過ぎてからこの震災に遭ったんですね。うん、今考えると、まずそういう人連れて逃げるってことはなかなか難しかったです。

樺太から引き揚げて瀬峰で育った

私は昭和23年に5歳のとき樺太から引き揚げてきたんです。昔は樺太っていっても日本の領土で、父親が営林署関係で向こうへ行ってた。本籍は知床になってますね。覚えてるのは、一番最初は飛行機がぶんぶん飛んでたのとか、雪の中を銭湯に行って窓に真っ白く雪があるっていうことです。あと引き揚げるとき、船の中で酔った覚えがあります。あと子どもの頃、馬車に轢かれました。母親に、あれは夢だったのかって聞いたら、馬車に轢かれたんだって言ってました。そういう4つかそこらの記憶があるの。夢みたくね…。

そして栗原郡瀬峰で育ったんです。ふつうの小学校、中学校でしたね。そこで暮らしてたんです。

知り合いの仲人で旅館に嫁ぐ

私は21歳で嫁になって来たんです。お見合い結婚です。知り合いのお仲人さんっていうのは、この間亡くなったおばあちゃんの知り合いで、おばあちゃんとおじいちゃんを仲人して、そして2代続けて子どもにも仲人してくれたんですよ。うちのおばあちゃんの近くの人だからね。農家はやりたいとは思わなかったです。やっぱりお客さんを見て暮らしてきてたから、抵抗なく旅館に入りました。

お父さんは割と優しい、あんまり荒い人でないです。人の話もよく聞いて。お客さんとの接客もちゃんとする人。お客さん相手するのは、うちではお父さんです。

世話好きの両親を見て育ったから

結婚当時は仕事が慣れないからね。生活様式が違ったりするから、うちに慣れるってことは大変だったね。私の実家は、父親が引き揚げてから役場職員だったもんで、瀬峰の病院で事務長をしていました。うちも病院のすぐ下のところにあった。当時は、病院ってのは今みたく給食とかなくて、患者さんが付き添いでついてて、自分で七輪でごはん炊いて食べたりしてたもんでね。だから何か雑貨屋さんはないかっていうことで、雑貨屋をやって、そのうちに食堂やって、そして私も高校卒業してからうちの手伝いしてね。

うちの父も母も、人のためって、困っている人を見てられない方だから手助けするの。それを見て育っているから、お世話好きなんだよね。父も病院に勤めていて、いろいろ患者さんの悩みなんかを聞いてたりしていた人だからね。だから、割と人の世話する方だったよね。当時は完全看護でないもんだから、病院に付き添いに来た人を呼んでお風呂に入れたりね、子どもたちいれば送ってあげたり子守して手伝ったり、手助けしたりしてたから、そういうの見て私らも暮らしてきたから、それは当たり前だったね。だから、人の世話っていうのは、仕事にもやっぱり通じてますよ。おせっかいな所もあるもんだ。

仕事は苦にならないね

だから、様式は違うけど、旅館に入ってもお客さんに料理作って出すってのはあんまり苦になんないのね。旅館の仕事の大変さっていうのは、いま、あんまり感じないんだよねぇ。こんな性格だから、人とお話しするのは苦にならないんですよ。畳の上の仕事だから、布団敷いたなんだって、そういうのは大変ですけどね、あと日常的なことでは、そんなに大変っていうことはないね。

料理はうちのお父さんとか、嫁に来たあたりは元気だったからおばあちゃんがやったりね。そのころお舅さんのまた上の「おっびさん」もいたしね、娘が来るようになってから、献立とか考えるのは娘が今ほとんどやってました。娘は高校を卒業して、調理師学校に1年行って、それから仙台の奥座敷の秋保(あきう)のホテルニュー水戸屋に入って、接客の方じゃなくて、調理場の方に3年間働いて、あとうちへ入った。

部屋数として、一応お客さんの泊まるとこは10部屋。その他にお風呂とかいろいろこまい部屋はありましたけどね。お掃除とかはみんなで分担で仕事するんです。うちでは、お父さんがお客さんのことは全部やる。私が洗濯、娘はお料理を作ったりお風呂洗ったりと分担して、夕方までやればいいから気楽にやれたんですね。

お客さんとのふれあい

夏とかお客さんが大勢で忙しい時は、アルバイトを雇ってたんです。忙しいのは夏ですね。祭りの辺りとかね。あと土日になると釣りの人たちも来てましたね。うちでは割と毎月、定期的に来る常連さんが多いんです。それから冬は冬で、お客さん来ないってわけでなくて、定期的にお客さんが毎月、お店とか仕事に来ます。

長いお休みを取れる時ってないですね。お客さんないから明日出かけようねっと時に限って、お客さんやお得意さんが来たりしてね。みんなで閉めてっていうのは、あんまりないね。

やっぱりお客さんが、ずっと長く来てるとね、体悪くしたとか、亡くなったとか、体悪いけどどうしてきたとか、気持ち的にどうしてるかなって感じはするね。長く泊まってると、私らもやっぱりお客様の呼吸がわかってきてるから、あたりさわらないね。お客さんも部屋でゆっくりしたいなっていったら外に行って、割と気さくな人だと、「下へ来てお茶飲まんと」というふうにしてね。

変なお客さんってば、最初から「お金ないから」って言って来てね、「奥さんに逃げられたから、うーん、お金ない」って訪ねてきた。「ああいいよ、あんた泊まって帰れ」っていったら、後からちゃんとお礼しながらきた。そういう人もいる。あんまり変な人っていうのはいませんね。訪ね人ってのはあるけど、そういう人はうちには泊まんないね。表通りだし警察も近いしから、悪いことする人は来ない。

私が来た当時、30年代は、ハンターが多かったんですよ。雉撃ちだね。11月くらいに、3、4日くらい。長い人は1週間くらい。一人で来る人もあるけど、案内人をこっちの町の人をつかって、犬とね。鉄砲撃ちに行くのが、朝早いから、4時頃に暗いうちから山に出ていくんだ。鉄砲撃ちに来る人は、どっかの社長とかそれなりの余裕のある人だから、当時は車で来ていたんです。

お客様にお出しするのは活きのいいお魚が主です。私が嫁に来た辺りは、お魚っていうのは、炉辺で焼いてたんです。2階まで天井のない板丸出しの、丈も何ぼか低い、今みたいなのではない。だから炉辺で魚焼いて食べさせたりすると喜んでね。うちではまだ炭があったんですよ。買うときは馬車ひとつ、まとめて買う。でも下の子生まれてから手がなくなってきて危ないからって、今までの炉はふさいで、昭和48年にうちも新しく直したの。直してから35年くらいかな、今はガスです。

節に作る自家製の味噌や梅干し

季節のものはちゃんとその時にやらないとね。4月になると自家製のお味噌なんかも一樽4斗、樽の大きいのを3つ置いて、いつも毎年作るんです。麹は麹屋さんから買って、うちで合わせて。豆と麹は分量同じでやる。豆1斗の時は麹も1斗。いつもそうやって作ってた。豆だけは煮てもらって、一年ずつ自分のうちで麹とか塩合わせて、寝かせる。3年味噌っていって、3年目に手をつけるの。3年置くっていうと色つくから。赤みその風味ね。だから味噌も美味しいですよ、うちのは。

あと自家製のものは、梅。梅干しも「節」で作らなきゃならないからね。梅ならば7月8月に塩漬けとか土用干ししたりね。あと春の6月頃になると、志津川は山だからフキは山に採りに行くんです。茹でで皮剥いて、百葉ぐらいきっちり重しして塩漬けするんです。

古い建物を建て替えて

私が来た、だいたい昭和40年あたりは、旅館っていうのは10軒くらいあったんでないかしら。旅館組合は歌津もいれて10軒くらいありました。震災の時は、旅館そのものはホテル1軒と旅館が3軒しかなかった。あとは後継者がいないとか、年とったとか、働く人がいないとかで、みんな廃業してました。私ももう体調悪いから、旅館業は廃業にしました。娘も調理師免許あるから、老人ホームの炊事の方に採用になって勤めてます。だから誰もやる人いないね、もう歳だもの。

旅館としてはうちが一番古かったね。あとはうちみたいに古くはないけど、割烹旅館が建物古いまんまの、終戦の辺りの昭和に入ってからの旅館があったくらいではないかしらね。明治からの建物っていうのは残ってないみたいだね。うちでは48年まで昔の建物で、建物は時代劇に出てくるような古いうちで、玄関入ってくると土間があって、廊下とかは天井は低い建物でね。鴬張りですよ。そして両脇は障子の部屋。

昔は神棚でもなんでも大きかったんだけど、今そういうの流行らないからって、39年に建て替えたときは普通の住宅と同じような現代的な旅館に新築で直してね。個室にしたのは7部屋。6畳と8畳ですね。全部、一回ドアを開けて、中に入って襖を開けて中に入る。あと玄関、炉辺などを48年に直したの。その時はつなぎにして、大部屋にして仕切って、何かの時には開けるようにした。それは3部屋だけ。そこもドア開けて中に入って襖をこう開ける。そこは大きな宴会の時とか、あと家族多い時に、一緒でいいっていわれればそこでね。夏なんかは、大勢子どもたちなんか来ると、そこを開けて。家族みんなで泊まるから、大きい部屋が良いっていって。

お客さんの部屋の間取りはみな違いますね。8畳、あと8畳の他に2畳の畳の部屋があったり、床の間付けたり。掛け軸っていうのは壊れたりするから、うちでは額に入った文化刺繍(解きほぐしたリリヤンを専用の針で刺す刺繍)を飾ってた。バラの絵とか富士山の絵を刺繍したやつです。

地震当日―町は一気に波に飲まれた

3月11日はうちにいました。私、つるし飾りをやってるもんだから、地震の時はミシンの前にいて縫い物してたのね。その日、お父さんが午後から佐沼の方へ用事あって出かけたのね。いつもは私もうちの中にいるのもなんだからって、車に乗って一緒に行くんだけどね。その日は黙ってお父さんが行くのを見送った。うちでは3月9日がおじいちゃんの立ち日、亡くなった日だったので、それまでちょっと忙しくてお供えできなかったから、11日に仏さんになにかあげようかって、おじいさんおもち好きだから、おもちをついてあげてた。お昼にうちの人たちで食べて、それでお父さんは出かけた。仏壇にはおもちとかお線香あげて、うちに私が残ってたんですよ。そしたらあの地震で、すごい揺れだから、ただごとではないなと思ってすぐ茶の間に出た。うちにいた犬はもうワンワン怖がっていて、それを抱っこして、あと娘は2階にいて、揺れがすごいから下になかなか降りてこられない。2回目の揺れが収まって降りてきて、そしたら玄関の戸が外れて、6メーターの津波が来るっていうのをアナウンスで聞いた時は、もううちの玄関の戸のガラスも倒れていた。すぐ靴を履いて車に乗せて、見たら外の斜め向かいの方にひとり暮らしのおばあちゃんが立ってたから呼んできて、車で「ほら、乗っていくべ、一緒に逃げて」って乗せて、娘と3人で志津川小学校へ逃げたの。

町が飲まれていくのを小学校から見ました。すごい波だ。土埃っていうんだか真っ黄色のだか黒いんだか、もうすごいの。うん、町の中が一気に飲まれました。水が来るのは早いですよ。見てる間に水来たからね。あらあら、あらあらだもんね。音もすごいし。ガス爆発するような音したりね。うちは流れるっていうより、水でもう飲み込まれたの。もう、瓦礫がいっぱいだから、どれが自分のうちだかわかんないの。そのうちに、雪が降ってきたの。今まで波が見えてたのが見えなくなるくらい。暗くて白く、雪で町が見えなくなって。

着物拾い

その後に、学校のすぐそばに、友達が自分のうちでアパート持ってるから、やっとそこへ一晩泊めてもらって、次の日は、うちのお父さんが佐沼に用事があって出かけて、夜に中学校まで避難してそこに暮らして、10日くらいしてから着物拾いしたんです。瓦礫から着物を探して歩いて。私いっぱい着物持ってたから、ひとつでも着物ないかなって思って。いろんな着物が流れてきたから、それを川で洗って、それでいまそれにつるし飾りつけて。みんな大事にしてたせっかくの着物だから、お守りにして持って、いま小さな姫だるまなどを作っている。何かある時のために。

流された物置の中に見つかったお膳類

うちの物置に御膳とかスリッパとかを、使わないで予備に取っておいたの。そのとき使ってるもののほかに、新しいお客さん来たら、すぐ取り替えられるように。ブロックの物置に新しい衣装ケースに入れたまんま、2キロくらい流されてね。それが、中身があんまり汚れないで見つかったの。50年も前の木製のお膳百膳、お椀も壊れないでそのまま残ってきたの。御膳は中で足がもげてた。でも塗りはちゃんとしてる。あとスリッパも50足くらい、買ったまんま。防火用に鉄の扉してたから浮かんだんだね。

うちのおじいちゃんが電力会社へ勤めていたから、役場から「電力会社から来た書類が見つかった」って、電話があった。「国で壊すから、中のものを見て、いいものを取りなさい」って言われて、見に行ったら、御膳とかお椀、刀2振り、掛け軸なんかがあった。掛け軸は汚れてたけどね、刀も錆びていたけど残っているね。うちのお父さんは、「やめろ」っていったけどね、でも持っていきましたよ、あはは。

やっぱり栄えてほしい

震災前からどの町行っても、石巻行っても佐沼に行っても、シャッター通りになってるしね。こうやって見ると、震災になってから若い人が見えないの。子どもたちっていっても、本当に小さい子くらいでね。結局、加工屋さんでも何でも、働いてる所がだめになったでしょ。今いくらか仕事やってる会社も、やっぱ人数が少ない、働き口がないと思うの。でね、遊ぶ所がないからいなくなるの。いまのところは楽しい所がないからね。やっぱり復興してもらいたいよね。栄えてもらいたいやね。やっぱりここは水産業で賑やかな街なんで。

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