プロフィール
昭和27年11月25日生まれです。年齢は間もなく59歳ってとこでしょうかね。家族は皆、健在で、女房と息子とその子供と暮らしてます。孫が小学1年生で、今日は梅島の学習発表会ってところで、午前中を過ごしてきたところです。本来ですとこの町の小学校ですけれども、避難したのが合併前の隣町ですので、小学校はそっちの方にお世話になってるところですね。特別援護の学級ってことで、簡単に右から左へは移れない状況下ですので、しばらくはそっちでお世話になろうかなと思ってます。職業はカキ漁をやってました。
志津川のカキは衛生的で有名
ここの湾内は穏やかなんですよ。それで、貝とかにしてもゴワゴワっていう堅いものではなくて、柔らかさもあって、なおかつ甘さがあるんですよ。海藻にしても貝にしても。それに大きい河川が入ってないですから、海の水自体は結構きれいで、この辺になってくると、貝毒っていうのが発生しないんですよ。石巻地区までは貝毒の事例が報告されて、出荷停止処分を受けるんですけれども、志津川はそういうのが現れたことがないんですよね。
そういうところに目を付けたのか、志津川産のカキは宮城生協が買ってくれてたんです。生協の店頭に生鮮食品が並ぶというのは、色んな検査をクリアしないといけないみたいで、ハードルが結構高いんですよね。だから志津川のカキは、ブランドものになってる。例えば我々が1トン出荷したとすると、1.1トンくらいの量が関東圏で出回ってたということで、志津川産にどっか別の産地のやつも交えて、志津川産っていう名前を使ってたみたいなんだねぇ。それくらい、モテた時期はあったんです。ただここ3、4年に関しては、密植の影響で身があまり良くはなかったんですけど、衛生面できちんとした対応をしたカキだということで、結構モテはしてたんですよね。
カキに含まれる亜鉛分と鉄分だかなんだかの比率がね、いろんな栄養素を一番いい割合で体内に取り入れることができるんですって。ですから、季節的にですけど、風邪を引いたときなんかカキはおすすめだね。ネギも入れてカキも雑炊にして入れると、すごく体あったまるしね。意外と生で食べる形での流通はしてないと思うんだねぇ。加熱で食べてくださいっていう指導をしてると思うんです。衛生に関しては、宮城県は県条例が厳しく、高いハードルを設けてるんですよ。それを我々も課せられまして、生産者共通の意識として、気を付けながら作ってきたとこなんです。まぁ、それら全て、海の施設も船も無くしました。俺自身船も無くしましたしねぇ。あと、陸上で共同で使ってたカキの処理場、そこを無くしてしまいましたしね。
カキの養殖の仕方は、種を取って、その後ロープに挟み込んで、それを浮き球っていういかだに追加します。今ね、このホテル観洋のロビーから海を眺めた時に、黒い球が20本くらいバーッと1列に並んでるのが見えるけど、それがカキのいかだで、それの下に挟み込んだカキが下がってるわけです。それが大きくなっていく。
漁師になることに対する思いの変化
カキ養殖の仕事は俺のおじいさんの代から始まったんです。俺で3代目。上2人が女で、3番目の男でしたのでね、俺、可愛がられたんだべねー。3番目の家督だっていうことで、周りも子供いないとこでしたんで、みんなに可愛がられて、「家督だ家督だ」って、小さいうちから言われてたんだね。で、「あぁ、自分がこのうちを継がなきゃならないのかな」って自然に思ったんでしょうか。中学校に入ったあたりから、朝の手伝いなんかはしてました。海までは行かないですけども、船からあげて、カキの処理場に運び込むっていう作業の手伝いはしてたんです。若い時分からそうやってみてっと、俺の場合は、「そのままうちの仕事はやんだなー」って思ってたね。海の仕事はご存じのように合羽着て、結構頭から泥かぶったりとかってするのがありますからね、「違うことやりたいな」って、ホワイトカラーに憧れてたね。でも、高校に入るあたりまではろくに勉強もしないで、のんびり過ごしててね、「どうせこの仕事継がなきゃならねぇのかなー」って思ってたんだ。ところが高校卒業の段に俺より成績の悪いやつが、どこの学校さ行くって話になってきたときに、「あー俺も大学行きてぇなー」って思って、「行かせてけろ」って親父さ言ったんだ。そしたら、即座に「だめだ」って言ったのね。3番目の息子だし親も年取ってきたでしょうし、俺が高校終わったら稼ぐ、うちで働くもんだと思ってたから。
分別のない年齢ですよ、俺はだめだって言われると逆に反発をしてねー、どんなことがあってもいいから行くって決めたんです。そしていざとなったら親父も折れて、「そんなに行きたきゃ行けや」ってなった時に、初めて俺、「じゃあ行かなくていいや」って思ったのね。今となっては、「行ってればまた違う世界があっただろうな」って思うけどね。「行っていい」って言われてあきらめがついたんだね。
そんで、「大学は行かないから、1年だけ仙台さ遊びにやらしてくれ」っていうことで、簿記とかやりたいなと思ってね、1年だけうちを離れたんですけど、それ以降は、ずっと自分のうちで仕事をしてましたんでね、19から今までだから、40年間?、この仕事やってきたっていうことで。
家は全壊
家はもうきれいさっぱり何も残ってないですね。この前まで、土台と基礎とフローリングが残ってたんですけども、それも取り外されてしまって、今はちょっと海の潮が上がってくるともう、我が家の周辺は水没状態ですね。海岸線から200、300mってところでしょうかね、昔の魚市場の近くなんです。わが行政地区は全てそういう感じでしょうかね。土地自体が削られて、えぐられて、海と化してる場所もあるんです。それから比べればまだ、ここが我が家だっていう場所はしっかりしてるから、それだけでもいいのかなって思ったんですけど。
「あっぺとっぺ沖の須賀」の創設
震災当初は、「もう海いいや」って思ったのね。被災してすぐに避難したのが、女房の姉のうちだもんで、そこで1ヵ月過ごして。避難した先が山間のところでしたので、避難してすぐ、梅の花が咲いてきたしね。あと、スイセンとか桜も咲いて、何も咲いてかにも咲いてって、まぁその花のきれいなことね。そこの一軒家をお借りしたのが1ヵ月後くらいでしょうかね。それであとは、2年くらい前から空き家になってたってとこをお借りして、今住んでんです。川は流れてるし、庭の前から湧水も出てるんですよ。震災後は水のない時期だったもんで、その湧水を汲んで暮らしてたね。ですから、こんな生活の方がいいなって、ちらっと思ったりはしたけどね。
そんなこんなして過ごしてるうちに、たまたまって言ったら失礼ですけど、海に流れ込んだ瓦礫を撤去するっていう作業が、5月の連休明けあたりから仕事っていう形で入ってきたんですよね。そこで、もともと志津川の方にいた90世帯のうち、漁師をやっていた15、6人のメンバーが一緒に瓦礫撤去の作業に入ってきて、そこで集まってきたときに、ようやく皆も仲間内で安心感の中で話ができたんではないでしょうかね。笑い声も出てきて、「あー、俺しばらくぶりに笑った」っていう人もいましたんでね。その瓦礫の作業が入ってくる前は、それぞれ一人ひとり悶々としてたんでしょうね。今住んでるその地域っていうのは、1軒のうちも残らずに全滅ですから、その集まったメンバーは皆家がない。だからこれは皆で助け合っていくかっていう一つの運命共同体みたいな雰囲気になったんでしょうね。わかめ養殖屋さん、ホタテ養殖やさん、あと、定置網持ってる人、その15人で皆でやりましょうということでスタートしたのが6月くらいからでしたね。「じゃぁやるかっ。めげずにもう一回海の仕事に挑戦しましょう」っていう気にはなりましたね。
チームのネーミングは、「あっぺとっぺ沖の須賀」。あっぺとっぺっていうのは、ちぐはぐって意味です。漁師連中の集まりとしては、和をもって今は進んでますんで、仕事に関しては、そういう方向性は見えてきました。作業に出てくるメンバーも結構和気藹々としてやってる最中です。日々、結構賑やかな雰囲気で、今は何とか海を再起させたいなと思ってて、とりあえず震災前の場所を復旧させようということで、10人のプロジェクトを組んで、GPSっていう装置をつけながら、「ここは前はこうだったよね」って2、3日かけて区分けをして行って、陸上ですと白線でラインを引いたりとかね。
もう一つの仕事だったウニ商店
我が家の通りはお土産屋さんとか、魚屋さんや肉屋さんが多かったんです。短い通りだったんですけれども、おさかな通りって称してて、年に3度4度のイベントをやるんですね。寒ダラ祭りとか、その時期に獲れる魚の名前を冠にしたりしてね。町の中でも一応結構な集客力はあった通りだったんで、家にはいつも誰か彼かお茶飲みに来てたりしてね。俺もお袋も賑やかな中で過ごしてきて、今は山の中に潜り込んでるみたいで。俺も仕事に出るし、女房も本屋さんの方に手伝いに行ったりしてますけど、「今日も誰もお客さん来なかったよ」って言ってて、お袋にとってはそれは寂しいところなんでしょうね。刺激がないんでしょう。だからちょっとぼけるのが早まっちゃうのかなって心配はしてます。
うちのお店は、夏時分に、生ウニを買ってきて、少し塩振りをして、そんで一晩寝かしておくんです。それで塩ウニとしてビニールに入れて販売してたんです。
焼きウニって読むとね、アワビの貝に剥いたウニを並べて、入谷でとれた炭でそのウニを焼いたんですね。浦浜の方で昔、貝焼きっていうのが有名だったんですけども、ハマグリの貝にすごく盛り付けをして、蒸し器で蒸す格好なんですよ。うちのもなんとか差別化を図りたいなぁっていうことで、炭で焼き上げるんです。岩手の方でも焼きウニは盛んなんですけども、ガスで焼くんです。炭ってのは火力の強弱をつけられないんで結構難しいですけど、何となくまろやかな味はだせたのかなぁ、と思ってね。
あったかいご飯に生ウニかけて食べるのは最高です。我が家では、どんぶりにご飯を少しのっけて、生ウニ乗っけて、またご飯乗っけて生ウニ乗っけての2段重ねです。これがうまかったね。どっか行く時とかも、おにぎりに、梅干しの代わりに塩漬けにした塩ウニ。我が家のおにぎりはそれだったんです。娘たちなんかは、「またウニ入ってるの」って嫌な顔するんですよ。扱ってるが故に結構食べれたってところありましたしね。
今ホテルなんかで、蒸しウニやら焼きウニなんかで出されんのは、大方外国産が多いんです。地物ですと単価も高いですし。単品が800円900円で、それでも買って頂くんだよね。10個も入ると送料とか入れて1万円くらいになります。けど、ウニを食べるお客さんってのは味覚肥えてるよね。本物しか食べない人たちなんでしょうね。いっぱい買ってもらったのは、やっぱつくり居酒屋さんとか、お医者さんとかでしたね。そっから波及して、結構県内とかに送ったりしてましたね。
今はとりあえずあっぺとっぺで忙しくて商店の再開はできないですが、ありがたいことにお客さんに、またあのウニ作ってくれないですかって言われるんです。これホントありがたいなと思ってね。ですから、機会を作ってそっちもやりたいなと思ってます。
日本の皆さんへのメッセージ
感謝の念はいつまでも持ってます。いつか支援を頂いてる方たちに何らかの形で恩返しをしたいなと思ってて、すべて感謝感謝って気持ちが強いね。わが身を振り返った時、よその地区に何かあった時にメッセージすら発してないって、反省するとこいっぱいあるんですよ。だから今回の教訓として、何かあった時に言葉だけでも伝えなくちゃっていう気持ちです。自分たちがどん底の苦しい位置にいる時点ですけれども、皆我々を見捨てることなく背中を押してくれてる、そう思えただけで気持ち的に楽になるっていうのはいっぱいあるんです。
震災の被害を見てもらったその印象を少しでもいいから持ちつづけてほしいな、というのが逆にこっちのお願いでね。「都会では僕らの大震災がもう風化しつつあるよ」って聞いて、「そんな早い時期に忘れ去られんの?」って気持ちになったんです。ただ、この状態を1回は見といてほしいな、と思うんですよね。そういう地域で生きてる輩がいるんだってこと…。