自己紹介
菅原栄子(すがわらえいこ)。昭和32年5月15日生まれです。前は勤めてたんだけど、結婚してずっとお店やってたね。昭和57年にこっちに来たの。だから来年で、30周年。夫とはずっと一緒に来たからね、今は本当に空気のような存在です。喧嘩もろくにしたことないしね。24歳のときに結婚してずっと一緒。私が卸町にいたから、あっちは卸町の商店の社長の息子さんと同級生なんですよ。それで来てるうちに知り合って。
家族構成は、夫と私と、おばあちゃんが一人います。85歳のおばあちゃん。あと仙台に一人息子がいます。息子は高校卒業して専門学校行って、就職しました。
震災に遭ったのは3人で、息子は一人で仙台でね。しばし連絡取れませんでした。住んでたのは、あの、南町で旧魚市場から何メーターだろう、歩いて5、6分とかのとこ。だから今は高潮になると水が入って行けない状態。最初は土台が残ってたんだけど、もう無いです。
現在の暮らし
5月の連休前に第1回の仮設で入れたの。6ヵ月か7ヵ月経ってやっと普通の暮らしができて、今は仮設住宅でやっと落ち着いて歌が歌えて、歌を聞けることができてね。
震災から2週間くらいは、うちのばあちゃんは、娘のところにいたんだけど、結局うちがなくなったってことが分からないでしょ。津波に遭ってうちがなくなったのも見てないし、仙台に行ったのも夜行ったから見てないもんでしょ、だからうち帰りたいって言ってしまって。3月の末頃に「そろそろ4月になるからお邪魔様でしたー、もう帰りますー」っておばあちゃんが言って。私は、「おばあちゃん、うちないよー」って、うちを見せたの。そしたら、がっくりして、今3人で仮設住宅に入ってます。最初のとき、おばあちゃんは大変だった。状況がつかめないから、外に出れば景色が違うし、転んだんです。最近は、ようやく慣れたね。
私は最近アルバイトやってるんです。おばあちゃんがお留守番できるからね。今ね、小浜の箸でNPO法人かなんかの支援だと思うんだけどね、割りばしを袋に入れるのをやってるの。町の支援かな。募集があって30年ぶりに面接受けて。
南三陸は海も山も美味しい
うちの近くの魚屋さんも家族2人でやってたから辞めるって言ってたけど。そこのウニが食べたい。ウニが開く頃になると、魚屋さんから今日ウニ開いたよーって電話が来て、「はーい」って。1年に5回開くときもあるし、毎週開くときもあるし、開かないときもあるし。今年はあまり開かなかったんだけどね。
お正月は、小さい鱧を乾燥させてだしにしてお雑煮を作るの。この辺は鱧だし。12月の始め頃から中頃になると魚屋さんに鱧がぶら下がってんの。それを、1,000円くらいしたかな、必ず買って、冷凍しといて、で、お正月にそれを使うの。鳥だしと鱧だしで、上盛りにかまぼことタコとイクラが入ってる雑煮です。なんかもうお椀に盛り上がってる。
絆の強い商店街
うちはずっとお店やって、3代目だからね、93年くらい経ってるんです。最初は布団屋さん。呉服屋さんやって、洋品屋やって。そういううちなんです。うちの夫で3代目。ずっと町と生きた店なんだよね。
うちはね、商店街だったから、あのお魚市とかなんかやっても、ちょっと入ったとこだったから、あの小さな商店街で10店舗あるかな。でもね、すぐに何でもできる、「やろう」っていえば「やろう」っていう感じで。クリスマスに5mくらいのツリーを飾ったの。それが3回くらい続いたかな。ライトアップして、旦那さんたちがサンタクロースの服着て、子供たちにお菓子あげて。で、子供たちが終わったら、ばあちゃんたちにじゃんけんしてあげたりして。そういう、なんか絆の強い商店街だったよ。
呉服屋の日常
9時に開けるから、夫が開け方して、私は台所とか片付け方して10時になったら出てきなさいって言われるの。私は1時間遅れなの。ばあちゃんのこととか洗濯とかみんなして片付けてから店に出ています。
新しくリフォームしてルンルンだったの。お風呂は直す、トイレは直す、広くして快適だったのよ。朝起きて洗濯して庭に干して、チューリップとかパンジーとかいっぱい並べてたから、それを見ながらね、朝のひとときがあった。私だけマイコップをもってコーヒーを飲みに行く。そういう生活してたの。息子もいないし、3人暮らしだから。
楽しかったね。帰りたいね。となりが食料品屋さんだから、自分のうちの冷蔵庫みたいだったの。夜の7時までやってるから。ご飯食べて、あぁソースがない、カラシがないっつったら隣に行って買ってきて。お魚屋さんもあったから。私はね、7時に閉めるから6時には上がるわけ。お支度するから。魚屋さん、食料品屋さんとかね、わきあいあいやね。何でも買えるしね。だから今不便でしょって言われる。前は車とかなくても生活できた。
あなたでないとだめ
仕事は、1ヵ月に1回、東京に仕入れに行って、並べて。お客さんが「入ったの? いつ行くの東京に?」って言われると、もう待ってられんの、嬉しいねー。私のトータルコーディネートをお願いしますって言われたり、私の服探してきてって言われるから。これあの人に合いそうかなぁとか考えて買ってね。で、頼まれなくてもその人、絶対来るから。「私の買ってきた?」って。田舎だから。それ嬉しいよね。信頼してもらってんだもん、それは嬉しいっちゃ。
一番嬉しかったのは、津波に遭った後、私を訪ねてきて、礼服オーダーしたいって。あなたからオーダーしたいって頼まれたの。本当嬉しくて。何かあると、今度カーディガン買ってきてとか、未だに頼まれる。
「おたくの初売りの商品券、流さなかったわよ」って言われて。「大事に持っときな、後で買おうね。お守りで持っときな」って言って。もう親戚以上よね。
いまの希望
いま、希望がたくさんあって、お店を立て直すって。仮設商店街ってのが中学校の下にできるんですよ。(2012年)2月25日。頑張ろうね、お父さんって。28店舗が全部、知り合い、仲間なんです。
まずもってね、結局私たちが津波に遭ったときに、入学式に制服がなかった。それでうちでなんとかしたいって思って、そしたらボランティアの大きな団体の方が寄付しますって。でも頭になる人がいなかったの。会長さんも具合悪くて亡くなってしまったし、誰に連絡とったらいいか分からなくて。制服あげたいけど、誰を通したらいいかわかんないって話になって、夫がアリーナに行ったときに、これは使命だなって。子どもたちに制服あげようって、がんばろうって。それで制服あげたんです。でも、上に立ってくださる方がいたからできたんだけど。うん、それで制服やっていこうかってことになったんだけど。一番初めに、志津川高校の制服をやってたの。だからまずもって制服でお店やって、あとぼちぼちと少しずつ少しずつやっていこうと思って。
いま、本当楽しい。精神的にもね、落ち着いて。
町に帰りたい
私たち、いま登米市にお世話になってるんだけど、出て分かったんだけど、町内に帰りたい。町に帰りたいって。あんなひどい目に遭ったのに町に帰りたいって、出て分かったの。そんで、今あの仮設で空いてるところがあったら、入れたら一番最初入れてくださいって言ってるの。町に帰りたい。こっから20分くらいだから、近いんだけど、町に帰りたい。人とかじゃなくて南三陸町に帰りたい。