百姓として入谷に生きる

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田んぼがあるのに、米買って食わせられては情けねぇのね。…だから、俺は百姓をすんだって腹を決めてた
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Tokyo Foudation
Geolocation
38.6758411, 141.4501125
Location(text)
宮城県南三陸町志津川地区
Latitude
38.6758411
Longitude
141.4501125
Location
38.6758411,141.4501125
Media Creator Username
Interviewee: 西城新市さん, Interviewer: 代田七瀬
Language
Japanese
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Japanese Title
百姓として入谷に生きる
Japanese Description
田んぼがあるのに、米買って食わせられては情けねぇのね。…だから、俺は百姓をすんだって腹を決めてた

自己紹介―今でも百姓つづけるって気持ちだ

西城新市(さいじょうしんいち)、昭和10年11月16日生まれの、76歳です。ここ入谷(いりや)で生まれたんです。家内は、志津川の小森、ちょうど今回の津波が止まった場所。

家は平成6年に建て直したんだけど、享保年間、初代がここに家を建てたようなんだね。気仙大工が建てたんだよって聞かされてる。

兄弟は姉と二人。親父が昭和12年に上海で戦死してんのね。支那事変ってことでね。私が2つの時だから、顔分かんないのよ。親父は農業やっていたようです。親父の頃は、炭焼きが主体だったようですね。たまたま徴兵検査で、甲種合格になったっていうことで、仙台に兵隊に引っ張られて、27歳で亡くなった。お袋が25歳の時。二人は10年間一緒に暮らしたって言うことは聞かせられていた。

親父が早く亡くなったから、一家の大黒柱はじんつぁん(おじいさん)だった。これは、炭焼き専門です。炭焼きは、誰にも負けないっていうような、そういう炭焼きをしていたようでね。じんつぁんが死んだのがちょうど、私が高校終わってすぐの年、いや、次の年か。私も炭焼きしたよ。今でも俺が作った炭窯が「ひころの里」に残って、使ってんのよ。もうありとあらゆるものをやったのね。ここで暮らすための、生活手段になるもんならもう全部やってんのよ。炭焼きだけじゃなくて、養蚕、たばこ、そういうもので暮らして来ていたんです。

俺はこう、ずんぐりで小さいけっども、親父は相当体格が良かったらしい。柔剣術はトップクラスっていわれたんだって、入谷地域で。ぐっと体格がいいのね、写真見っと。親父の様であれば、もう少し本当は背も大きくなっているはずなんだけっども、おれは残念なことにお袋に似たのね。お袋がちっちゃいのよ。背だけはお袋ゆずり、横幅は親父ゆずりなのね。だから、がっと肩が張ってんのよ。

私の子どもは5人いて、今は息子と妻と三人暮らし。今も田んぼを。炭焼きはまったくしてねぇけっど。野菜は家内が専門。今でも、百姓するんだ、百姓してたんだっていう気持ち、全く抜けねぇんだ。

入谷という場所―入谷にも昔津波が来たんだよね

入谷には、津波に関する地名が結構そっちこちにあるの。去年はいろんな方が来て、その昔津波が来て、津波関係の地名が残ってるんですよって言って聞かせたんだよね。例えば、「残谷(のこりや)」っていうところ。そこは、すぐそばに「越えず」っていう屋号もあんの。津波がここからここまで来たけど、ここは残ったよって言うために、残谷ってね。そして、こっからは越えないでしまったよってことて、越えず。

そして家の北側にね、三角になった山があんのよ。これ、三人立ち。志津川湾の沖、陸が見えないとこまでずうっと船がいくと、その山だけがぽつんと見えんのよ。津波の時、3人逃げて行って立ってて、津波が来たっ!て眺めているうちに、その人たちが3人して「俺たち残ったな」ってことで、通称三人立ちっていう山になってるのね。地図の上では三人立ちっていう地名がねぇのよ。

うちが海抜50メートルくらいなのね。そうすっと、今回40メートル、津波が来た所があるっていうと、これはもしかすっと、防波堤とか家なんかがあんなに建っていないというと、ストレートに来ると、ここの入谷まで来てるって可能性があんのよね。俺たちここで生まれた時からそれを言われながら育ってきてるのね。「ここに津波?あれ?こんな山の中で津波?」ってそんな感じでいたんだけっども。

でも、実は海をおっかねぇとは思わねぇのね。津波の恐ろしさっていうのは、小さい時にこういう地名があるんだよってことで、聞かせられてるもんだから。でもお袋の姉が漁師の所に嫁いでいたもんだから、魚獲りなんかはしょっちゅう連れられて。高校の遠泳大会では、トップクラスだったのよ。山の中に暮らしていた人が、漁師の息子たち以上に泳ぎが速いのよ。親父ゆずりなようだね。

幼少期―お袋は俺のこと離さねかったな

子どもの頃は、あんまり勉強は嫌いなもので、そして姉弟がたった二人きりなもんだから、お袋は俺のこと、なんていうのかな、離さねぇっていうのかな。どこに行ってもね、「どこさ行ってた!」って騒いで。だから、お袋俺のこと抱いて寝てて、夜中にぎゅっとすがって、俺苦しくて何回も逃げたことあるなぁ。ああ、そうか、これは、親父がいなくてさみしい時ぎっちり抱いたんだなってな、逆にそんな思い、今考えてみっとね。3年前に98歳で亡くなったんだけんどもな。正直、褒められたことはねぇけっども、しょっちゅうのさばってたもんだから。ははは。

小学校時代―九九を毎日書けって言われてね

そんなもんだからねぇ、いたずらばりしてたのね。学校に行っても勉強なぞする気になんねぇのよ。友達いずって、いたずらしてね。先生にしょっちゅう怒られてね。喧嘩されそうな時は、逃げてしまうのよ。そのために足がとても速くなってね。学校時代には、「うさぎ」っていうあだ名つけられたんだ。廊下さ立たせられたって、じっとしてねぇのね。いずれとにかく、俺は百姓するんだ!っていう気持ちで、そういう形で育てられたもんだから。だから、百姓するって気持ちだけは抜けなくて。

実は、小学校4年生の時、掛け算の九九がわかんねぇかったのよ。その時、担任の先生が、障子紙の様な紙のノート持ってきて、「おめぇな、九九を1×1が1から9×9が81まで、毎日こいつへ書け」って。これがおめぇの勉強だってことで。で、そいつを夢中になって書いて。最初のうちはね、1×1=1から9×9=81まで書くのに、とてもじゃないけど1日か2日あったって書けねぇのね。帰りてぇもんだから、早く書くのさ、夢中になって。そして、自分が書いたやつ読むようになってから、九九っていうのを間違わなくなって。そして、2冊目を全部終わった頃には、なんと算数がおもしろくなってきたのね。他のものがまったく興味はねぇけんども、算数だけは全くおもしろくなってきてね。

うちで仕事をするようになってからも、九九をきちっと教えられて、算数が好きになったことが、あれ、こんな時に役に立つのかなっていう。仕事しはじまってから、気がついたのね。農業するったって、百姓するったって、やっぱりいろんな数字的な部分がしょっちゅう出てくんのね。肥料をこのくらい使うとか、そういうの全部数字計算が出てくんのよ。だから覚えてたものを利用しねぇ方はねぇのね。

高校受験―受かってしまったの

そんなこんなで、数学が得意になってきたもんだから、なんと5年生の頃には、10番くらいになって、算数だけは。そういうのを担任の畑中先生が見てたんだと思うのよ。中学卒業する12月くらいに畑中先生が、「新市なぁ、もしできたら、高校さ入ったらどうだ」と。私の年代の時は、高校入る人は特別な人だったのね。だから、いや俺百姓すんだからいいよって。そして返事したら、なんとじんつぁんが、「おめぇさ、入るっつんだったら、学資のことは何とでもすっから。人の世話にばりなったってわかんねぇから、自分のことは自分でやるように勉強しなきゃだめなんだ」って語られて。そうかなぁと思って、それからは寝るのも寝ねぇで、勉強が始まったのさ。試験が2月かな。その試験受けんたんだけっども、結局一夜漬けちゅうもんで、受かってしまったの。みんなには、「おめぇみていに遊んでいて受かるんだったら、勉強しねぇ方がいいんだな」なんて言われてね。

高校時代―米買って食わせられては情けねぇ

結局ね、不思議なもんだな。高校受かって勉強始まってからも、あまり学校の勉強はしたくない。俺百姓すんだからいいんだって。その気持ちは抜けねかったのよ。

だから、3年間何をしたかっていうと、農業改良普及所って、今の農業振興センターの前身なんだけっども、そこに入り浸りになったのよ。高校に入った時から、「おめぇさ任せっからやってみろ」ってじんつぁんに言われて、田んぼを責任持って作りはじめたの。だいたい今と同じで、5反くらい。特に苗代の分は責任もってやらせられたもんだから。その頃、自転車で6キロの道のりを学校へ通ったんだけっども、返事をしたらそろそろって抜けてしまって、改良普及所さ行って田んぼの苗代がどうすればいいのっていろいろ聞いて。教えられっと自転車で中の町ってところに田んぼがあったんで、行って田んぼの手入れして。「おめぇ学校なして行かねぇの」なんてね、側の人が。「うん、学校いいんだ!俺は苗代手入れするんだから」って。そして、苗代を手入れしながら、苗代の手入れ終わっと、学校さ行って。はてそれから行くと、今度は勉強が終わる頃だから、部活なのね。部活は大好きでね。暴れるほど好きで。陸上競技部さ入って、徹底して練習したのね。

その頃は、今のような苗代でなぐ、田んぼを代かいて、田んぼに直に播いたのよ。苗代用の田んぼが別にあって。そして、苗代で苗が育つと、苗採りってことで、そして手で植えたんだけっども。その頃は、苗代の技術っていうのが、今のように進歩してないもんだから、よく作る人、悪く作る人いろいろあって。あの頃は、5月に入って、苗代、種まきしたのね。6月10日から16日頃が田植え。少し遅れると、6月末から7月初めころが田植えの時期だったのさ。それは昭和27年、8年ころまで。そういう仕事のパターンで。

この面積から、なんとか家で食うだけは取りたいって。当時は11人家族くらいかな。俺は姉と俺だけだけど、じんつぁんが、若くて奥さん亡くなったのね、42歳頃に。そしてまた嫁さんもらったから、子どもがいっぱいいて。宮城県のコメの収量は1反歩辺りどのくらい取れるってデータから計算してみるというと、あれ、家で食っても余るくらい取れねきゃねぇんだってわかって。よし、では家の家族が絶対米不足なく、腹いっぱい食うぐらい、絶対取ってみせると。俺たちその頃は、7月になると米を買ってきて食わせられたのよ、じんつぁんに。田んぼがあっても足りなくて。田んぼがあるのに、米買って食わせられては情けねぇのね。中学辺りから、それは感じてたのよ。だから、俺は百姓をすんだって腹を決めてたっていうのは、そういうことなのよ。

耕運機を買う―馬っこがじっとしていねぇのよ

結婚したのは、22歳の時、昭和34年。家内は19歳の時。1月の5日の日に結婚式して、5月の田仕事の時になって馬を連れて行ったら、馬っこが、なんせ若い姉っこにすがられるものだから、じっとしていねぇのよ。仕事しねぇのね。いややや、これは困ったなと思ってね。して、とてもこんではとにかくせっかく結婚して嫁さんもらったのに、苦労させてはわかんねぇと、怪我などされては大変だってことで、その馬は使うのをあきらめて。そして、今から佐沼に耕運機買いさ行くぞとなって。友人ののぶちゃんと一緒に行って、佐沼の機械屋さんに、その日の夕方田んぼまで届けてもらって。次の日、今度はそいつの試運転したら、とても塩梅いいのね。その頃は志津川町っていったんだけんど、志津川町に3台だけ。前の年に2台で、1年後に私が買ったきり。楽してできたのっさ。

家計を支えるもの―炭は年に800俵は出してたね

田んぼの分は、うちで食うだけを。現金収入は、炭焼き、タバコ、養蚕、全部含めて。炭焼きは家族全員でやって、年に800俵くらいは普通に出していたんです。800っていうと、今でも実は生活が成り立つのね。今一俵2,000円くらい。2,000円にして、800俵出すと160万。だいたい、現金で使う分が、このくらいあれば今でも生活が成り立つの。東京ではだめだけっどね。でも、お金持ちではなかった。じんつぁん、何ぼ稼いでも、人に騙されて、お金使わせられてたの。そのために、孫の俺を、とにかく人に騙されないように勉強しねきゃならねぇと、ほして自分の用足しは自分でしねきゃねぇってことを語ったの。よしと、ほんでは自分のことは自分で、人に頼まなくても用を足せるような状態に勉強するぞってことで。だから、俺は逆に人の用を足してきたの。

出稼ぎもしてんのよ。昭和40年から50年あたりに。農業ががたっと落ちて、なかなか収益上がんなくなってきた時代で。とても家族養っていくのに、農業だけの収入ではわかんねぇってことで。東京行って、道路の工事だけしてたんだけっども。

35年の津波―遊んで得た経験が生きてんのよ

昭和35年の津波は妻をもらった次の年。田んぼの仕事を頼まれて、惣内(そうない)山の所に田んぼを持っていた人が、私に代掻きを頼むってことだったから、耕運機で行こうってことで、弁当を3つ持って朝に早く田仕事に出はったの。そしたら、津波が来たよって、唯一電話のある芳賀商店が、どっからか電話で教えられて、「今からどこさ行くの?志津川は津波が来て流されてしまった」ってこんな話なのよ。ほんで一回は戻ったものの、耕運機に乗ってそのまま行って、津波が来た後を見て、お袋の姉の所の元浜の人たちが、たぶん上の山さ避難してたんだべなと思って、耕運機は置いて、弁当をしょって、今の中学校の所の峰伝いに行ったの。そこさみんな避難してきてやって。ああ、これよかったなと思って、弁当持ってきたからどうぞって。中学校から上の山(かみのやま)の高校にまで行く所は、高校時代に山学校したおかげでわかってたのよ。誰でも通れる所でねぇのよ。

今回の津波でも、入谷の公民館でおにぎりを集めて届けるのに、志津川の避難所になってる中学校と小学校さ行く道路が歩かれねぇから、どこ持って行けばいいんだってこんな話なのね。それを教えてやって。地震の時は家内と家にいたよ。勉強しないで遊んでたんだけっども、遊んでたやつがね、なんかの時に生きてんのよ。

町づくりの提案―津波が来た言い伝えのない地域があんの

正直、志津川の町の将来像について提案はしてんのよ。文化遺跡、史跡、そういうもののまったくない場所が、1ヵ所だけあんのね。「磯の沢」「平井田」っていう地名の場所なんだけっけど。入谷地域に津波が来たって言い伝えがあるのに、その地域には、津波が来たっていう記録がないのよ。来ていないのよ。ちょうど入谷の盆地のような地形が造れるのね。そこをとにかく、町の拠点にしろよっていうそういう発想で、今回高台移転っていうのはすっけっども、最終的には南三陸町の町にするよって。そういう姿勢を出すっていうと、今避難している人たちも、だったからあの土地俺が使うかな、こっちの土地使うかなと、そういう発想が出てくるのね。これからまた1,000年先、2,000年先さ向けて、必ず津波が来るよと。津波が来た時、海の方に作っておくと、また被害が出ると。だから、海の方に町づくりを考えるというのはちょっと酷でねぇかと。

「磯の沢」囲いの人たちが、あんな山ん中家建ててやってってことで、津波前にはみんなに笑われてたのね。ところが、今度の津波で、そこの人たちは生きてんだ。そこが、少しずつ家が立ち始まってきて。だから、やっぱりいずれ、そういう場所を選ばねけねぇんでねぇのかと。そして、入谷地域のような地域づくりしたらどうなんだと。

俺が生まれた時も500戸なのね。今でも500戸なのよ。ってことはね、過疎地だと思いますか。だから、私はここで生まれてここで育って、こうして暮らしてこの歳になったけっども、入谷のような地域づくりしていれば、もうどこさいっても大丈夫、入谷の方がいいって感じになるよって。

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