何にもないね
千葉幸子(ちばさちこ)です。今年7月8日で71歳になります。自分一人、天涯孤独。きょうだいもないし、親もない、親戚はいるけどね、丸っきりの一人だから。
ご先祖は薬問屋で、志津川大火までは旅館を、昭和24年からは蕎麦屋をやってたんだけど、父親が亡くなった時やめた。私は地元で就職しましたから。今は何にもないね。町におうちが建ってないでしょ。道路だって信号だけで真っ暗だもの。まあ、想像を絶するというのは、このことかな。
高潮注意報なんてあまり聞いたことなかったのに、この津波になってから毎日ぐらい高潮注意報だのって。この間も雨降った時は、国道45号線は病院のところ、通行止めだわ。そこまでも水来てんだ。
津波を2回経験
チリ津波は志津川高校を卒業したばっかりのとき。私らの住んでいたのは十日町っていうんですけど、その近辺の人達は、上の山(かみのやま)っていう志津川高校があったところが、避難する高台。役場は1階が浸水してしまったから、志津川高校を本部にして使ったんです。その後、毎年5月24日には津波訓練をしてました。
チリ津波の時は、チリから一昼夜かけて来て、引き波が荒島までは引いたらしいの。卒業してすぐ役場勤務になった私の同級生が「すごかったよ、あんた。外見たらね、荒島まで海の底見えたんだよ」って言って。「あら、おれも見たかった」って。そのぐらい引いたのね。
朝の5時ちょっと前に、入谷っていうところの消防団が来て、「こら、何寝てんだ。津波来っぞ!」って。私も起きてみたら、うちの前の側溝ね、10センチぐらいは濡れてたね。もう1波は来たんだね。そしたら、本浜っていう海岸近くの部落のおじいさんが、うちの前まで来て「荒島まで水がないから大きなの来るぞ。逃げろ逃げろ!」と叫んで回っていたんです。昭和8年の津波を経験した人なのかもね。うちの母親は志津川にいなかったから経験しなかったんだって。だから隣のお医者さんの婦長さんにね、「どうもこうも、どこまで来るんだか分かんねものね。どうすっぺね。床上まで来ねえべかな」なんて電話してた。その間、私は廊下のところに下駄とか靴とか乗せて。そしたら、消防団の仕事をしてた父親が異様な声で「逃げろ」って言ってきたんだ。
外さ出たらね、壁みたいに立って来たの。養殖施設の樽とか、筏とか、家の瓦礫とか。水でねえんだもん。2メートル以上はあったな。そしたら警察のジープが来て「停めて乗せられねがら前走りなさい」って言われたの。母親と2人で走ったわけ。いつも通ってた高校の脇道を上がって。水には濡れずにすんだ。
うちの向かいのおじいさんもだけどね、畳に寝てたら、波が来て、畳のまま上がったの。今回みたいにワッと来ないから。海から少しずつ、ただワーワーワーワーと来て。そしたら畳のまんま上がって、下がって。それで助かった人達、後から調査してみたら何人かいたんだよ。あと、泳いでて首まで出してそこにいんだけど、助けに行かれなかったっていう。瓦礫があってね。自分も泳いでるんだけど、手を差し伸べられなかったっていう人もいる。
今回も、私は全然水見ないから。私達、ちょうど役場の車が来たもんで、それに乗って指定の避難所、チリ津波のときと同じく上の山まで逃げた。今回はそこまで水が来たの。保育所の体育館みたいなとこに入った時ね、窓ガラスが白くなったのね。土煙だと思うんだけど。
そして、保育所のずっと裏、けもの道みたいなところ通って小学校の体育館に行ったの。鬱蒼としてね、気持ち悪い山だったんだけど。水見ないから、大惨事とか頭にねえから、あははって笑ったりね。野を越え山越え行きましょうなんて言ってね。
避難所での暮らし
小学校には4月末まで、その後は中学校にいたね。小学校も卒業式だのあるから、明け渡さなきゃないから。志津川以外の避難所に行かないかっていろいろ言われたけど、中学校に行くかっていうことで。7、8人かな、そのグループで。一応ね、志津川中学校避難所、代表の会長というのは、民間からなってもらった。そんで日中に一人、役場から派遣が来るわけ。あとは保母さんとかなんかね。足りないから、ボランティアさん来たらお願いしますって、それでずっときたんです。
瓦礫片付けのアルバイトは随分あったんですよ。明日早くて、おにぎり欲しい人は書いてってくださいって、配膳のとこにメモがあってね。そうしておにぎりもらって、早く出る人もいるし。
公立志津川病院の入院設備がなくなったから、佐沼の病院を一部借りて使ってたんだけど、その病院の先生も避難所にいた。ここの人でなくて派遣されて来てんだけれども、仙台辺りから通えないから。金曜日の夜から日曜日とか月曜日の朝とか、おうちさ帰るんでない。そうするとほら、金曜日は夕飯いりませんとかって言ってっから。日曜日の朝とか月曜日の朝からお願いしますとか何とかって書いて。週末は仙台にお帰りなのね、つって笑ったけど。
ほんとにほんとに、いろいろありましたね。私は、不謹慎だけど楽しかったね。みんなはね、どうだか心配。私はなんも。一人だからね、出たとこ勝負だからいいっつったの。「流れを変えようと思うな。変わる流れにうまく乗れ」って母が書いたメモが残ってるんだけど、私も座右の銘にしようかなって思ってね。
避難所を訪れる人達
みのもんたさんが中学校の避難所に来た時、取材受けたんです。なんだかテレビさ出たんだと。母の位牌が、そのとき台座がなくて竿だけで。「この方は?」「母です」。拝んでくれて「大変ですね、ご苦労様です」って。そしたら「義援金はもらったんですか」つうから、「1回だけいただきました」って言ったら、別のところに避難しているいとこの嫁がすぐ電話寄こして「全国放送だよ。さっちゃん、大したこと言ったね」って、ははは。そしたら2回目が来たのかもしれない。かえってよかったっちゃ。ほら、携帯電話の待ち受け画面、みのもんたと話してるところだよ。誰かが撮ってくれたんだね。
渡辺謙さんもいらっしゃったね。この人は白血病、海外に行って治してきたんだ。私もちょっと難病があるんですよ。で、サインもらったんじゃなくて、私から「私も難病と闘っております。あなたを目標にして頑張ってます」って書いたメモを渡して、はは。謙さん、脇から見てる奥さんに見ろってそのメモを渡したのよ。「頑張ってね」なんて言われて。
八王子や豊田市のボランティアさんは、今でも手紙寄こしたりハガキ寄こしたり、元気付けてくださってます。冬に向かった時はね、ヒーターとかストーブとか持って来てくれて。長いお付き合いだねって言うの。
志津川湾の昔
うち、前をスーッとまっすぐ行くと海なの。小学生の時、昭和24、5年といったら終戦後で、きれいな海だったんだもの。透明度があって、お小遣いで5円か10円もらうと、そいつ落として潜って取れた。岸壁に立ってっと、海岸で仕事してる人達に押されてしまうから、結局泳がなきゃないのよ、ネコかき、イヌかきで。そうやって泳ぎを覚えたの。
まっすぐ行ったところは市場だったの。トロール船で水揚げした魚をすり身にして、ちくわだの笹かまだの作ってるかまぼこ屋の工場が志津川に5、6軒はあった。匂いがするからって工場の窓からのぞいていると、「食べてけ」なんてもらったり、別の工場ではサイダーも作ってたから、同じように窓からのぞいて、もらったり。子どものおやつにしたね。
悲願80年の気仙沼線
悲願80年かけて、戦争で一時ストップしたけどやっと開通して、開通5年後に廃止線に上って、それも陳情して残った気仙沼線が、未だに復旧しない。もしかしたらボツにされっかもしれないけど、やっぱり気仙沼線っていうのは、復活しないとご先祖様に申し訳ないんでないかと思うのよ。
開通する前は仙台までバスで3時間かかったから。朝10時からの会議があると、気仙沼発で5時に志津川を出て8時に仙台に着くバスしかなくて。しかも、行きは座れたけど帰りは立ってたこともあった。今は柳津(やないづ)までしか開通してなくて、代行でバスやってっけどね、十日町の営業所とホテル観洋にしか停まらないから不便だ。仙台から3時間かかるようになっちゃって、昔に戻ったみたいだね。
私達はいつ出るんだろうね
みんな聞くけど、避難所では規則正しい食生活。仮設に来たら、いつでもいいやとか、いただく物もあるでしょ。そしたら太ってきてね、参った。病院の先生からは、体重が減ってなかったら入院して食生活の改善だって。痩せなきゃね。知ってる人達集まって、みんな「なんだ太ったな」つったら、「んだんだ、難民太りだ」なんて。朝はどうにかこうにか。一人暮らしとか、高齢者の方にお声掛けをして歩く見回り隊が来るからね。8時半頃までには、ちゃんと食べてなきゃ。
こういう生活、70歳になってやるなんて思わなかったね。ここの仮設も最後にしか当たんなかった。8月12日にここのカギをもらいに行って18日に入ったから、私達は1年経ってないけど。昨日の国とのお話し合いで、志津川では歌津っていうところが2ヵ所、住宅の許可出たって副町長さんがしゃべってたけどね。そっちは許可になって、私達はいつ出るんだろうね。5年経って復活するかどうか、わかんないもん。
よく電話する奥さんが「学校の敷地内に建てた人達、やっぱり最初だってよ」って言うから、「そうだね、困ったね」なんて言ってて。学校の施設を使ってるとこは早く返さなきゃないから、私達ここで、また最後かっつったの。