地域のみんなにお世話になった恩返しをしなくっちゃ

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漁業者はあれだけの地震があれば、もう大きいのが来るなっていうのが身体でわかるわけさ。大丈夫だろうということは絶対にないから。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.0151207, 141.6294866
Location(text)
岩手県陸前高田市田束地区
Latitude
39.0151207
Longitude
141.6294866
Location
39.0151207,141.6294866
Media Creator Username
Interviewee: 千田勝治さん, Interviewer: 七井舞
Language
Japanese
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Japanese Title
地域のみんなにお世話になった恩返しをしなくっちゃ
Japanese Description

大家族

千田勝治(ちだかつじ)です。誕生日は昭和23年6月の21日です。1年中で一番日の長い日ですから、夏至ですね。母はハナコ、88歳ですか、お元気ですね。米寿ですね。家族は人数が多いですからね、大体9人ありますから。家内が富子で、年齢は63歳で私と同い年です。長男が晃、あと、長男の妻、由紀江さん。その子ども(孫)は4名います。長男が魁理(かいり)です。次は2番目、陸(りく)。次は空花(ひろか)、その下が晴希(はるの)と呼ぶね。8月に生まれたばっかり。あと別の世帯で暮らしているのは次男の眞と三男の悟。お正月に集まるととても賑やかです。眞には子どもが2人でしょ。悟にも子どもが2人います。数えてみると孫が8人です。最近では珍しいですね。

広田湾産のカキは日本一

職業は、議員よりは漁業、養殖漁業といった方がいいかな。内容は、カキ・ワカメ養殖ですね。今もやってます。カキ養殖に関しては県内でのトップ、一番の大きい養殖漁家なんです。息子たちが3人とも後継者になっているので。全国では珍しいパターンですね。

漁場経由で系統販売っていうのをやってます。系統販売っていうのはね、東京の築地の市場に出荷してるってえの。このカキについてはもう、日本の中で一番のトップブランドなんです。東京で一番、高い単価で取引されてるのが、この広田湾産カキなんです。そのきっかけ作りをしたのがうちの漁家なのね。とにかく今は津波で一切カキがないから。向こう3年ないんですよ。3年先までないので、今は新たにゼロからスタートしています。仕込み作業はしてんだけども、皆さんの口に届くのは3年後ていうことで、今、日々みんな復旧で頑張ってます。

陸前高田の広田湾産のカキっていうのは、スーパーだとか量販店では売ってないです。すべて業務用なんですよ。多分広田湾産カキっていうのは、ほとんどの人が知らないです。でも、なぜ高いかっていうと品質だとか、生産量が少ないので希少価値が高いんですよ。ネームバリューは低いんですが、単価だとか品質は日本一のカキっていうことで、取引されてる。うちの漁家は殻付きガキの生食用のを出荷してます。結局、湾もきれいでないと生食で食べられないわけだから、きれいな海で採れて、品質もよく、味もよくっていうのが、この広田湾産カキっていうんです。海がいいんです。でもその海が今回津波でやられたんで大変ですけどね。

大きな津波が来るってことは身体でわかってる

自宅はまず、全壊です。流されなかったんだけれども全壊認定で、蔵と長屋2棟と本宅と、4棟が全部だめになりましたね。家は結構高い所にあって、誰しもが見ても「えっ、お宅まで?」という所だった。今回の津波が17メートルくらいありますかね。本来であれば、津波は乗らないとこなのね。うちの本宅は築220年くらいになっているんですよ。それまで、家を飲み込むくらいの津波はなかったということなんですけど。ですから皆さんびっくりするんですよ。

小友町(おともちょう)というところは、気仙大工の発祥の地なんですよ。宮大工っていう、木造で1本の釘も使わない大工さんの発祥の地なの。通常のお家ももちろん建てるんだけども、お寺や神社なんかもすごく丈夫に造るので、おそらく東京の方が見るとお寺さんに見えると思います。そういう家がね、今回わずか6分で、8,000世帯あるうちの約3,600世帯がなくなったんです。

今回の津波が時速104キロと言われてんの。通常の道路や私道を、車で逃げてももう間に合わない速さなの。陸前高田は平場(ひらば)が多いとこなのね。ですから、陸前高田は今回の津波で被害が大きい。規模の大きい被害が出たということはそういう特徴があるとこなのね。

自然災害っていうのは予定外のことが起こるからね。今回の津波だってあれだけの高いのが来るとは想定してなかったから。それ以上のことが来るんだって心を持ってないと。絶対大丈夫だろうと気持ちを持ってる人が今回死んでんだから、陸前高田は。これがね、過去どかーんと大きい津波があれば、みんな逃げたんだろうけど。海の人たちは過去の小さい津波で養殖施設の被害をいっぱい受けたから、海のそばに居ながら、結構亡くなってないの。亡くなった漁業者っていうのは少ないの。他の平坦な土地で商業をやってる方々が亡くなってんの。漁業者はあれだけの地震があれば、もう大きいのが来るなっていうのが身体でわかるわけさ。大丈夫だろうということは絶対にないから。

私の場合は、4月の20日ころに選挙、統一地方選挙だったのね。ですから3月の11日は、自宅に選挙事務所を構えて、準備をしようかって家族がみんなまとまってたの。みんな1か所にいたから難を逃れてんの。まとまってたからよかった。

今回の津波っていうのは、もうエネルギーが全然破格だったもんだから、もう焼け野原のように、漁場が一切なくなっちゃった。一度押し寄せた波で全部丘の方にぶちあがってしまった。今は一から復旧作業をやって、筏を作ったり、養殖するための仕込み作業をやってるわけね。小友町ではカキ養殖が32人くらいあったのが、今回の被災でリタイアしたのが3分の2になって、残ったのが10名。ワカメ養殖が17名あったのが、残ったのが5名。だから今大変なの。復旧作業をするのにすごく支障をきたしてんの、人が足りなくて。

「カバネヤミ」の漁業経営

カキ養殖はうちのおやじの代から始めたんだけど、おやじは私が23の時に、カキを揚げに海に行って、間違って船から落ちちゃって亡くなったんです。私はそれまでは仙台でサラリーマンをしてました。私の結婚式まであと10日というところだったの。おやじが亡くなったという通報があって急に帰ってきて、翌日潜水夫が入って、海の底から発見されたのさ。それが私の人生の大きな転機だったのね。長男だから家業を継ぐために地元に戻ってきたけど、最初は全然わからなかったから、部落の人やじいさんに教えてもらったね。おやじは死んだけど、じいさんは生きてたから大分助かったのね。

23歳のときは違う夢を抱いてたんだけどね。スーパーの経営をやりたいと思ってたの。小田原や箱根の小涌園なんか行って研修を受けてたのね。スーパーの経営の理論を会社で働きながら学んで、いつかは経営者になりたいと思って研修してたのね。働き出したのは高校卒業してすぐ。働いて5年目になってたわけだけど、おやじが亡くなったので、スーパーどころじゃない訳ね。

漁業を一から始める時、私らは小さいころからおやじと一緒に船に乗ったり海に行ってたりしてたから、船に乗ること自体への抵抗は全然なかったの。あと、養殖をするためのロープを結ぶ技術とかはじいさんから教わったから、あまり苦労せずにやれたの。ただ体はね、重労働だからね、当時は小さい船だったしね、体一つで全部の作業をしなくちゃいけなかったの。だからかなり大変だったね。

うちのやり方で一つよそと全然違うことはね、人を雇用して経営する、という考え方だったの。漁業ていうのはね、朝が早いんですよ。カキの養殖の人なんていうと、朝早い人だと2時に起きて作業する。だけど、私はサラリーマン時代に8時~17時のサイクルがあったから、はじめから8時~17時しか漁に出なかったの。他の人たちは2時、3時に起きて作業してるから、私は地域の人から「カバネヤミ」と言われたの。要するに怠け者ということ。

でも、それはみんなの考え方でみた私のやりかたなんです。まず、みんなは2時、3時に仕事をしているから、私はもちろん仕事が遅れるけど、それをカバーしたのが雇い人てことね。当時の昭和40年代というのは、うちのやり方のような、雇い人を使った経営はほとんどいなかったから、珍しいけどそのやり方で経営したわけ。

もう1つの特徴は、息子3人がみんな後継者として継いでくれたっていうことかな。今まで後を継げなんて一言も言ってない。高校卒業してから数年は、社会に出て会社に勤めたよ。でも、自然と親父と一緒の仕事をしてみたいと息子たちみんな帰ってきたわけ。8時~17時の時間だったから入りやすかったわけ。多分俺が2時、3時から海の仕事をしてたら、誰一人戻ってこなかった。今は東京でもうちのカキを食べたいっていう声をもらっていて、今回の震災でも励ましの言葉をいただいてんの。だから漁家をやめられない。

消防団は最高のボランティア

陸前高田に戻ってきてからは、親父が海で亡くなって、消防団にお世話になって海を捜索してもらって、地域のみなさんに本当にお世話になった。そのことをその時に感じたから、恩返しをしなくちゃという思いから、地域の色々なことをお世話しているうちに、現在市議会議員になったという経緯になるわけですよ。例えば養殖組合だとかね、あと交通安全協会をやったり、漁業士会の会長をやったり、それに大船渡市の漁業士会をやったり、いろんな漁業の組合のお世話役として顔を出したわけ。もちろん消防団にもお世話になったから、陸前高田市の800人いる消防団の副団長までやらしてもらいました。

消防団は今回の震災でも大活躍だったように、遺体の捜索だとか、火事が起きた場合は仕事があってもそれを投げ出して消火活動に行かなければならない。そういうボランティアなわけ。自分の命を顧みず危険な場所に行くものだから、最高のボランティアと言われてるわけ。

入団したのは25歳のころかな。入ってからは規律訓練を受けましたね。行進の訓練をやったり声出しの訓練をやったりと、自衛隊と同じような訓練を消防団もやるの。消防訓練を受けてないと、実際に火事が起きた時に素早く動けないからね。ですから消防団の訓練ていうのは、自分を鍛える場にもなるわけさ。実践のために経験をさせる訓練になるの。

消防団に居て辛いのは1月、2月の火事で、軍手をかけてやってるんですけど、それがカチカチと凍ってくるんですよ。寒い中ホースを使わなきゃいけなくて、水出しながら手が凍ってんの。それでもやらなきゃいけない、消し終わるまでは。

消防団で活動をしたのは34年間。人生の半分は消防団でボランティア活動をしてきたからね。その分地域の人たちと交流する機会は多くあったね。もちろん消防団の先輩、後輩もできるわけだし。消防団は一番人間関係が構築される場所なんですよ。消防団に入ることで、町の中で見たことも会ったこともない人と繋がりができてネットワークができるし、コミュニティもできる。消防団に入るといろんな業種の人が団員になるから、飲み会の時にお前何やってんだ、って話してるうちに、お互いに理解できるころが消防団だからこそなのね。海に居ると漁業関係の人としか繋がりが持てないわけだから、偏ってるわけさ。今は息子の眞が現役の消防団員として勤めてるけどね。親子2代で消防団員に入っているのは陸前高田ではうちが初めてかな。親子団員だね。

浜のばぁちゃんはトップクラスの働き者

家内と出会ったのは仙台ですね。仙台に居た時は彼女もいないし、当時はボウリングがすごく流行っていた時代で、給料の半分はボウリングに行ってた時代。

うちの家内とは、彼女が勤めていた美容院のビル内ですれ違ったのが最初の出会いだったね。美容院とうちの会社は近くだったから。会社で借りてる寮があって、キッチンに立ってて窓から見える道路を、ある時、家内が歩いてたの。家内の実家は寮の後ろにあったわけさ。美容院に行くのに家から歩いて行くのを見て、その時綺麗な人だなぁと思って、初めて女性にアタックしたね。でも当時は携帯電話もなかったから、お店に電話をして、「この前ビルの中ですれ違ったものですけど会っていただけませんか?」って電話したら、仕事が終わってから会おうということになったわけね。

うちの家内は今体格良くなったけどね、当時はほんっとスラーっとしてたの。それで美容師さんだったからね、当時は髪を染めていたんだけど、地元にはほとんど髪を染めてる人はいなかったから、金髪に近い髪の色をしていた家内を実家に連れてきたときはびっくりされたね。美容師だったから当時では派手な格好もしてたしね。もともとは海で働くような人ではなかったのね。

彼女の実家っていうのはお父さんが宮城県警の警察官で現職だったので、農業も漁業もしたことのなかったの。だから向こうのお母さんには、「うちの娘は箸より重たいものを持ったことのない人だけどよろしくお願いします」と言われたの。それで、農業も漁業もやったことのない人だから、美容師はやらせてくれっていうのが唯一の条件だったの。美容師は、陸前高田に来て結婚してから15年くらいは続けてたかな。私の方の漁業の規模が大きくなって、雇い人と私だけでは仕事が終わらないことが多くなったから、家内は店を閉めて、海の仕事を手伝ってくれるようになったのね。それで今は「浜のばぁちゃん」として働いてます。

美容院を辞めて漁業を手伝うことになった時に、家内は何も文句は言わなかったね、私の日々の忙しい姿を見てたし。いろんな役を持っていて家の仕事を放っぽり投げて出ていかないといけなかったから。美容師さんは器用なんだね。テキパキやるし動きが速いし、その動きが身についてるから、元々は漁業をやるお方じゃなかったんだけれども、今ではこの湾でもトップクラスの働きもんですよ。

私の手は海の仕事をしていないような手になってんの。ペロペロしててさ。それだけ公務に従事してるってわけでさ。だから海の仕事をすると「あぁ、海の仕事はいいなぁー」って思うよ。空気がいい所でさ。まぁ寒い日もあるけれども、海の仕事をやるっていうのは一番いいね。早く戻りたい。今はもう穏やかな海に戻ったしね。

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