人とのつながりに生きる70年

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定期的に会うことでつながりとかが深まるから大事なことだと思うね。…やっぱり皆の力がないと1人では生きていけないもんね。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.0151207, 141.6294866
Location(text)
岩手県陸前高田市田束地区
Latitude
39.0151207
Longitude
141.6294866
Location
39.0151207,141.6294866
Media Creator Username
Interviewee: 及川トシ子さん, Interviewer: 葉山大樹
Language
Japanese
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Japanese Title
人とのつながりに生きる70年
Japanese Description
定期的に会うことでつながりとかが深まるから大事なことだと思うね。…やっぱり皆の力がないと1人では生きていけないもんね。

私は及川トシ子です

私の名前は及川トシ子(おいかわとしこ)です。昭和17年1月12日生まれの70歳です。家族はお父さん、おばあさん、娘が2人、息子が1人です。今はお父さんとおばあさんと上の娘の4人で住んでいます。もう1人の娘と息子は神奈川と埼玉にいます。震災前までは、農家をしていて、米、野菜、花を作っていました。

手伝いも、遊びも一生懸命

私は陸前高田市の広田町ってとこで生まれました。男が2人、女が4人の、6人兄弟の長女でした。

私の家は漁業と農業をやっていました。長女だったから、田んぼとかワカメの養殖とか、色んなことを手伝いましたよ。でも家族が多くて、おじさんとかもいたので、あんまり辛いとかは思わずに過ごしていました。母親は55歳で早くに亡くなってしまったので、子ども皆で手伝いをしながらね。農繁期っていうのがあって、学校も休みになったので。実家のそばにも田んぼはあったんですけど、私が嫁に来た小友町(おともちょう)にもあったの。車も耕運機もないから、弟や妹をおぶって田んぼに通ったんです。

その中でも、子どもの頃はいろんなことして遊んだよ。山だったり海だったり。広田は海の方だったから海水浴をしたりね。子供の頃は雪が膝位まで積もったので、そり作って遊んだり、縄飛びをしたり、今とは違う遊びだけど、楽しく過ごしましたよ。

中学を卒業したら高校には入らないで、裁縫、和裁を習ったんです。個人的に教える先生がいてそこに通ったり、小友の駅の前の裁縫の学校に2年くらい行ったね。下田学園ってところだったかな。それから家庭を回ったりしていました。そして23歳で小友に嫁に来ました。

農業やって50年

それからはずっと農家をやってきました。お米と野菜とお花を作りながら、50年くらいやっていました。おばあさんとかにも手伝ってもらっていたけど、基本は1人で。

お父さんは来た時からずーっと出稼ぎで、お盆とお正月、5月連休しか帰って来ないから。年に1回、失業保険って言うのがあってね、1カ月休みがとれるの。5月連休の後に保険をもらいながらお父さんに農家の手伝いをしてもらってました。

作った野菜とか花は、採れたてランドっていう大きな直売所が松原にあって、そこに出してお金にしていたの。秋には野菜を作ってました。ニンニク、ニンジン、大根、白菜とか。唐辛子も作っていてすごく売れるんですよ。あと、ラッキョウをいっぱい作りました。ラッキョウは6月から8月まで獲れるんです。1つ1つむいてきれいに洗って産直で売るの。おばあさんにも手伝ってもらって。

花作りは赤ちゃんを育てるのと一緒

お花は平成8年からハウスを作って始めたんです。ハウス作る仲間が4人いて、自分それぞれのハウスを作って。私は2種類の花を作っていました。

フリージアって花はハウスでなきゃ育たないんです。球根だから10月に植え付けして3月に採るんですよ。ハウスの中を暖かくするのに灯油たいてお金もかかるんです、寒さに弱いもんだから。

夏はトルコキキョウをやってたの。ピンクと紫のきれいな花。細かい種を買って、1つ1つピンセットで3月の末に蒔いて、苗を作ってね。赤ちゃんを育てるのと同じ。トレイで芽を出させて、それから植えるまでの期間が長いから、それを管理しなきゃならないの。そして定植って言って、6月にトレイから移してハウスの中に植えるんです。トルコキキョウは暑さに弱いから、暑さよけのネットをつけたり外したり。どちらの花も手間暇かかるし、お金もかかるけど育てるのは楽しいんです。

そして花は売れるんですよ。春と秋の彼岸と、お盆に出荷するんです。花屋さんよりも安く売れるから、皆覚えてくれて買いに来るんですよ。自宅にも買いに来てくれたしね。人にあげても花は喜ばれるし、一生懸命作りました。花作ったおかげで色々なとこに視察に連れてってもらったりもしたね。

物を売る楽しさ

お父さんが家にいないことで、家のことからお仕事から、いろんなことしなくちゃならなくて大変でした。車の免許も持ってないしね。でも、辛いことだけでなく、楽しいこともあったからここまでつながってきたかなって。物を作って売るっていいものだね。お金にもなるし、その楽しみもある、産直に行って自分が作ってないものは買うし、色々な人との交流もあるし、産直は100人近くの人がいたから、出しに行けばいろんな人に会うし、お話したり、そういう交流もあったし、励みになったりしたね。周りの人も良いからやっぱり助けられたね。

田束(たつがね)、つながりの深いとこ

近所付き合いはすごく良かったよ。声を掛ければ皆寄ってきてね。喜びがあっても悲しみがあっても、皆で手伝いに歩いて行動してました。本当に皆に助けられてきました。この部落は出稼ぎ者が多くて周りの皆もそうだったから、こんなものかなと思って生活していましたよ。家の隔たりもなくて、子供たちはのびのびと遊んでいましたよ。

あとね、毎月1回、20日に公民会で集会があったの。納税のお金を持って行きながらお話していたの。お父さんがいないから、行かれない事情がない限りほとんど私が出て行きました。男性と女性と色々な話が出来るし。世の中に出ることでいろんな人に会って話すことが勉強になるし。こうやって、定期的に会うことでつながりとかが深まるから大事なことだと思うね。お父さんがいなくても、こうやって地域のつながりがあって良かったと思います。

つながりは大切だね。やっぱり皆の力がないと1人では生きていけないもんね。周りの人との付き合いって一番、何よりも大事です。

伝統芸能、剣舞

3年に1回ずつお祭りがありました。うちのほうの田束部落は剣舞をやっているんです。剣舞っていうのは、鎧きて、面かぶって踊るんだけど、これは田束部落に昔からずっと伝わっているもので、岩手の世田米(せたまい)から来たおじいさんが教えたって言われています、それを未だに子どもたちも大人も皆でやっています。伝えていくためには皆でやらなくちゃならないからね。お祭りはにぎやかで盛大で本当に楽しくて、今は見て楽しんでいます。

毎年10月に小友中学校の校庭で町民運動会がありますよ。小友町にある10の部落ごとにまとまって、年代ごとにリレーとか玉入れとか綱引きとか、色々競技をやるの。何の競技に誰が出たとか、毎年記録を取りながらね。

大地震が来た時

津波の日は、お父さんはちょっと高田の方に出掛けていて家にはいなかったの。私とおばあさんとで2人で家にいたの。外に出たら地割れはしているし、すごく怖くてね。

お父さんが帰ってきて、大津波が来るって無線を聞きました。そのうちに娘も勤め先から帰ってきて。そしたら津波が只出(ただいて)海岸の方からきました。黒っぽいような白っぽいような、うねりになってきました。

それから身支度して慌てて家の裏山に避難したんです。4人で、やっとの思いで行きました。でも裏山に上がると同時に、今度は別の方からすごく高い、深い波が来て。そうしたら、波同士がぶつかってより高くなってしまってね。その反動が私たちの住んでいる部落にずっと上がって、12軒あるんだけどほとんど被害にあってしまったの。私の家は12軒あるうちの一番下で海から近い所だったの。家が流れるのも目の前で見ていてすごく怖かった。

そのうちにだんだん収まってきたので、山道を休み休み、3時間くらい歩いてこのモビリア(避難所。現在仮設住宅のあるキャンプ場)まで来ました。もう18時になっていたかな。

大変だった避難所生活

電気もつかないし寒いし、すごく大変だった。3ヶ月間はモビリアのハウスセンターで、もらった物資でみそ汁やおかずを作って食べさせていました。朝は5時半から、夕方は16時から80食位作ってました。時間に縛られていてすごく大変でした。

でも、ここに避難している人も同じ部落の人がきているからね、すごくいいんですよ。外に出れば顔の知れてる人ばかりだし、挨拶とかできるし、助かるの、顔出せばおはようって。何やってたのって。避難所は同じ部落の人が避難したから、力強いの。同じさみしいにしても力強い。お父さんがいない時にこうなったらどうしようかと思った。お父さんがいたから助かった。気持ちが違うね。

そして6月になってから仮設住宅に移りました。大人4人で2DKだったし、物資で荷物もらったりしていて狭かった。そこに10月までいて、1DKが空いたので11月から娘は1人でそこにいるんです。

今の生活

お父さんはがれきの撤去をして、私はおばあさんのお世話をしたり、ご飯作ったりして過ごしています。あと、仮設住宅の下の方に畑があるから、そこで野菜を育てて、食べる分の野菜は採れているんです。ホウレンソウに白菜、大根、小松菜、ニンジン、トマトとか色々ね。津波に遭って塩かぶってしまったからどうかと思ったけど、ちゃんとできましたよ。来年は少し見込みあるかなって。

お父さんが帰ってきたから、もう少し農家の方も楽に働けるなあと思っていた矢先に津波が来たからね。機械も全部流されて、田んぼもいつできるかわからないので、百姓は無理かなって思います。

あと、朝に散歩をしているんです。仮設にきてから仕事が出来ないので、展望台の方まで歩いて往復30分。朝6時15分に起きて毎日やっているんです。お友達と一緒に行くんだけど、散歩コースも良くて歩くには良いんですよ。家にいた時は仕事がいっぱいで、こんなこと考えたことないの。ここに来たら仕事がないでしょ、じっとしてるのが大変なんですよ。

これから

今やってることで精一杯。新しいことはまだ考えられてない。年齢も年齢だしね。今までのような無理はできない。お父さんと2人で1つになって何かやれたらねって言ってるけどね。2人でやれば楽だからね。私に出来ないことはお父さんに頼んで、できるぐらいで頑張りましょうって。

あと大きなことは家を建てなきゃいけないからね、それが一番の問題です。早く家建てて安心したいなって思います。前の土地は駄目だから高台にね。5人で組めば県と国で造成してくれるって言うんだけど、それもまだ決まってないし。土地は山としてあるんだけどそれを個人的に造成するには大金がかかるでしょ。だから、まず5人でやれば少しでも安上がりになるかなって。できれば集団移転の方がいいなと思うけどね。やっぱり今の土地から離れたくない、今までずっといたから、よそには行きたくないっていうのは強いね。同じ部落の人とのつながりをできれば継続していきたいね。わが家を持ってから、これからのことは考える感じです。

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