震災から見事立ちあがったすばらしい町って言わせたい

Submitted by Tokyo Foundation on
Item Description
実際被害に遭った私たちは、やっぱ海見てないと不安です。海見て判断する。それは気象庁よりも、誰より我々は詳しいんだから。
Translation Approval
Off
Media Type
Layer Type
Archive
Tokyo Foudation
Geolocation
39.0151207, 141.6294866
Location(text)
岩手県陸前高田市田束地区
Latitude
39.0151207
Longitude
141.6294866
Location
39.0151207,141.6294866
Media Creator Username
Interviewee: 蒲生哲さん, Interviewer: 須藤佳美
Language
Japanese
Media Date Create
Retweet
Off
Japanese Title
震災から見事立ちあがったすばらしい町って言わせたい
Japanese Description

自己紹介

蒲生哲(がもうさとる)です。昭和38年3月29日生まれ、牡羊座の48歳になります。家族は84歳の父親が1人、妻1人。子どもは女2人の男2人の4人います。

出身は陸前高田市の広田町で、生まれも、育ちも、そしてこれからも陸前高田市民です。震災以前は陸前高田市にあります、モビリアというキャンプ場で支配人をしていましたが、今はそのキャンプ場を拠点にしてNPO法人「陸前たがだ八起プロジェクト」を立ち上げています。支配人をする前は東京の方に出て18年間仕事をしていましたが、「陸前高田市にキャンプ場ができるからここで働いてみないか」と声がかかり14年前に家族連れてUターンして帰ってきました。

美しい砂浜と称された海、それが遊び場

広田町の「広田」っていうのは、語源がアイヌ語のピロイタ。意味は「美しい砂浜」から来ています。小学校から帰るときは必ずその砂浜を歩いて帰ってきました。砂浜では仲間たちと、バウンドしないけれど野球をして。それからその辺から竹を取ってきて竿を作り、釣りをしながら帰ってきた。それこそ30年以上前の小学校時代は海をすっぽんぽんで泳いでいました。広田の砂浜は海水浴客で、夏はいっぱい賑わうけれど、秋になれば人もあんまり訪れない。でも9月はまだ暑い。海の季節って1、2か月遅いから、水温が一番高いのは9月から10月でヌルいからね。楽しかった。

それから大人になって、東京で仕事をしていたときは湘南や大洗に行ってサーフィンをしていました。ずっと海と一緒に生活していたので。海見ると安心するみたいなことはありました。

いまだに夢の一部と思いたい

今回津波の犠牲者の8割は松原のある町の方。モビリアのキャンプ場にある高台からは正面に見えます。そこで私と漁家の佐々木眞さんとキャンプ場のスタッフの3人で、3月11日の15時から18時まで立ち尽くしていました。高田松原って今の「奇跡の一本松」あたりに以前は続いていました。その消える松原が悲鳴あげて、全部なくなった姿とか。「やばい。300人の犠牲で済めばいいな」、「他の人たち逃げたかな」って思ってたけど、実際には2,000人余りの住人が目の前で流されました。今でも夢の一部じゃないかという気がしています。

市街地にいた人のほとんどは松原が視界を遮って、津波が迫ってくるのが見えなかった。気が付いたときは町に波が入って、逃げ遅れて津波に飲まれていました。

でも、海を直接見ることができる広田町や小友町(おともちょう)の人たちっていうのは、あんまり犠牲者がいないのさ。それは、私たちは保育園児の頃から津波に対する知識や訓練をずうっと学んできて、年に1回ないし2回は必ず津波避難訓練をしました。ですからおそらく私たちは、津波に対する世界でナンバーワンの経験と備えと知識を持った民だったはずです。だけども、今回多くの犠牲を出してしまったことは、「もともとある防波堤で大丈夫」、「チリ地震津波より大きな津波は来ないだろう」っていう「おごり」があったんじゃないかと。それからもう1つ、町にいた人たちは松原で海が見えてなく、波がわかんなかったから。

実は当時「大津波警報発令、波の高さ3メートル…」でぶちっと切れてしまったんです。私たちの中で1mは養殖施設、2mだと船に被害が出る、3mだと少し波が町に入ってくると。で、町の人達は、3mの津波なら元々ある5mの防波堤があるから、町に入ってこないだろうという気持ちがあったかもしれない。普段、嵐では6mとか7mとか波が来ています。イメージ的には、風波っていうのは風呂敷でほろった、バコバコしたものと思ってください。でも、それが今回の津波は、14mのビルがどこまでもその高さのままで押されてきた感じ。

誰よりも海を知っているはず

私たち海の人間っていうのは、気象庁より誰よりも引き波で津波の高さ、大きさっていうのは判断できます。今回、浜の人間がビックリして上がってきた。「見たこともない引き波だ」って。私たちは先祖代々、「明治大津波がここまで来たよ」とか、「昭和のチリ津波はここまで引いた」と記録が書き物や何点かの石碑で残されていて、今まで受け継がれてきました。でもね、人間は50年もすれば忘れてしまう。さらに今回それをはるか上回ったということで、その石碑が飲み込まれているから、残っているものも少ないです。だから「今回これだけ大きな被害が出た」って、これから私たちが子供に伝えていかなければならない。

今、日本では、こんな凄い津波に遭ったので12.5mの高さの防波堤を造ろうという話があるけれども、今回来た津波は13.8m、高さが足りてない。それに私たち地元の人間のほとんどがいらないって言ってる。なぜか。波が見えなくて逃げ遅れたことが挙げられます。もし12.5mの防波堤を造っても、いつかそれを超える津波がいずれ来る。そしたら今度それ以上の防波堤を造るか? そんなことよりそのお金を別に使うことを考えた方がいいんじゃないって思うの。

もう1つ、高い防波堤を造ると、波が来て防波堤の中に入ったら、お盆のように陸側が海になって水が逃げないから、逃げ遅れた人は溺れるのさ。実はこの辺の陸前高田ってところは、今回、一番先に津波が来たところです。実際地震が発生から到達まで40分あり、充分逃げられるのさ。だからその逃げられる道を確保して、逃げる訓練をしとけばいい。

「今まで通りの2、3mの堤防でいいよ」といったのは、大方の意見なのさ。だって実際被害に遭った私たちは、やっぱ海見てないと不安です。海見て判断する。それは気象庁よりも、誰より我々は詳しいんだから。だからただ数字だけを見て、津波を経験したことのない偉い学者がおそらくそろばんはじいて、「今回13.8mの波が来たから、それに近い防波堤を造ろうね」って考えたんだろうけど。それより政府や自治体には、もっと地元の人の話を聞いて伝えて欲しいです。

先祖の教えは家に

我が家は旧家で、基礎にちょっぴりヒビが入ったり、瓦が落ちたりはしていますが津波の被害は受けていません。しかし、海から家まで直線距離で1kmぐらいあっても、波は100m手前まで来ました。それでも、この辺の部落は、70軒あるうちの半分は津波に流されています。やっぱり先祖代々ここに伝わる旧家、津波の来る心配も台風の被害も全部わかったところにうちの家はあったんだね。だから先祖代々の教えがあって家が残ったのだと思います。

ちなみに私達は地震によって倒れた家屋は1軒もありません。岩手県の北上山地、この南側は日本で一番地層が古く岩盤が固いと言われています。だから今回のようにマグニチュード9でも地震に対して怖いことは何にもないです。津波ってのはあるけどね。自然に対して何もできないので、従うだけ。所詮自然には敵わないですから。自然と仲良く付き合っていきましょうってのは私達の課題。だって津波来るってわかってんだもん。それが想像を絶する高さだったから大きな犠牲を出してしまっただけ。

スピリチュアルな知らせ

私の家には稲荷神社が2つ鎮座しています。ご本尊はキツネさんなんです。つまり蒲生家を守る氏神様。でも元々この辺の地域にはほとんどキツネさんはいない地域です。私も子もこの地域で野生のキツネを見たことはありませんでした。しかし、昔から我が家では「もしも身辺に何かあった場合、白いキツネが舞い降りていろいろと助けてくれる」という言い伝えがありました。仏様とかあまり気にしなかったんだけれどね。それから、今年の3月の上旬のある夜に、私と息子2人が車に乗っていると、野生のキツネが私の前でお座りしました。それは白いキツネではなかったけれど完璧に野生のキツネ。普通野生のキツネって人を怖がって人の目の前に現れないんだけど…。

もう1つ、震災当時、家へ帰る道は津波が貫通してキャンプ場から帰れなかったんだ。でもその時、閃いた道があった。キャンプ場は山の上にあるんだけども、小学生の頃に一度だけ学校からこの山の坂を登った記憶があったのさ。その時俺は小学校3、4年生で、5、6年のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちと10人くらいで遠足の帰りだった。お兄ちゃん、お姉ちゃんが「こっちにも道があるんだ」って言って、「んじゃそこに行ってみようか」って通って帰ってきた記憶がある。それを昨年の2月に、この道って通れんのかなぁってふと思い出して、偶然に40年ぶりぐらいに通ってみたら通れるんだなぁって頭があったの。で、震災当時その道を通って自宅に帰って、家族の全員確認ができました。もし、一度確認して通ってなかったら閃かなかったかもしれない。そのくらい子どもの頃薄らぼんやりした記憶なんだよ。今はもうないんじゃないかな。

コミュニティは大きな武器

3月11日から今日まで考えて、一番大切なのはコミュニティ。つまり人間ってさ、なんぼ偉くても、お金があったとしても、あの大災害の前じゃ何の役にも立ちません。3月11日に津波来て小友町を貫通しました。私のいた広田町、モビリアキャンプ場は半島のようなところなので取り残されました。みんな地元の人が山に上がってきて「どうしようか」という時に、みんなで集まって知恵を出し合いました。

実はその時カテーテルを入れている人や透析している人がいて緊急を要する人が数名いました。これは何とかしなきゃなんねぇと。このモビリアキャンプ場の仮設住宅になってる場所が、以前は野球場が1個できる大きさの芝生の広場でした。そこでライン引きを使って10mくらいの太い丸を描いて、その中にアルファベットの“H”入れることを考えました。それから上に“SOS”って入れました。上空に通るヘリに子どもたちやみんなを呼び出して、これでヘリを10台くらい着陸させました。「ヘリ来てるな」、「じゃあ上空から助け呼ぼう」って実行したのは1人じゃ考えつかなかっただろう。みんな同じ部落や地域でどっか見たことある人たちだから「ごはん、お米どうしよっか」、「じゃあ日が上がっているうちに俺がかけあってくるよ」って。みんなで集まってやっと生き延びたってのサ。それは昔からあったここのコミュニティが大きな部分だったと思う。それは本当に非常に大きな武器になった。

キャンプ場支配人からNPO法人理事へ

あの3月11日から昨日まで毎日状況が変わっていて、その時に必要な支援は、本当刻々と変わるわけね。3月11日には「おにぎりや毛布が欲しかった」とか。でも4月には何が欲しいか。「外に出かける車や夏になるから半袖が欲しい」とか。あとは「失業保険が切れる!」、「じゃ、どっからかお金欲しい」、「仕事が欲しい」と、刻々と変化します。そういうことはよく現地に入り込んでニーズを聞かなくてはいけない。そこでそれに応えるためNPO法人を立ち上げました。

でも、私も給料をもらってたわけではないんです。まず私は3月11日まではオートキャンプ場、岩手県の県立オートキャンプ場モビリアの支配人をしていました。震災当時、気が付いたら300人の人がここに避難してきた。そこで、モビリアは避難場指定は受けてませんでしたが、私の一存で避難所にし、既成事実を作ってしまいました。6月下旬くらいまで避難所の運営をしていました。ところが私は気が付いたら3月16日、解雇されていました。でも、この百何十人の家を失った人たちをどうにかしないといけないという気持ちは凄く強くて。ですが、県や市に何とかしたいって言っても陸前高田市は市職員の3分の1の人が犠牲になったので、市もそれどころではない。県もどうしていいかわからない状況になっている。そんなかで、「何とか支援したい!」との思いから、NPO法人「陸前たがだ八起プロジェクト」を立ち上げました。今は申請中で、失業保険をもらいながらですが、ボランティアとしてこの活動をしていますが、予定では2月の上旬に、本格的にNPO法人になります。

理由があって残されたから

2万数千人しかいない陸前高田市で、およそ10分の1の人が津波の犠牲になりました。誰が生きて、誰が亡くなったかなんて誰にもわからない。その中で私は家族全員元気。家もある。これって「お前さん、なんかやれ!」っていうことで理由があって残されたと思っています。「それってなんだろう?」と思ったら、自分の一番の夢っていうのは「広田のきれいな砂浜をもう一度見たいな」って。それにはまず復興させなきゃいけない。私達の子どもがさ、外に出ていずれ社会人になる。その時に「あの津波で悲惨な目に遭った陸前高田市から来たの?」っていうよりは、「あの酷い震災から見事立ちあがった素晴らしい町から来たんだってね!」って言わせたい。そういう風にしていくのが私の務めだと思います。その手段の1つがこのNPO法人「陸前たがだ八起プロジェクト」だったということです。

陸前たがだ八起プロジェクトの支援のあり方

今、仮設住宅の人達で仕事も何もない、特にお年をめした方は生きがいを失っているわけです。家流されて、下手したら家族を亡くした人もいる。あるばぁちゃんが私に言ってきたよ。「なんか生き残ってしまった。どうしたらいい?」、「いやいや、違うんだ。生き残されたんだから、他の人の分まで生ぎねばダメだよ」って。そういうふうにはいつも言ってんのね。そういう人たちってさ、せっかくもらった命なのに、そのばぁちゃん達もガッカリして部屋の中で鬱になっちゃって。阪神淡路大震災で自宅孤独死が神戸地区に非常に多かったの。それをまずはなくしたい。

あと今この仮設住宅にいる人達は、いずれは自分で家を建てて、もう一度もとの地区に戻る。その時に今、津波に流されず自宅で待機している人達とまたうまくやれるかどうか微妙です。仮設住宅にいる人にはいろいろ支援が行く。それで在宅避難者の方は「なんであの人達ばっかり支援してもらってるの」と凄く妬たましかったり、羨ましかったりする。「私達だって仕事もないし、家族も亡くしているのよ」と。確かにそうなんだ。でも支援者たちは、仮設住宅はまとまってるから支援しやすいからね。仮設の人達は「いいじゃん、あなた達は家があるから」って。そこの溝が凄く深まってます。だから両方の意見を聞いて、両方の気持ちを吸い上げることが大切だと思う。そして、いずれはこの仮設住宅の人達がまた地区に戻ってうまくいけるように、コミュニティがうまく形成できればいい。そういった支援のあり方を模索しています。

キャンプ場を利用して

このキャンプ場は、全国で10個しかない5つ星のキャンプ場の1つです。自慢のキャンプ場でした。だけども、おそらく二度とこのキャンプ場としては復活しないだろう。なぜかって言ったらば陸前高田市はまず、平地がない。家を建てる場所がないのでとりあえず今、家を建てることに専念していますが、お年寄りなどの生活再建の難しい人が残ってしまうだろう。その時に学校はいつまでも仮設住宅として使えないから、そういう人がこのキャンプ場に集められて、公営住宅になるのではないかと予想してます。

本当は仮設住宅ってのは2年3ヶ月っていう法律があるんだけれども、延長して1年、3年って言われているんですが…無理です。陸前高田市は、最低5年。下手したら10年はかかるでしょう。それでも今後も支援を続けていきたいです。

old_tags_text
a:5:{i:0;s:24:"その他サービス業";i:1;s:5:"40代";i:2;s:9:"NPO理事";i:3;s:6:"Pickup";i:4;s:36:"岩手県陸前高田市田束地区";}
old_attributes_text
a:0:{}
Flagged for Internet Archive
Off
URI
http://kikigaki101.tokyofoundation.org/?p=2422
Attribution URI
http://kikigaki101.tokyofoundation.org/?p=2422
Thumbnail URL
http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11174889/kikigaki101.tokyofoundation.org/wp-content/uploads/071-top.jpg