吉田幹夫(よしだみきお)と言います。64歳、昭和22年10月30日生まれ。妻と、それからあとは男の子2人います。息子だけです。27と、いや28と26かな。今ね、息子は岩手県の北上にいます。次男は同じ岩手県の紫波(しわ)という所にいます。どちらもここから2時間くらいの所です。まあ、何かって言えば来ます。今、長屋の仮設に妻と2人で住んでます。
職業はもう無職です。以前は、教員やってました。小学校です。
私も妻も岩手の小学校教諭
私は生まれはね、この町内、小友町(おともちょう)。このあたりで生まれたんです。妻は同い年です。もう今から34年前に結婚した。妻は同じ短大上がってね、それで10年ほど東京のほうで教員やってたんです。私は初めっからこっちで。
小学校の教諭だからね、まあ全教科教えてて。担任ももちろんしたけどね。定年1年前に辞めたから、えーと、39年間やったのかな。私は短大を上がってからだから、20歳から39年間。
息子2人は先生に・・・なりたければなればよかったんだろうけど、なりたいって言わなかったから、好きなようにさせてますけどね。大学へは行きたければやろうと思ったんだけど、もう勉強するのが嫌だって言うから、専門学校にしましたけどね。上の子は介護福祉の仕事、2番目は、生産技術の仕事をしています。
親父、お袋
両親は、ここに住んでたんだけど、親父は14、5年前に亡くなったし、それから私の母親も、ここの仮設に一緒に暮らしてたんだけど、10月の17日にね、ちょっと病気で亡くなった。6月頃にね、病気を見つけてもらって、それから4ヵ月しか生きなかったね。それまでは元気だったんですけど。病院は…入院しないで、県立高田病院の訪問診療で、週に1回か2回、ここに来て診ていただいてて。今日の午前中も、その関連の買い物したり、色々いただいた人たちにお返しの品物を発送したりっていうので、大船渡の方とか、米崎町に、出かけてたんです。まあだいたい今日でその関係のことは終わりました。
お袋は、やっぱり学校で養護教諭をずっとやってて、保健の先生ね。あと親父は、大工とかやってたんです。私が教師になったのは、お袋に薦められたって記憶もないんだけどね、自然にだろうね。
広い岩手を回ったんです
私はね、初任は盛岡だったんです。短大上がってすぐ盛岡で、それから、室根村(現在の一関市)に。それから葛巻町、それから安代町(あしろちょう)に行って、それから県北の軽米町(かるまいまち)。そして岩手町に来た。最初の5年間はね。
あとの6年目からはずっと、1つの学校に3年から、一番長くて6年いた。で、回って歩いたんです。陸前高田に出てきて、その次は、大船渡市。大船渡行って、次は教頭になって、また、一関市に行ったんです。そして、そこを3年やって、また、陸前高田まで戻ってきて。そういうふうな感じです。
だから学校だけで言えば、えーと、何校回っただろうな、10何校まわったことになる。全部公立ね、市立とかそれからあとは町立とか、そういう所だね。
教師時代、楽しかったですよ。教頭はクラスは持たないけど、その勤務してる学校の事情によっては、5年生の理科を受け持つとか、書道の時間を受け持つとか、そういう事は小さい学校の教頭になるとあるけど、大きい学校になるとないですね。
中学校の先生みたいに空き時間ってまずほとんどないんです。朝行って、8時15分から始まると、もう夕方4時半頃までは全然空きがない。
小学校は、遠足、社会科見学っていうと、5年生6年生っていう子どもたちは、盛岡に行って、県庁行ってみたり、裁判所行ってみたり、科学館あるいは博物館行ったりね。修学旅行っていうと、このあたりは、仙台、松島。あっちの方。
少ない子ども達
1クラス、今はね、14、5人ってとこですよ。この辺の小友地区は1学年1クラスで小学校6学級しかない。けどね、あと5年ぐらい経つと、うんと少なくなって、2つの学年を1つにするっていう複式学級ってあるんですけど、そういう風になりそうなんです。
だから今計画されてるのは、広田の小学校と、小友の小学校と、米崎の小学校を一緒にして、1つの学校にするって言ってて。中学校は、来年度か再来年度かに、広田、小友、米崎の中学校を1つにするって。話題に上ってきたのはこの10年前くらいからで、統合するっていうのが、まあ、3、4年前から出てきたんです。ほんとはね、この4月から、小友町の中学校と、米崎の中学校が1つになるはずだったんです。それが、津波で小友中学校も小学校も被災してしまったんです。中学校はもう全部だめ。広田中学校も、津波で水が入ったし。小学校はかろうじて、被害はなかったけどね。
でもまあ、適正規模じゃないのかなと思うんだけどね。小さい人数で、先生の目がよく行き届いて。良い面もいっぱいあるんだけど、やっぱり子ども達の社会性を育てる為には、多い人数の中で色々切磋琢磨した方が。あるいは、子ども同士の交流があった方がいいんじゃないかな。そういう面を考えれば、それぞれ単独でやるんじゃなくて一緒になってやりたいという、まあ、教育委員会側の考えもあるし、親たちも、そういう風な考え方に変わってきてるんですよね。学校が減っちゃうのは悲しいけどね。
地域みんなの運動会
運動会なんかにも少人数が影響するのね。だって、この間も、小友中学校の運動会見に行ってきましたけど、37人だかの全校生徒で運動会やってんです。
種目は、徒競争だったり、マスゲームだったり、チャンスレースがあってみたり、綱引きとか、地域の1つのおっきなイベントっていう捉え方してるから、親も一緒になって走ったり、親子レースがあったり。
矢作町なんかの小さい学校は地域をあげてやるんです。だから地域の人たちも行って一緒に運動会。矢作小学校も3年勤めたから見たことあるけど、昔から人数が少なかったから、子どもたちだけの種目だと1時間か2時間くらいで終わっちゃうわけ。それに、子どもたちだけの種目だと疲れちゃうでしょ。だから、大人も入って、大人の団体レース、リレーとか、踊りがあってみたりね。
学芸会ってあるでしょ。それもPTAの人たちの劇まで出すんです。だから練習の為に矢作の方では普段から地域の人たち集まりますよ。そういう時期になると集まって、打ち合わせをして、練習して。学校に集まってやる場合もあるし、それぞれの公民館でやる場合もあるし。地域の交流も盛んになるし、顔見知りも増えるしね。
子どもの遊び、私の頃と今の時代
私達の子どもの頃は、それこそ、山に行ったり、夏は海に行って泳いだり、大きくなってからは海に魚釣りに行ったり、そんなことして遊んでましたけどね。今の子はそんなことしない! 小学生頃になると、平日は学校に行って、土日はスポーツ少年団で、男の子は野球やったり、女の子はバレーボールやったりしています。子どもの人数が少ないから、全員が野球少年団で、全員がバレーボール少年団みたいになってる。大きい学校になると、そんなことしないで、塾に通うくらいで、あとは自分でスポーツやるっていう子どもも結構いるんですけど、小さい所になってくると、まあ、ほとんどって言うほどそうなの。
だから、全然、今の子たちはね、自分で考えて工夫して遊ぶことないんですよ。みんな大人がお膳立てしたそういうものでしかやれないわけ。自然はあるからできないことないのにね。私達は、習い事なんてほとんどないから、学校から帰ったら、玄関の所にランドセル置いて遊びに行ってね。
3月11日
私はね、当日は、ショッピングセンターに買物に行って、駐車場で地震に遭いました。駐車場のスペースに止めようかなってスーと入ってったら、ガタガタ揺れ始めた。駐車場のアスファルトがうねる程の地震で、それが収まってからすぐに道路に出て、急いで逃げてきたんですよ。そして、アップルロード(米崎町と小友町を繋ぐ道)を通って、自分のうちへ来たんです。必ず津波が来ると思ったからね。
津波が来た時、うちの女房はすぐ後ろが高台になってるから、その高台に逃げたんです。私はもう車を助けなきゃならないから車に乗って逃げたんです。
息子に連絡ってね、被災して4、5日間は2人して連絡取れない。でもまあ、なんとかかんとか、別の携帯が通じるところへ行って連絡取り合ってた。
顔見知りだから心強いよ
そのあとはこのモビリア(現在仮設住宅のあるキャンプ場)に来てセンターハウスに避難した。まず、ここに避難したのは、小友町の同じ部落の同じ町内会だからみんな顔見知りで、お友達で、そういう人たちだけが避難してたの。だから心強いよ。みんなはね、もう車流された人もいるし、様々だけど。まあ、みんなモビリアまでは歩いて避難したんだよね。
私は車が助かってあったから、お年寄りたちを乗っけてモビリアまで連れてったんです。みんな無事でね。この地区で、この地区にいて津波に遭って、亡くなった人は、1人だけかな。で、まあ知り合いなんです。それで、あとはほら、この地区から高田町内に買物に行ったり、勤め先で被災して亡くなった人もいっぱいいるんです。それ入れて9人くらい亡くなったんです。
今まではね、ボランティアさんたちが、お年寄りを集めてセンターハウスでお茶の会なんかをに月1回くらいやってくれて。今度は、この集会所が出来たので、ここでやろうって事になってるんです。こういう所が増えた方がいいよね。
仮設住宅に入って
仮設には私は6月の17日から入ったんだけど、この地域で被災した他の人たちは、7月の上旬に入ったね。私は、母の病気があったので、部屋も決まってんだから、すぐに入りますって言って入りました。主に、女房が看病してくれてたんですけどね。
この時期寒くなってきましたけど、そんなに不便は感じないです。義援金もいただきましたよ。少しでもありがたいものですよね。テレビ、冷蔵庫、電気ポット、ガスレンジ、洗濯機、布団とかね。こたつは自分で買ったけどね。それらぜーんぶ備え付けであって、すぐに生活できた。食器まであったから。
このあたりは過ごしやすい、いいところだよ
この土地も、いいところだったんだけどね。箱根山っていうのがあるんだけども、そこに登ると、この広田湾が一望に見えるので、そこからの眺めもいいですよ。
米崎町に普門寺っていう古い大きなお寺もあるんです。あと、氷上山っていってね、ここも眺めいいんですよ。874メートル。海も一望できる。
昔から、畑なんかもあるけどね、何軒か家があって。まあこのあたりの人たちは、海の仕事をしてたし、養殖、漁業ね。養殖は主にホタテと、それから、カキ、ワカメ。特にカキなんかは有名だったんだけどね。
岩手の小中学校はね、夏休み期間が24、5日しかないんですよ。夏休みも、冬休みもそれくらい。だから、東京とか、神奈川とかから見れば、冬休みは長いよね。12月の26、7あたりから、1月の18、19あたりまで休みだから。
でも、ここのあたりは雪は降るには降ってもそんなに量は降らないの。積ってもまあ、15センチとかで。だからこのあたりは、あったかくて、過ごしやすいところだよ。
7万本の松が全部流されてなくなった
妻と生まれた場所で住んでたんですけど、津波で全部流されちゃったから。
ここはね、高田松原海岸って言って、気仙川から海岸線までだいたいずーっと砂浜だったんです。泳いだりもできるし。だいたい2キロの砂浜があって。そして海岸線に沿って7万本くらいの松林があったの。その7万本の松が全部流されてなくなった。たった1本だけ残ったのが「希望の松」て言うのね。でももう、枯れはじめて…枯れてしまったんじゃないかな。
線路もめちゃくちゃにやられて、駅舎もないよ。特にひどいのが、この小友駅の集落はいっぱい家が集まってる所だったんだけれども、すっかりやられちゃった。陸前高田は中心地で活気もあったわけ。魚港もあって仕事もあるから。それも全部やられたからね。
漁業は大変なんです
養殖、漁業とかって言うけど、広田の方でもそうだけど、みんな年寄りがやってるんです。農業もそう。親子代々っていう家はまず少ない。だから、広田半島っていう所はね、海に囲まれてるから、昔から漁業の町だったんです。ところが今ではもう、ほんとに少なくなってる。やっぱり親の苦労してる姿見てるからね。親もまた苦労させたくないと思うから、無理してそれをやれとは言えないんですよ。
機械化が進んでも、それでもやっぱり大変なんです。でも少しずつでも復興させていかないと、この地域の活性化にもつながらないですからね。
家建てるとしたらやっぱり同じこのあたりがいいね
早く復興してほしいね。早くったってあと10年も20年もかかって復興していくんだからね…。
家建てるとしたらやっぱり同じこのあたりがいい。このあたりの高台に建てようって言ってる。まあ、どうなるか。もう来年でも再来年でも、早ければ早いほどいいんだけれど。全体の復興との絡み合いから、私達が家を建てて出来上がるのは、4年なり5年なり、先になるんじゃないですか。あとはまあ、家がなくなったので、私達夫婦だけだったらば、どこに住んでもいいんだけども、子どももいるから、それらの為にも、やっぱり、どっかに家建てなきゃなんないのかな、と思って、まあ、4、5年後あたりには建てようかなって思ってるけどね。
このあたりで花つくったり野菜つくったりしたいね
結婚してからはね、農業のまねごとをやったりしてました。畑と田んぼは、実家のあたりに畑があったので。主に花づくりです。いわゆる切り花として、売りに出す。冬用のビニールハウスを持ってたから、その中でフリージアをやってたね。フリージアが終わると、夏はトルコキキョウ。後は、お盆にあわせてアスターとか菊とかを畑で栽培してね。花づくりは、好きって言えば好きなんだかね、うん。
始めたのは何年前だろうな、14、5年前からかなあ。今はやってない。だってね、すっかりその畑も、全部津波にやられてしまったから。だからね、来年あたりからちょっと畑を整備して、昔ほどではないにしても、少しずつやりたいな。奥さんもまあ、そう思ってるんだと思う。だからね、このあたりで畑つくって、花つくったり野菜つくったりしたいね。自分のうちで食べるくらいの野菜などをつくったりして、余生を過ごそうかなと思ってるんです。