海と波の音と共に陸前高田で暮らした日々

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元旦にお盆には海苔巻き、お稲荷さん、そして、おふかし。今はお店で買えるけど、うちで作るんだよ。昔は正月にお餅つきしたの。今のもんは機械だけど、私もついたの。
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Tokyo Foudation
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岩手県陸前高田市田束地区
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Interviewee: 佐藤カヨ子さん, Interviewer: 浅野奈緒子
Language
Japanese
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Japanese Title
海と波の音と共に陸前高田で暮らした日々
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家族と私と家

私は昭和7年9月26日生まれ。なんぼだべ。78歳。9になるよ。今のとこ、私が1人仮設にいるし、孫は女の子が仙台にいる。男の子は東京にいるよ。次男の息子が東京。長男は茨城にいる。三男は埼玉。男ばり。次男のふみおの妻は私と2人で一緒に住んでたが、津波で流されたの。次男は単身赴任して正月ばかり、帰って来る。孫も一緒に住んでいない。だから、私の旦那さんが亡くなってから、頑張って、お嫁さんとずっと2人で暮らししてたの。

うちは(仮設住宅のある)モビリアの下の海の傍。近くには弁天様って島があって、ここらへんの神様があったんだけど、鳥居も今回の津波でなくなったの。家はチリ地震の津波も食って、その時は2mぐらい上がったから、家の下に土を盛って、家を壊さないで家を上げてもらったの。でも、今度は流されてしまったの。昭和32年に建てた家で、それで昭和35年にチリ津波。息子も昭和32年生まれで思い出の残る家でした。ガラスも壊れてしまったの。食べ物も何もかも流された。今は何もない。山ばし。

地震の時はね

高田の店さに、おば使いに行ったわけ。電気が切れたから、高田松原のマイヤの中のリップル(スーパー)に買い物に行く途中で、色んなところから来るみんなと乗って、巡回バスにいた。地震が来た時はガタガタ揺れて、怖くて逃げられなかった。スーパーも流されてどこもかも流されたの。車もなくなった。みんな一緒に松葉の高台さ逃げたの。みんな1人で歩かれねんだもん。引っ張られて。そうしてるうちに津波にこっちとあっちと両方から囲まれてしまったの。高台の山の方に行ったけど、足元まで水が来てしまったの。建物の上より来たの。みんな疲れてしまったから椅子さ作って座ろうとしたけど、椅子はみんな流されてしまったの。後ろから押したり、ひっぱったり、ロープさ引っ張って「上がれ上がれ」って。今度は山まで崩されてしまいそうだから危ないと思って、もっと高いところへ逃げたの。雪が降って寒くてみんな滑ったり転んだりしたの。みんなで助け合ったりしてハシゴかけたり協力したの。病院だってヒビが入ってさけたの。

一緒に暮らしたお嫁さんと東京から来た孫

お嫁さんは働き行ってたの。警報さ鳴ったから、家に戻ってきたんだと。家さ大事な物取りに入ったんでしょ。家の中で死んでたんだって。50m先に流されたとこ、自分ちのスギの木もあって、そこの周りにいたんだって。みんな消防団とかあじあじと(10日も2週間も)探し回ったの。息子は東京さいて連絡取れねんだもん。うちの孫なんて、お母さんいなくなったから、野宿しながら、チャリンコで東京から来たの。でも、そん時は見っからねえから、高校の友達と何人かで探したの。モビリアさ泊まれないから友達の家に泊まって。他の友達も流れたからって、友達と一緒に探し歩いて、他の高校の友達を2、3人も見つけたって。お母さんいねえから孫も必死で。お母さんも大事だし、友達も大事だし。道路がなくなって、ガレキの山を歩いて越えて、「おばあちゃん大丈夫か」って、嬉しいもんだか、びっくりしてしまった。チャリンコで来て、会いに来てくれて元気が出た。そん時は嬉しかった。それからお母さん、なんぼにちも見つからないから、消防・警察の人は見つからないって言ったって。モビリアから早く下に行きたくて。車で行こうとしてもないから、ガレキの上を這って行けって。例えばほれ、あそこのお寺、正徳寺に行ってね。そこで世話になってたの。お寺さんに連絡取って、ここに来てるからっていって、その後2人で買い物に行ったの。浜の方まで行ったの。行く道はないから別の道路を歩くようにしてもらって、車で回り道してずーっと来たの。

陸前高田を離れて

2、3日後、具合が悪くなって、ドームさいらんねえからって孫の仙台とこさ1ヶ月さいたの。5年前に胃の手術をしたから、薬も飲んでたんだけど、津波で流されてしまったの。仙台に行ったときにいっぱい薬もらってきたの。助かったの。

仙台さ、みんなアパート。知らない人ばっかりで1人で寂しかったんだ。1回だけ、アパートの近くで奥さんと話せて嬉しかったな。仙台の病院で脳梗塞の薬もらって、お医者さんと話したの。お医者さんはモビリアに4回くらい来たことがあって、松原の周りも知ってたみたい。それで、漁さしてたところも見たことあるみたい。そういう話が出来て嬉しかった。さっきの奥さんも盛岡から来て、家建てたんだって。都会さ行くと知らない人ばかりで田舎の人はおかしくなる。孫も務めなきゃいけないから、戻ってきたけど、こっちに帰ってきて、みんな知ってる人ばかりで楽しかった。みんなで寝て、お話もして、朝と夕方、散歩もして、嬉しかった。人と話していないと、ここにいても寂しかった。だけど、海ばかり見てたから、ここは山と空しか見えないから…。

私の幼少時代

俺は4人兄弟の一番の末っ子。可愛がられたんだべか。俺のお父さんは大工でさ、九州だ熊本だ行ってね。出稼ぎだから、お父さんとあまり会ってないもん。お母さんは戦争終わったくらい、小学4年生くらいに亡くなった。戦争当時は食糧難だから、学校でも家でも農業して、ごみを肥やしにして、ジャガイモ蒔いて、昔は開墾した。前の家も山のそばだから、小さい頃からうちでも百姓だったの。兄さん夫婦が親変わりになってくれた。兄さんは兵隊に行って、奥さんが親変わり。もう1人のお兄ちゃんはお酒飲みで、もう1人も病気でなくなっちゃった。当時は忙しくてねえ。誰も男もいない。だから、おらぁ中学校に行ったけど、暇もらって早く帰ってくるの。そしてほらぁ、兄貴の子どもがいたから「おしん」と同じで学校に連れてって、そしたら泣くでしょう。大変でしょう。弁当食べさせてあげて。中学は2年までしかなかったから、卒業して、家のお手伝いしたの。

18歳で嫁いで―田んぼ・畑・海―

お嫁に行ったら浜さ行ってしまった。お嫁には18歳だべか。21歳で赤ちゃん産んで。3人の子どもを持った。昔はほらさぁ、お見合いとかでもなくて仲人にもらわれたの。今の人たちみたいではないの。鳥嶋ってとこの同じ須谷(そうや)部落の2つ上の人と結婚して、そりゃ大変なとこにいたの。昔のことだからいっぱい兄弟たちがいて、7人も8人も家族がいる次男と結婚したの。昔はミルクとか買えないから、本当は子どもがいっぱいいたけど、小さいうちに亡くなったの。ご飯も大変だから、炊事当番も作ったの。お嫁さんだもん、お母さんやお祖母さんがいるところだから、知らなかった漁業もやって、一生懸命働いたの。やらねったって、やらなきゃ、覚えねえもん。頑張って働いた。馬から牛とかいたから、草とか運んだり、土地がいっぱいあって良かったけど、大変だったなぁ。山から田から畑から。

4、5月は田植え。夏は畑、それから、草むしりもいっぱいやるよ。稲刈りが終わってから漁業をやるの。うちのあたりも日が当たらなくて、海風も寒いの。だけど、畑もモビリアのとこいっぱいで一町歩くらいあって、歩いて坂を上って畑をやったんだ。働いたんだよぉ。家事も仕事も子育て3人やってさ。孫は2人いて。頑張ったよぉ。洗濯もして、寝る暇もなかったよ。一番いいのは夏の浜で涼しいし、みんなで賑やかなんだ。

自慢の海の幸と漁業

今は自分の分だけしか料理しないけど、ここはお魚とか美味しいの。昔は鮭、カキ、ワカメから小魚とかね、獲ったの。それで、そりゃあ煮たり焼いたり。何が一番美味しいのか決められないよ。みんな美味しいよ。鮭は焼いてね。あとイクラね。冷凍してあったのはみんな波に持ってかれてね。ちょうどイクラの時期で…。ホタテは焼くのが美味しい。醤油をつけなくても塩味がしておいしいの。浜のそばだからね、魚とかよく食べたね。いつも何かあるの。今は買って食べる。昔はいっぱい獲ったの。

ワカメはしゃぶしゃぶにして食べると美味しいの。何をつけても美味しいの。ポン酢でもワサビ醤油でも。ワカメは採ってきたら塩蔵っていうのをして、くるくる巻くの。ワカメは捨てるとこはなくて、茎も食べるの。茎は湯通しして一晩置いて、底取るの。それはそれで出すし、茎こは茎こで出すの。芯も食べるの。一晩置いて、塩とって。調理して、煮たり、さまざま。メカブも美味しいね。ここら辺の人はみんな食べるの。

海苔もやってね、釘指して、網を張ってね、種作って、それがだんだん伸びてきてね。寒い中、海に入ってね、寒かったの。それを3月頃に採って摘んでね。11月12月にワカメもなの。カキも冬。剥いて背負ってそれを売りに歩くの。それは売れるの。新鮮なんだよ。10月頃から始まる。カキのときは2時3時に起きるの。1枚ずつすいて、短く切るからさ。朝のうちにやるの。そうしないと昼間に担いで売りに行けないの。全然寝れないね。浜の人は忙しいし、みんな寝てないの。寝る暇もない。だから、少し早めに7時8時に寝るの。海苔の時期は寒いの。寒い水の中に入るの。浜の人はお嫁さんがいないって困ってたもんだ。だから、うちも浜さやらないって言ったもん。だけどやったもん。やらないって言って嘘つかれたんだ。昔は早くお嫁にいったから、55、56歳まであくせく働いて、青春とかないんだよ。

正月やお盆は大御馳走

元旦にお盆には海苔巻き、お稲荷さん、そして、おふかし。今はお店で買えるけど、うちで作るんだよ。昔は正月にお餅つきしたの。今のもんは機械だけど、私もついたの。お餅はクルミ、ゴマ、あんこ。クルミは落ちてるから、いっぱいある。ネズミ・鳥が落としたやつを採ってくるの。昔はお盆にも食べたよ。季節になると、食べものがあってね。自分で昔はゆべし、がんづき作ったの。ゆべしは粉で練って、味も色々やって、みんなやるんだよ。羊羹にするので、まずはテン草を寒天にするの。海に生えてる草を洗ってね、干して。水でしいて煮つめて、回して、その煮汁を入れると、固まってくるの。何も入れないようにしてね。浜の草もすごいね。今でも作り方は分かるよ。今のもんは分からないね。私も歳とってからはもうやらないの。みんないないし、1人で食べてもつまらないもんね。だから今は買ってくるの。

東京からみんなが来るかなぁ

毎年、盆・正月は家族が来てたの。今年は電車もないしさ。陸前高田までバス通るって言ってたけどね。モビリアの電話番号も教えてあげたの。正月も来るって言ってたから、楽しみだけど、雪が降ったら来ないんだって。冬は雪が降るからね。みんな雪の中、歩いたことないからさ。駐車場もなくて車も置く場所もないね。みなが来るかな。来てほしいな。みんな帰ってくるといいな、と思ってるの。

これからは

息子の東京さ、行こうと思ったの。そしたらみんな、行ぐな、行ぐな、って言うから、行くの諦めたの。「行くときは一緒だから」、って抑えられて、負けてしまったの。みんなと一緒にいたかったけど寂しいの。私は浜ばっかりで育ってたの。昔の夏の浜は、みんなで賑やかだったもん。海の音を聞かないと落ち着かない。海ばっかりだったから、上に上がってみると安心するよ。でも夜になると、やっぱり寂しいし、色んなこと考えるの。お隣のおじいさんも息子亡くしてるから、お隣も寂しかったべ。私も寂しかったですよって。私よりも若いもんだったしさ。夜いっぱい泣いたの。おばあちゃんになって骨と皮ばっかりで、目も緑内障だし。寂しくて夜寝れないから、痩せたの。薬も強くしたら、目が重たいの。散歩程度ならいいけど痩せてしまうから、先生にもあんまり歩くなって言われたの。

だけど、もう東京に行くのは諦めたの。自分の知らない人ばっかりで寂しいの。行く時は一緒なの。1人で仮設に住むのは寂しい。でも、人が近くにいるから怖くなかったからいい。お友達もいるし、みんなでお茶っこしてね。天気がいい日にみんなで今やるの。あれは楽しいもん。

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