自己紹介
名前は千田ユリ子(ちだゆりこ)。生年月日は昭和15年7月8日。現在71だ。出身地はね、陸前高田市小友町(おともちょう)なんですよ。家族構成は、息子とお嫁さんと孫3人の6人家族です。
浜での仕事
もう、8年、10年浜やって、卒業だ。朝も起きるの早いから。2時に起きてって、小屋さ行って、ストーブ火点けて、船さエンジンかけて沖さ行くってば。んでもう4時になるんだ。痛ましい手なのよ、カキむいた手だから。この津波来ねばねえ、もっともっと浜行かったのに。腰曲げて、船さ乗っかって、昆布狩りに行くんだよ。ワカメからカキから。ワカメ終わって、一番最後に、昆布あんの。4月の末から5月にかけて。そしてその前には、2月末から、ワカメ。1カ月から40日ぐらいだな。それで生活してたの。それにこんな津波、来るものね。もう、顔も身も白くなって、目見えなくなるようだった。何で生活してたらいいって。
孫のバレーの大会に行くのが楽しみ
小学6年生の孫は、小学3年生からバレーさ入れて。土、日曜日が、バレーの大会があるから。私ぼっかげてって(追いかけて行って)、応援に歩いています。それが今度の、12月の18日で、6年生のボールの納めだと。この間新聞だのテレビさ出たが、うちではほら、キャプテンだから。ぼちぼちさ行って来ました。ばあちゃんは何処さも行けねえから、ぼっかげて応援して、親子で。それ一番の楽しみになったねえ。あと中学校さ行けば、中学校もバレーやるっつうから。バレーが好きだねえ。バレーもやるべし、勉強もやるべし。「成績も、上の方さ上れよ。」って俺言ってんの。バレーさ入ったからって、勉強が下がってもいけねえから。
震災後―船は流されたけど、家は残った
俺のうちは高い所にあるで、この頃(最近)建てたから、震災が起きても、残って。柱だの、土台が、基礎がしっかりしてっから、丈夫なうちで、残ったの。家の中の物は全部流されたけんども。
船は2艘流されたの。工場(小屋)も2棟流された、作業する工場と養殖の工場が。私、浜やってたから。11月の14日から、ワカメ始めるために。ほんで、ワカメ煮る釜から、タンクから、全部出してたとこさ、地震来たの。そして、俺の孫3人と、高いとこさ避難したの。
田んぼも駄目。そして、防波堤が壊れたから、塩水が来るの。もう、1日1回ぐらいが満潮になっから、海みたいになるのよ。逆流してくっから。んだからそこを、防波堤早く作ってもらえば、田んぼも何も水入んないでしょ。んだからそこを、市長考えてくんねえかなあって言ってんの。
津波で失った飼い犬、ミリ
津波が来た時、留守番の犬、引っ掛けておいたの。そいつがね、鎖引っ掛けといた状態で、忘れたのよ。8年もなる犬。もう、間に合わなかったんよ、私は真っすぐに高いとこさ行ったから。大きな、大きな犬。宝の犬。それで孫は、「ばあちゃん、犬見ない方がいいよ。犬にうなされっから」って。私が育てた犬だから。んだけども、3日目にうちさ、下がって行ったの。そしたけん、鎖のまま、小屋のとこから出張って、グッデーンと波に揺られてたの。波に揺られたから、犬の毛が。ほんで、犬の名前がミリっつうんだから。孫が付けた名前。「ミリー、ごめんなさいなあ。ばあちゃんが鎖外すの忘れた…」って。
留守番の犬だから、利口なのよ。普通の犬と違うからね。私達が朝暗いうちに出張って、夜暗くなってから浜から帰って来る。だから、犬は留守番なの。そしてその犬が、夜来ると、来たか、来たかって首長くして鳴くんでがんすよ。犬も跳び付いて来たの、喜んで。だから今回は、浜も辞めたし、田んぼも作られねえから、「犬引っ張って、散歩で歩け」って、息子は語ってんの。でも、犬飼う無駄な金も無いし、どっからか犬来ねえかなって、思ってんの。ほんで、やっぱ私、犬の方がいいのよ。犬が力になって、散歩に歩くから。
震災後―少ない食べ物を孫と分けて食べた
3月11日、雪降る中、俺と孫3人で、物資でもらった毛布をくるんで、頭からがぼっと被せて、3人の孫を私が抱いたの、1週間。赤十字の毛布あるでしょ。それ10枚、近所のじいちゃんが、「ばあさん、孫とかわいそうだから、ほれ」って、箱でもらったの。そいつほぐして、頭からがっぽり被って、囲まって、昔の炬燵みたいにして。昔の子達みたいに足さ、毛布くるんで。
ほんで、食べ物もその頃は来なかったからね。1週間以上経ってから、自衛隊が持って来たった。んでも、最初はおにぎり1つずつ、配給なったです。パン配給なったり。今の食べ盛りだと、パン1つで間に合わんって。孫が高校生と小学6年生と小学3年生だから、食べ物が間に合わないでしょ、喧嘩するようになるんだ。分配してやらねばねえもの、おにぎりとパン1つ。あと、ゆで卵。食べても、食べても腹減る。育ち盛りの子供達だもん。「これ食べろ、食べろ。ばあちゃんは後でいいから。あんたとは食べて、生きていかねばねえんだから。パパさ手伝わねばねえんだから、食べろ、食べろ」って。ババアのアドバイス、大きかったべ。
ほんで、鳥がヒヨコ扱うようだった。口がパクパクって、孫だよ。毛布くるんで、そして、くるまったとこさ、「ばあちゃん、おやつ、ほら」って。1つのパン、3つに分けて食べた時もあったぞ。1人が食べたいって言えば、あとの2人も食べたいって言えや、1つを3つに割いて。おにぎり1つあったらば、3人いたらば、3つに分けて。飴っこが1つあったらば、包丁で叩いて、そして口さ入れんの。その頃は店も無いんだもの。今だから店出てたけ、だんだん日が経つに従って、食べ物も来たども。その頃は、1週間、10日ばかりは来ないって。来たけども、大量でなかった。
震災後の通帳や家の対応
津波来た時は、大事な物取ってるうちに流されたかもしれない。ほんでもう、大事な年金の通帳とかは、私しまっておいたのさ。それが潮水入って、泥入って。ほんで、通帳は仮設で洗えねえから、ティッシュで拭いて、そして日当たりさ、干した。そして、郵便局さ行って、解約してもらったの。
そして、家では中のタンスまで泥水入ったんだから。洗濯機だの、冷蔵庫だの、テレビだの。そして、置いておけば置くほど、白くなって。臭えから、全部出して。そして、大工さん頼んで、天井裏から床板から、全部はがして。そして、スコップでごみ取りして。泥水だ。なんぼ水かかったべなあ。そして、家の下さ、田んぼから取った米の袋、被さってたったの。それを引っ張って。そして、外さしばらく置いたの。今度は鼠だの雀が食って、袋が破れて。そしてボイラーも潮水入れば使えねえの、錆びてしまうから。その場で外せば良かったんだども、3カ月も4カ月も置いたから、ボイラーね、錆びてしまったの。使えねえのよ。だからあとは全部、水道屋さんが呼ばって、全部新しく取り替えて。電気から何から。大金掛かったべ。家建てるぐらい掛かったんでね。風呂場から、手洗い場から。しょうがないな。
お世話になった、警察やボランティアの人達との思い出、思い
震災後は、自衛隊だの、ボランティアだの、警察とか来て。うちさ寄って、話を語ったり、お茶っこ飲ませたり。それが一番の楽しみだなあと思ったった。警察とか来て、腰かけていくんですよ。この間まで来たけんどもね。おかげ様で、ボランティアの有難さ、一番分かった。
7月の30日に市の水道の水が来てから、8月の1日から6日まで、ボランティア頼んだの。水が来ないば、うちを拭けないべ。障子から柱から拭かないと。1週間通ったもの。「あんた達の親だと、子供だと思ってっからよお」って。そして、お世話になりした。「おばあちゃん、漬物美味しいから、来年も来たらば、食べさせろよ」って。「漬物漬けておくから、俺も忘れねえからよお」って。すいとん作ってかせた(食べさせた)の。大きな鍋さ。「ばあちゃん、これ初めてだ」って、写真撮ったっけ。美味しいったっけ。「おばあちゃんの愛情が浮かぶ」って。看護婦の2年生、そして看護婦の先生も来て。夏休みさ入ってから、大学生の先生も来たった。そして、写真撮ったりしていった。「お正月にも来いや。待ってっからよお」って言ったっけ。1週間も通うとな、我が子のようだべっちゃ。あと、車さ乗って、姿見えなくなるまでバイバイしてやった。「ばあちゃーん、元気でねえ」って。「おう、元気で頑張れよ」って。まず、皆さんのおかげ様だ。全国の人達のお世話になった。何だかんだ言って、物資は来たべしさ。本当に、死ぬまで忘れられないね。
あと、千葉の警察、2台来た時もあったね。うちが川のそばだから、死体が上がってっかと思って、見に来たんだよ。そして、「何にも無いけんども、お茶と漬物でもあるから、どうぞ」って言ったけ。最後には、「おばあちゃん、元気でね」って、握手していった。本当に、優しい警察だなあと思ったったの。1日に何人来るか分かんなかった。大層お巡りさんが来たね。栃木だの、千葉だの、埼玉だの、岐阜だの。だからまず、元気で、お互いにね、「どうも、御苦労さんです」って言ったっけ。まず、無かったねえ、あんだけお世話になって。忘れられない。