海の人間
名前は佐々木眞(ささきまこと)です。昭和50年12月13日生まれで今35歳、明後日36歳になります。職業は自営業で漁業をやってます。家族は妻と息子2人。お兄ちゃんは5歳、弟は3歳です。3歳の下の子はママっこです。教育次第だと思いますけどね、でもやっぱりパパ勝てないですよ、ママ強いです。今の自宅はこのモビリアから2軒下がった一戸建てのかみさんの家なんです。同じ田束(たつがね)の部落内に俺が嫁いだんですよ。海の近くにある俺の実家は被災しました。俺の実家の人たちは今モビリアの仮設にいます。
小学校くらいの時はね、うちのおやじが今の俺のかみさんを俺の兄貴の嫁としてもらうために許嫁にしようとしてたんです。でも俺がもらわれちゃったんですね。それでも今のかみさんじゃなきゃ俺を婿に出さなかったと思いますけどね、うちのおやじは。彼女なら仕方ないなあって感じでしたね。うちには土地があって、俺は違う所に家を建てて別家になる予定ではいたので。とは言っても同じ地区なんでね、離れたところに行くわけではなかったですし。かみさんのことも昔から知ってますし、ここら辺はみんな知り合い同士が多いですからね。
仕事では今、牡蠣のいかだづくりの作業をしてます。漁業する前は5年くらい東京にいたんです。普通にサラリーマンやってました。かみさんも11年くらいいました。俺の場合は親父が元々漁業やってて、埼玉の方に出てた兄貴がこっちに帰ってきたので、俺も帰ってじゃあちょっと牡蠣の規模拡大してやろうかって思ったんでね。帰ってきたのは、まあ収入もそうですけど、サラリーマンみたいな仕事と違ってこの仕事は自分がやった見返りが、もので返って来るんで。ものって、よかったり、手のかけ方が今年足りなかったって思うことがあったりするとその結果が正直に出るんで、やっぱりやりがいがありますよね。
我々生産者の中では少ないんですが、俺は潜水士の資格も持ってます。素潜りやスキューバダイビングとかと違って潜水士は国家資格が必要なんですよ。資格を取ったのは漁業始めてからですが、元々は小学校のときから素潜りはしてていろんなもの採ってました。昔はアワビ採ったりホタテ採ったりってのはそんなに厳しくなかったですし、それに小学生が採る分ですからそんな大した量じゃないんで。あそこに行けばアワビがあって、そこに行けばホタテだよ、みたいなのは1こ上の先輩から代々受け継いでたので。夏休みになるとみんなで行って、採ってバーべキューみたいなことしてました。今ではあんま海水浴したり、潜ったりとかするような活発な子は少ないかな。俺はそうやって外で遊んでほしいんだけどね。
みんな知り合い小友町
ここではみんな地域の単位として「部落」っていう言葉を使うんですよ。大人も子どもたちも使ってます。ちょうど通常であれば来年だったんですが、その部落単位で、4年に1回なんですけど、この地域では5年祭っていう行事があります。町の中にも小さい集落があって、お祭りはその部落ごとに出し物出しあうんです。小友町っていう陸前高田市の中の1つの町をあげてやるんです。大きくはないですが、その8くらいある部落で10月10日の体育の日に、町民運動会も対抗でやるんですよ。本当は10年くらい前まで地域性を生かしたお祭りで、この海に面した小友町では船を使った海上七夕っていうのをやってたんです。船に10メートルくらいの竹の棒を飾り付けて、それに七夕で使う短冊を飾り付けて会場を練り歩くみたいな。そのお祭りとか年1回の町民運動会とかで必ず顔が合いますし、200か300くらいの人口ですから、だいたいお互いに顔は知ってますよ、みなさん。
だから全国どこでもお酒飲むでしょうけど、ここだと代行頼んでもタクシー頼んでもだいたい顔見知りなんで、家まで届けてくれるみたいな感じです。運転手さんも顔見知りだから財布からお金も取ってちゃんと降ろしてくれる。お互い信用してるから。悪いことをできない地域なんですね。そういう意味ではいいのかなあと思います。
流れてしまった象徴と残った人のつながり
ここの地元に酒蔵さんの酔仙てとこがあったんですが、やっぱり被災してしまいました。酔仙はやっぱり高田の象徴っていうか、昔からの古い酒蔵さんでしたし、海から比較的遠い奥の方にあったんですよ。ここモビリアは停電してたんで私達はわかんなかったんですけど、酔仙が流れた映像がテレビに出たらしいんです。地方に散らばってる高田出身の方々で、ああ、高田が終わりなんだなって思った人は多いらしいですね。
田束部落って73戸あるんですけど、その半分、約30戸くらいが被災したんですよ。その人達がここモビリアに避難してきてました。そしたら震災が起きたその日の夕方、被災を免れた方々が、おにぎりとか温かい物持ってきてくださったんです。ここらでは仲間意識が強いんだよね。だから震災が起きてすぐも、食料とか本当に助けられたんです。ここでは温かい物を食べれたんで本当によかった。下の俺の実家の方は漁業の方がメインなんですが、上の方は農家なんで、米を作ったりして米はストックしてあったんですよ。それを出し合ってもらって。地区内全部やられて被災しちゃうとそういうこともないでしょうね。仲間意識が強いおかげで炊き出しを3食、朝、昼、晩と持ってきてくれたのはありがたかったですよ。ここモビリアは食べるものがあったってことはよかったけど、他の所はそうはいかなかったみたいですからね。でも反面、この地域が全部被災して、他の部落から援助をしてもらわなければいけない状況だったらすぐには食べ物をもらえなかったでしょうね。何日か経ってからやりとりあって、被災してない地域があるならお願いしますよっていうことをやればあるかもしれないですけど、基本的にその日からってのはなかったですね。そしたらあとは本当に、自衛隊さんだったり支援して下さる方々を待ってるしかなかったのかな。モビリアではなくて、市内で一番大きかった中学校の体育館でも、1,000人とか2,000人とか被災者があつまっていたらしいんですけど、おにぎりの数が足りなくて、1個のおにぎりを3人とか4人で分けたとかね。その点ここは1人で2、3個食べれたんで。
モビリアに住む人々を支えるために
漁業と同時並行して、今申請中なんだけどNPOの一応、代表理事をやらせてもらっています。会社員の人であろうが誰だろうが、NPOさんは関係なく入れますから。NPOを立ち上げたきっかけは、まず、元々ここでキャンプをしてるお客さんに対して、例えばゴールデンウィークとか、秋の連休のときにとか牡蠣を販売するイベントを通して、モビリアの支配人だった蒲生さんとずっと付き合いがあったことです。地震が発生して津波が来て、僕はその日消防団で動いていたんですけど、避難所がここになっちゃってうちも消防車が被災するといけないので、高台に、このモビリアに上げたんですよ。消防団は職業じゃありませんよ。任意でボランティアです。結構田舎って何でもやんなきゃいけないんですよ。そして、震災当日は300人くらい避難者が来たかな、その人達のお世話をしながら月日が経っていって、じゃあこれからどうするってなった時に、仮設が建ったのでみんなを支援するためにこういう団体を立ち上げようかっていうことになったんです。
モビリアに避難してた100人くらいの人たちは、6月くらいには移ってお盆くらいにやっと落ち着きました。本当に最近です。元々、モビリアへの避難者としては大したことなかったんですよ。市内でもそんなに多い避難所ではなかったんですけど、今は一番多い仮設住宅地になりました。それは陸前高田のオートキャンプ場モビリアって言うこの場所が、東北でも2つか3つしかない5つ星のキャンプ場でメジャーだったからなんです。例えば自分が物資配りたくても、どこどこ会館とかどこどこ公民館ていう避難所って言われたところで分かんないじゃないですか。そういう点、モビリアってのは来やすかった。ネットで見てもここの紹介ページは出るので来やすい。だからここの人たちはほんと震災当日からいろんな人と交流して、震災のこととかさまざまなことを誰かに話す機会はある程度ありました。へこんでる暇がなくお客さんが来るんで、忙しい思いはしたかもしれませんけど、閉鎖的じゃなくて、オープンでやって交流ができたんですね。
支援とかで他からもいろんな人が来ますけど、そうでなくとも陸前高田市でこのモビリアだけはいろんな人が混ざって暮らしています。神戸の仮設でいろんな人が混ざってしまいコミュニティが作れなかったってことがあったみたいで、中越の地震のときコミュニティを大事にしたんですけど、今回はそれよりももっと大事にすることが基本になってるんです。ですから、だいたい市内の各地も仮設は結構地区ごとに入ってます。それは行政の方でやったし、マニュアルができてたんでしょうから。ただここのモビリアの場合、他の所の長屋は早かったんですが、一戸建てを造るということもあって、できるのも遅かったんですよ。最後に抽選外れてた人とか、環境がいやだとか、そういうのがいろいろあって断っちゃうと仮設に入れるのが一番最後なんですよ。そういう人たちがこのモビリアに来てるんでね。でもここは環境最高ですよ。高田市内でも雪は多いですけど、ここは高台なんで1センチ2センチ降ってるくらい。市街地から来た人達にとっては寒いと思うんですけどね。
ここは基本的に行政のもので、市の土地で建物が県、仮設も県のものなんですよ。管理が陸前高田市にあった第三セクターっていう市の出資を受けてるものがあって、いままではそこで運営をしてたんです。だからここに仮設を増やしやすかったって言うのはあったんです。それに基本的に仮設って学校の校庭に建ったり、公民館の土地に建ったりっていうのが多いじゃないですか。ここでも小中学校で被災してないグラウンドには建ってるんですけど、でもやっぱり学校、教育って大事なんですよ。俺らも含め、子どもにとって運動できないってことはプラスではないと思うんで。環境的には学校のグラウンドに入った人たちは早く出ていかなきゃいけないと思う。仕方ないと思うね。そういう意味でここは県と市の土地の公の機関なんで、たぶん陸前高田市では対応が最後の方だろうなって。コミュニティが作りづらいですけど一戸建てが建っててプライバシーが守れますし。こういう所で公営住宅を建ててけばいいなって感じなんですがね。
今はここに住んでる方々の支援をしていますが、基本最後には自立が目標ですね。まあ仮設に移った時点で自立だけど、あくまでまだ仮設なので。自分で家を建てたり、これから公営住宅が建つと思うんだけど、そこに入ったりね。とは言っても、各家の立て直しはほんと数年先だよね。高田の場合は平らな土地がないので、例えば山を崩して住宅地を建てるか、土盛りをして家を建てるかだと思うので、2年3年ではいかないんじゃないかなあと。
海はギャンブル
やっぱり収入が漁業の方が多いので、ここの地域では農業で生計立ててる人は少ないですね。まあ今回のように津波を受けることもあるので、海はギャンブルだと思うんですが。ただ漁業人口は減りましたよね。年配の方々はこれを機会に辞めるのは仕方がないですし、自然だと思うんですけど、働き盛りの40代50代が結構辞めたので。大学生のお子さんとか高校生のお子さんとか、お金のかかる一番大変な時に、牡蠣っていうのは2年後、3年後の収入なので、そこまで待ってられなくて。あと、海やる人たちはみんな億単位の投資なんでね。船も数千万して、それからいかだとか含めて億くらい投資しなきゃいけないので。50代で億投資するとなったら、例えば家がない人だったらもっと大変なことになるんだよね。震災前はおれたちがやってる牡蠣のいかだは元々800台で、生産者はここに30人いたんですよ。今は3分の1の10人くらいになっちゃって。でもその10人、やる気のある人たちなんで、600台まで拡大しました。こういう震災は受けたんですけど、まあ、今やれるチャンスってね、それぞれの人が拡大できるチャンスなんで。
それに漁師辞めたからって土地からみんな離れたわけでもないです。仕事は瓦礫撤去のダンプカーの運転手さんだったり、重機の運転手さんだったり、結構仕事はあるんで。意外に最初から海の人間てのは少なくて、海の人っていろんなとこから上がってる。俺みたいにサラリーマンだったり、大工さんだったりダンプの運転手だったり、いろんな仕事から上がってきた人達が多いんです。後継者、後継者って言われるけど、この辺は結構若い人がいるんじゃないですかね、収入が大きいんで。朝早くて大変な仕事で、収入がサラリーマンとあんまり変わらないんだったら、例えば8時から5時で働いてた方が安定した収入があっていいや、ってなってたぶん誰も来ないと思いますよ。ただね、津波とか震災受けるとね、リスクはすごいですけど。
前を向く人達
実際はまだこれからですが、コミュニティを改善しなきゃだめだと思うんで、サポートしていこうと思ってます。だいたいみなさんお盆過ぎにこちらに入ってきたからまだ3、4ヶ月なんでね。いろんな行事をして人を出し合って、コミュニケーションをとれるような行事を入れてきたいなという話はしてるんです。大きいところだと人間関係が薄いって言いますし、ここでも一戸建てでいろんなとこから入ってる人達がいますから難しいです。でも沿岸部っていうのはパワフルな人達が多いから。ここで漁師の妻してるような奥さま方みたいに、口はちょっと悪いようだけど、気が全然悪くない。それが浜の人間の、そしてこの地域の特性なのでね。
本当にここはいろんな地域から入ったので、今回の聞き書きとかも、今回は田束地区だけど、それだけじゃなくて今後もしそういうのが発展して、仮設の人たちのコミュニケーションづくりの協力もしてもらえたらなと思うんですよ。いろんな意味でね。相手次第ではありますけど、ちょっとした元気を引き出してくれる要因には絶対なるんで。今まではね、マスコミの人とか話すのは苦手とかありましたけど、そういう点、こっちの人間がしゃべれるようにはなってきたのかな。大きく言えばグローバル化、内向的よりは外交的になったのかなと思います。今後のことについては、これからだし、いつまでも後ろ向きでいても仕方ないと思う。ここのNPOのみなさんもそうですし、いろいろ中越からもサポートもしてもらいながら、前を向くのは早かった方だと思うんですよ。
でもかえって、現場じゃない人の方が精神的にはきつかったってやつもあるみたいだね。こっちの当人達はもうね、現実を見てるんでどうにかしなきゃいけないっていうか、自分たちでなんかしなきゃいけないって思うけど、何も情報がなくて、待っているのはね。この地域でも、東京から息子さんが3日かけて自転車で来たとかあったんですよ。その子のお母さんは亡くなっちゃったんですが。でもその時その情報は彼には行ってないと思うんですよ。うちらはそこのお母さんここに来ないから捜索しなきゃねっていう話はしてたんですけど、その息子さんは状況は分かんないままで、でも心配になって自転車で来たと思うのね。居ても立ってもいられないっていうか精神的に本当にきつかったと思う。
うちの実家の千田家の方で亡くなった人はいないけど、家のかみさんのお姉さんがだめだったんですよ。でもね、かみさんの方も前を向いてるんで。今回は急に離れ離れになって、亡くなったことでかなりブルーになってた人達もいますけど、でも前を向く人も多いんじゃないかなと思うんですよ。俺も5月、6月ぐらいまで遺体の捜索とかいろんなことしましたけど、その中でもね、前を向いていなきゃいけないし、残された意味があるんだろうなと思うんでね。
こういういろんな記録を残していってもらえればいいんじゃないかな。データ化の時代ですし、残すってのは大事ですからね。