自分の生い立ちと家族紹介
陸前高田の小友町(おともちょう)に住んでる、吉田チヨ子(よしだちよこ)っていうんです。私は昭和14年6月10日、当地の気仙郡小友村で生まれました。昭和30年4月、2町6村が合併して陸前高田市が誕生したんです。兄弟はいなくて、1人っ子なんですよ。私が5歳、母親が30歳の時、父が戦争で終戦の年、シベリアで戦死しました。父の面影はハッキリわかりません。小学校の頃、他家の子供達が盆、正月に土産を買って帰る光景を見て、いいなあと思ったものです。しかし、母は私に不自由な思いをさせたくないと、毎日外に出て男性と同じように働き、生活を支えてきました。
中学生になり、修学旅行も近づき、母がセーラー服を買ってくれて、毎日その服を着るのを楽しみにしていたら、母が急に高熱を出して床につき、村の医者に入院したので、残念なことに旅行に行けませんでした。母は日頃の無理が続いて過労だったのです。中学校の卒業式にはそのセーラー服を着ることが出来ました。私も8歳の頃から母を助けて、食事の支度から食後の茶碗洗いをしました。
昭和35年春、4歳上の男性と結婚して、翌36年9月に長男を出産、10年間で3男1女の親となりました。主人は大工で、毎年北海道から東京方面に出稼ぎを続け、盆、正月だけ故郷に帰りました。長男が小学校2年生、次男が5歳、長女が2歳の時、私を育てるため、1人で頑張った母は昭和45年3月、難しい病気で、56歳で他界しました。その2年後の昭和47年5月に三男が生まれました。主人は引き続き出稼ぎを続け、私は4人の子供を育てながら男になり、女になり、田畑の仕事で働き、1人で留守を守りました。
主人と2人で頑張り、昭和61年には土地を求め、本宅と広間、駐車場を建て、3男1女もそれぞれ家族を持ち、長男は仙台に、次男は東京に、長女は市内に家を持ち、暮らしています。三男が地元の役所に勤めることになり、三男に家を継いでもらい、現在は小学校2年生の男の子と5歳の女の子の2人の孫と、6人家族で生活しています。主人は平成13年8月、40年以上続けた出稼ぎ生活を引退しました。
避難所での生活
平凡で平和な暮らしをしていたその年、平成23年3月11日午後2時46分、強い地震の後、巨大津波が発生して、東の海と西の海からの波が途中で合体して、ものすごく高い波で、高台に避難した私達の目の前で本宅、広間、車が海の方に流されてしまいました。
夕暮れになり、誰かの軽トラックの荷台に10人くらい乗り、訳のわからないまま着いた所は、オートキャンプ場モビリアでした。倉庫のコンクリートの上にシートが敷かれ、てんやわんやで高台に住んでる皆さんからおにぎり、毛布が届けられ、毛布を引っ張り合いながら横になったが、寒さと強い余震で、眠れぬ一夜を過ごしました。最初の10日間余りは、着の身着のままで下着も取り替えず、電気も水も無い生活が続き、その後高台の皆さんのご好意で、薪ボイラーのお風呂に入らせて頂きました。みんな一緒になって、一家族になって、我慢して暮らしました。有難かったなあって思ってます。
そして、避難所から離れてもね、みんな家族になったわけです。離れてても、「おい、誰それ、誰それ」って名前もみんな分かるんです。みんな未だうちに来るんです。近所の子供達もみんな集まってくるわけです。みんな兄弟みたいにね、仲良くなってしまったわけです。
避難所での炊事班の仕事
避難所で生活して、私達は10人程で炊事班を結成して、お年寄り達さね、ご飯支度で、ドームハウスまで運ぶんだもの。そこでお年寄り方ね、7、8人ずつ入れられた。部屋の中がすごく暖かくて、豪華に出来てるわけ。それで、私達ご飯運びしなきゃねえんだ。最初ね、車で運ばないで、歩いて運びました。ドームまでお膳こさ入れてね。お昼はパンにしても、朝はおかず作って、おつゆとご飯と、運ぶわけ。
そして、だんだんと1カ月、2カ月ぐれえかなあ。食事を運ぶ人が少なくなったから、車を頼んで。それからが大変だったんだけんどね。年寄り達、預からねばならねえっつうことで、自分達のことを考えることがもう、頭に無くなってしまったの。朝から晩まで働いた。だから、疲れが取れない。朝5時に起きねばねえんだもの。5時に起きて、私達は炊事班さ行って掃除して。それから、今度は野菜刻まねばねえ。ご飯は自衛隊さんが持ってきてくれるんだ。5時になるとね。おつゆ作らねばなあ、おかず作らねばなあ。そんなことがもう、手いっぱいなの。それが毎日毎日続くわけ。そして、次の日休みだぞって言われても、朝と夜は帰ってきて手伝うの。食べた物を、お茶碗等みんな運んできて、避難所で洗って。今度は全部避難所さまとめて。お椀こも何もまとめて。そして、明日は何しよう、夜は何しようって、献立も考えて。グループで。お母さん達と考えて、作るわけ。それがまず、家族よりも大変だったね。
震災後の苦痛―寝られない病気
そして、今度は私が、夜寝られない病気になってしまったんだ。病院さ通って睡眠薬もらってきたけんども、半分こずつ飲むんだけど。夜11時、12時頃過ぎたらテレビ見てんの。隣に響くから、低くして見んの。これも、気疲れになります。話も大きな声出されないし。そして、2時なっても寝られない、3時になっても寝られない。明け方になって寝られんだねえ。今度は目が充血してくんの。おかしいけんどね。次の日になって寝れるかと思ったら、そうでもねえの。寝られねえの。夜になると、また寝られねえんかなあと思ってね。それが、寝られにゃ、ストレスの病気になってしまったの。私コレステロールと、ぜん息と、血圧と3つ飲んでんの。そして、下手に風邪引くと、4カ月もせきするからね。発作が起きたりするから。風邪は引かれねえなあと思ってな。それで、この薬もずうっと飲んでるの。
思い出の写真
うちは、写真がいっぱいあったの。私が生まれた時ぐらいに、写真があったもの。私の母親が、随分残してきたのよ。母親がちょっとね、おしゃれな人だったからね。それで、昔うちがね、生活が大変で貧乏だったから、母親が満州の方にね、お手伝いさんにやられたわけ。美容院とか、弁護士さんのうちにお手伝いに行ったんだと。そして家族さ、着る物が無いから、もらった着る物全部ね、うちさ送って寄越したもんです。戦争前にね。そして、母親がうちに帰って来て25歳になってから、私の父親と結婚したんです。おじさんのうちで結婚式して、玄関で撮った写真もあったんだもの。その写真もね、真っ黒いアルバムさね、満州当時の母親の若い頃とかね、びっしり写真が貼られてあったんです。ワンピースとかスカートとかね、そんなのも着た写真もあるの。毛糸の帽子とかもかぶせられたりしてね。写真がいっぱい残ってたの。それが津波で持ってかれてしまったから。一切持ってかれてしまって。それがねえ、もうショックでねえ。
思い出の写真が津波で持ってかれたもんだから、浦和に行ってるおじさんが思い出の写真を全部送って寄越したわけ。私の母親の弟が、埼玉の浦和にいるの。昔のね、ご先祖様の写真から、私の母親の写真から、おじさんの写真から、子供達の小さい時の写真から。これからはさびしい時、その写真見れるなあと思ってね。すごい楽しみになったの。あと、息子達の結婚式の写真とか、そんなのも寄越したもの。ああ、このぐらい嬉しいことは無いなあと思ってね。そして、「着る服が無いなあ、バスタオルが無いなあ」って私が言うと、「じゃ送ってやるからなあ」って、送って寄越したったね、津波後。あと、「何も困ったことはねえかあ」って言うから、「今のとこは落ち着いてやってっから」って、言ってんの。
桜や紅葉の木の思い出
うちの部落は最高の場所だったんです。そして、下には丁度いい野菜畑があってね。端っこには、12年ぐらい育てたキウイの木があって。毎日キウイがね、食べきれねえぐらいなったの。それも私ね、苗っこから育てたの。
そして、端から端まで長さが80メーターの石垣もあったの。そして端っこさはね、私の息子がね、小学校1年生さ入る時記念にね、桜の木植えたの。枝垂れ(しだれ)の木とね、ソメイヨシノの桜と。そして今年、3月11日でしょ、津波が。3月頃に八分咲きになってね。真っ赤なつぼみがちょんちょんと出たの。桜の木にね。そして4月、5月は花見がすんの、楽しみだったの。ワーッと花咲くからね。満開に咲くんだったの、うちの前さね。
そして庭一面にね、花を育ててたったの。そしてね、紅葉の木もね、12色あったの。枝垂れとか、ピラピラっと咲くのとかね。紅葉から何から、様々植えてたったの。そして、サザンカもね、玄関のとこさば何種類あったかな。杯みたいな、きれいなサザンカが咲くの。そして、10月から12月あたりまで咲いてくるわけだ。端から端までサザンカ。間にはね、紅葉がパパっといっぱい咲いてるし。今度は5月にはね、大きなボタンが咲くの。玄関の前さね、銀白のボタンがね、パーっと咲いてね。今でもね、その風景が私の心の中で、見えるの。5月とか6月にはね、あんなボタンが咲いたとか、こんな紅葉が咲いたとか、桜が咲くとかってね。全部思い出が心さ残ってしまったんです。それが、3月の津波で、全部流されてしまった。何1つ根こそぎねえの。桜の木も何もねえの。根っこまで持ってってしまった、みんな。
今後への思い
これからはね、こういう生活が無くなるように、津波の対策から何から国でやってもらって、心配無いような生活したいなあと思ってね。子供達もね、何も心配無いような、育児とか、学校生活とか、教育も受けられるようなね、生活してもらいたいなあと思ってね。より良い陸前高田市を、復興に向けてね、まとめてもらって。元気な生活出来るように、お願いしたいなあと思って。うん。思ってます。私達のような、生活はさせたくないなあと思ってね。
3カ月余りの避難所生活も終わり、6月下旬から仮設住宅に入り、自立の生活が始まりました。しかし、昭和61年に主人と2人で建てた本宅、広間、車等大切な財産を全て流失しました。けれども、家族6人の命があり、幸せに暮らしているが、最愛の肉親を亡くされ、未だ行方不明になっているご家族の心中を思うと、胸が張り裂けそうです。「がんばれ日本」、「負けるな陸前高田」を合言葉に、強く生きたいと思います。