自己紹介
こんにちは。名前は村上庄一(むらかみしょういち)です。昭和13年の4月26日生まれで、73歳です。家族は、妻のカネ子と長男、長女がいます。長男は横浜で、長女は(岩手県下閉伊郡)山田町ってとこに住んでます。だから今は(中里部落の)腰廻(こしめぐり)で家内と二人で住んでます。3月11日は津波が家まで来なくてよかったよ。腰廻はまずみんな無事だったからさ、すぐ炊き出しして、自衛隊が来るまで頑張ったよ。
東京へ修行
職業は建築業です。まぁ、大工だね、作ってばっかり。昭和29年から大工やっててさ。うちは貧乏で、今はみんなと同じくらいだけど昔はものすごい貧乏でね、学校に行く力もなかったし。それで大工になることにして東京で年季奉公をしたの。丁稚奉公みたいなやつね。小学校卒業して、14、5歳で弟子入りしてさ、うちの親父も大工はやってたんだけども、他人の飯を食わないと苦労が分からないでしょ。人間っていうのはまず、一人前になるには他人の飯食わないと大変さが分からないのさ。だから家では仕事しないで東京まで親父は旅に出させたわけさ。中学校卒業してね、年季奉公に行くのって大変なんだよ。中学は卒業して、進学か就職はその頃決めるでしょ、そんでうちは金もないし、頭もないから、手っとり早く職に就こうって決めたの。それで、親父から俺のところでじゃ駄目だって言われてね、東京行ったんさ。親父も旅に出てたから、それほど寂しいとかいう気持ちはなかったね。
人生一生修行
それから岩手に戻ってきたのはだいぶ後だね。家にいて仕事してるのはここ10年くらい前からだから60歳すぎてからだね。それより前は東京から仙台に行ったりしたよ。弟子入りっていうのは、まず4、5年くらいやるの。師匠とはいっても、いつまでもいるわけにはいかないんよ。ある程度覚えたら今度はよそで働かなきゃいけないんだよ。だから弟子を上がったからって簡単に一人前ってわけではないんだよ。壁にぶつかって苦労しないとね。今でも修行なんだから。人生一生修行だよ。
今でも現場に立って仕事してるよ。震災と津波の影響で、仕事の依頼はたくさん来るよ。今は、津波が被ったけど家が残ったって人のところを修理してるんだよ。津波が食ったところはもう砂だらけでね、細かい砂が掃除しても出てくるんだよ。
昔と今―気仙大工の技
今は大工になる人なんていないから、弟子もいないし、大工を継いでいくというのはやっぱきついんだね。そうなると昔ながらの大工の技って言うのが無くなっちゃうんだよね。この陸前高田周辺は気仙大工が結構有名でね、気仙大工っていうのは木をうまく使う技術があるんだよ。そういう技が無くなるのは大変なことだけど、大工をやる人もいないからね。まず弟子入りとして来ても3日か1週間持てばいい方だよね。みんないなくなっちゃうんだよ。やっぱそれだけきついのかもしれないね、相当大工やろうって人じゃないとね。気仙大工に関する本みたいな物もあるかもしれないけど、ただ見ただけじゃ駄目だからね。理屈がわかっても実際には体が動かないからね。だからきついってことだね。時間もかかるし、1日、2日の話じゃないし。1軒の家を建てるようになるには最低でも5、6年は覚えるのに必要だね。まぁ、技術を覚えるのに時間がかかるから大変だし、今の若い人には無理だね。俺の場合は貧乏だし、働くしかなかったからさ。
今のところ、うちの工務店にいるみんな、電動の道具を使ってるよ。俺もね、やっぱ便利だからさ、作るのは電動だよ。ただ、怪我はするんだよね。俺もほとんど指が満足じゃないんだよね。5本あるけど全部怪我してるしね。それでも能率とか考えると電動の方がいいね。まぁ、妻からは「毎日怪我しないようにね」って言われるんだけど、「それはわかんないよ」って言い返すのさ。なんぼ気をつけても駄目だからね、やっぱ年取ると気持ちは一緒でも力とかも恐らく無くなってるからね。駄目なんだね。
自分の好きな仕事だから
それでも、今まで大工やってきて良かったって思うよ。まず、今から30年くらい前に自分の家を建てたんだけど、本当の建てっぱなしで済んだわけ。まず瓦上げて、中の仕事は残して徐々に進めていったんさ、自分一人でね。普通はさ、早く住みたいから内装とか全部早く仕上げるんだけど、俺はそんな金ないからゆっくりゆっくりね。それでも自分の家だから自由にできるわけでね、よその家じゃそうはいかないからね。そういう面では良かったなって思う。お金があればいいんだけど、そうはいかないから働いてきて今年はここをやろうとか、来年は内装にしようと、そういう風にやってきたんだよね。いやーっ、ふり返ってみても、あっという間だったよ。なんて言うんだろう、時間が経つのは長くないな。やっぱ自分の好きな仕事だから早く感じるんだろうね。夢中になることだし。
趣味は釣り―怖いんだろうな
趣味は釣りかな。津波前は、休みがある時は釣りしてたね。どうもパチンコとかそういうのはしないね、貧乏だったから。釣りでストレス解消かな。釣ったやつはちゃんと食べたし、この辺ではアイナメとか釣れるね。アイナメは刺身でも焼いてもうまいよ。そんで今回津波が食ったところはほとんど釣り場だったよ。
今はね、ちょっと釣りする気分になれないんだよね。なぜかと言うと、まだまだ死体が上がってないでしょ。海にまだ流れてるわけさ、だからこの辺の岩場にはほとんど人は行かないし、釣りに行っている人はいないよ。あの津波前は、岸壁とかが満員でいっぱいだったけど、今は釣っている人いない。それに津波で釣り場も無くなっちゃってできないしね。あとは気持ち的にね、俺だけじゃなくてみんな、津波前はこのモビリア(避難所、仮設住宅となったオートキャンプ場)では釣りに行くのがメインだったくらいなのに、今は本当にいないんだから。みんな嫌がってるし、怖いんだろうな。流された人がまだ海にいるよっていうのがね。
今は休みでも、都会の人みたいにレジャーとか出かけようだなんて何も思わないよ、出かけるのは食料品とか買いに行くくらいだよ。まぁ、俺は家でも結構仕事があるんだよね。百姓の片づけもあるし。畑とか田んぼとかをいくらかやってるから仕事はあるだよ。息子は日曜日も遊びに出かけたりしてるけど、都会はそうなのかもね。この辺はそれだけの余裕はないからな。時間がないっていう理由もあるけど、そういう風な風習がこの辺にはないんじゃないのかな。余裕がある人は今度の日曜日どこ行こうかって計画立てるのかもしれないけど、一般的には遊びに行くなんてのは1ヵ月に1回くらいじゃないかな。まぁ、震災前は温泉に行ったりとかはしたかな。遠くもあるけど、近くにもあるから。黒崎温泉ね、広田町にあるの。それは海のすぐそばなんだけど、今回は津波食らってないんだよね。だからそこも、無料でどうぞって対応が早かったんだよね。
3月11日―とりあえず逃げた
あの日は仕事でね、陸前高田市の上長部(かみおさべ)町で仕事してたんだけどさ。高台で仕事してて、そのときに地震が来たんだよ。すごい揺れだったからね。俺たちはそこで収まるのを待っててさ、それで地震が終わったから今やってる作業を片づけて帰ろうかって話してたんだよ。だけど津波警報が出たからしょうがないって帰ろうとしたの。けど、働いてた場所は高いとこでさ。大工仲間の2人が下の方に住んでたから、その人が「チリ地震の時は津波がここまで来なかったから大丈夫だよ」ってことで、うちさ行くべぇってなってね。来ないと思ってたからさ、そんで相手の人が様子見に行くべってなって、車に乗ろうとしたら、下の方から「津波来たぞー!」って叫んできたのさ。そんでちょっと見たら津波がそこまで来てたからさ、材木と煙がひどくて、とりあえず逃げたの。
上長部ってところはお椀型だから、下の方にその時いたから、山の方に逃げようとしたの。だけど鹿避けの網があったから、切って逃げたの。そんで津波寸前で逃げて、そんで避難した場所が友達の家に近かったから、そこの家で津波が引いてくのを見てたの。俺たちも危なかったよ。製材所もやってたから車も道具もトラックも全部流されて。そういうのが全部流されちゃったの、ほとんど何も残ってない。
炊き出しを始めた
その時妻は家にいてね、地震が来たから中里部落の年寄りを回って安全確認してね。それから炊き出しの掛け声を部落にかけて、炊き出しを始めたんだそうです。そしたら、田束部落だけの人なら大したことないんだけど、よそからもいっぱい来たから、人数聞いて米を足してね。俺はその晩いなかったけどね、俺が一晩帰ってこなかったのも心配しなかったわけさ。高いところで仕事してたから大丈夫だろうって思ってたんさ。そんで炊き出しの方が忙しくて、全然心配してねぇんだもん。
炊き出しも3日くらいまでは自分たちの持ってるお米とか食糧でどうにかなったんだけど、どんどん先が見えなくなってきたの。炊き出しするのに食糧がね、周りの人にも協力してもらってね。そんでそのうちに自衛隊が来たからね、それで助かったのさ。いやぁ、すごいよ、この辺の部落の人たちはすごいよ。白米で出してくれたところもあるし、あと籾を精米してから出してくれたところもあったしね。あれは本当にありがたかったね。一人暮らしでさ、買い物袋なんかで出してくれた人もいたんだよ。いやぁ、あれは泣けるね。協力して出してくれた米は、本来ならみんな自分たちで食べるはずだったんだからね。感謝だね。
本当にうちの部落(中里部落)で炊き出しやってくれて、良かったなと思う。津波に飲みこまれなかったからこそだね。それに中里部落は電気も早かったんだ。たしか1週間なんぼくらいだったの。この中里部落とかモビリアあたりね、ちょうど近くに発電機もあって、早くついてくれたの。あとうちの妻がやってる寿工房にガスはあるし、水は地下水だからなにも不便ないしね、炊き出しできたわけさ。うちは井戸だからね。ほんとに助かったよ。
すごい経験したんだな
今思うと、みんなで炊き出しやったりして仲間の強さを感じられたな。おらもこれは自慢できると思ってるんだよね。これは本当にすごかったな。まぁ、自衛隊にも助けれたしね、自衛隊もすごかったな。それより早くに来たのがね、救援隊が来たの、宮崎から。一番先だったのは宮崎だったの。あれは早かったし、すごかったね。感動したね、嬉しかったね。宮崎にも恩返ししたいね。あとは、個人的な救助も結構来たんだよ、物資とかね。ああいうのも感心したね、ありがたい、ありがたい。
自宅に関しては、半壊はしなかったけど、屋根の瓦が少しはがれたの、それだけ。とにかくこの辺の中里部落は住民は流されないし、電気も早くついたし、水はほとんど飲めたしね、俺たちは本当にすごい経験したんだな、生きているうちに後はもうないと思うけど、なんとか助かったからね、がんばらないとだね。
仕事道具は流されたから、家にあった古いのをもう一度磨いて使ってんの。あとは買い直してさ。だけど大きい道具はさ、後に使う人もいないから。後継者がいないから、買うのもね、迷うんだよね。
不安
流されたところに家を建てたくないって人が多くてね。みんな高台がいいっていうね。ところが土地がなかなかないからね、こういう仮設に入っている人が家を建てるにも土地を買わなきゃいけないし。普通仮設住宅っていうのは2年でしょ。でも2年じゃ仮設からは出れないよ、家を建てられない人がいっぱいだよ。年取ったら借金もできないもん。
釣りに関しては、とにかくみんな上がってからじゃないとね。じゃないと安心できないしね。うちの親類なんだけどね、可哀そうでね。はやく上がってくれればね、死んだのはわかってるんだからさ。うちのすぐ近くなんだけど、お隣3軒がみんな親類亡くなっててさ。家族亡くした人にはどうやって接していけばいいのかさ、可哀そうでね。今はだいぶ明るくはなったんだけどね、なんて言ってあげたらいいのかわからないからさ。もったいない人ばかり亡くなったからね。なかなか立ち直れないよな。
陸前高田をどうにかしたい
今、高田にはなにもないからね。例えば市民が集まる場所とか、市民会館もないし体育館もないし。そういうのを何か1つ、大きい建物を作って今までのようなイベントとかね。例えば体育館でやるなら体育フェスティバルとかね、市民が集まるイベントっつうのは結構あったからね。そういうのを用意できる場所もないからね、何か1つ大きな集まる場所が欲しいよね。あとはうちにはいないけど、近所に子どもがいないからね。子どもの声は元気になるからね、学校を早く建ててほしいね。もともと小友町は平らな所が少ないのに、津波で食われちゃったからね。開発とか早くしたいね。