自己紹介―津波のおかげでここへ来た―
名前は吉田哲子(よしだてつこ)。昭和2年9月11日生まれの84歳。大船渡市の末崎町で生まれた。5人兄弟の末っ子。姉が4人いたの。息子が今回流された。娘は今千葉にいる。仮設にじいさんとママ(息子さんのお嫁さん)と孫がいる。
仕事は、郵便局に勤めてた。みんな我々年代はお姑さんに使われたでしょ。そういう時代だったから。共働きは大変なの。子どもがなんかかわいそうだなぁと思って。郵便局の隣に姉がお店屋さんやってたから、私はそのままぽんって子どもを置いて郵便局へ行ってた。お姑さんは畑やってたから、私がおんぶして職場まで行って、姉にぽんって預けて。お姉さんは店番。おかげさんでね、なんとか、32年間働いた。昭和52年か、退職して。それまで小友にいないから、この辺はそんなに分からない。大船渡の細浦っていうところに郵便局があったから、あっちの方がそれこそ家みたいで。碁石海岸の近くなの。私ら同じ部落でも、めったにここに来ないから。津波で初めてここへ来た。こんなところあったんだぁ。津波のおかげでここへ来た。
とにかく男も女も仲が良かった
私たち昭和2年生まれでしょ。私たちの時代は男も女も仲が良くって、よく一緒んなって遊んでたからね。山越え野越え。山へね、いろんなものを採りに行ったのよ。すかんぽ(スイバ)を採りに行って食べたのよ。あとは、木の実があるでしょ、苺とか木苺とか山苺とか。そういうの採りに行って、食べたよ。みんなで行って、みんなで遊んだ。縄跳び陣取りで遊んだでしょ。私の生まれた実家が、庭が広いからみんな遊びに来るの。ゴム跳びって知らない? ゴムを張ってね、2人で持ってって、最初はこのくらいね、次はこのくらいの高さ、次はこのくらい、ってだんだんこう高くしていって、それを跳ぶのよ。走って行って、ひょいっと。女の子も。あとお手玉とおはじきとかよくやったなぁ。私お手玉が得意でさぁ、大好きだった。自然と4つでも出来た。5つにも挑戦したんだけどね、あまり出来なかった。
ほら、私津波で何にもなくなったでしょ。でも、私らが幼い頃も物がなかったけど、今は、どっちがいいんだか、昔は楽しかったよぉ。
同級生っていいねぇ。今でも会う。この辺にもいるし、そっちこっちに散らばってるけどもね。同級生の私の友達が、盛岡と水沢(奥州市)にいるんだけど、その人ともう1人の3人と、私の4人で20年以上旅を続けたかな。一関の、簡易保険の保養所があるんですよ。かんぽの宿ってあるの。それがね、開設すると同時に、4人で毎年集まったの。その友達がね、「もうみんな80歳も過ぎたから、みんなよぼよぼになったから、あんまり怪我しないうちにやめよう」って。去年、「今年集まったのが最後にしよう」って。それで年末に集まって、終わりにしちゃったの。それで3月の津波でしょう。そいだらその盛岡の友達が、これ(羽織ってるチョッキ)を作ってよこしたのよ。水沢の友達もね、セーターから、着るものから。自分で縫って、そいで私にみんな送ってくれた。ありがたかったぁ。これね、お茶の手入れやってるの、この人。「何でもみなさんからいただいてあるけども、これから冬になると寒いから何か綿の入った物が欲しいの」って言ったら、「じゃあ私のあの着物ほどいて綿入れて縫ってあげる」って。だからこれ離さないで着てる。あったかい。だからもう本当クラスメートは大事にしなくちゃねぇ、有難いよぉ。私らほんっとうに仲が良かった同級生だったの。
青春なんてものはなかった
私津波に遭ってね、つくづくそう思ったけど、いやぁなんでこんなに運が悪いんだろうって、本当に。私らは昭和19年の女学校卒業でしょ。すぐもう挺身隊って、軍部の仕事に駆り出されたのよ。女学校卒業するとすぐに17歳でね、埼玉の朝霞に行ったの。被服廠(ひふくしょう)って言って兵隊さんの服とか靴とか作る工場があったのよ。陸軍被服廠。そこで、1年半で終戦になったから。
私らは検査班で、縫製で洋服作ってる人たちの出来上がった洋服を、検査するわけよ。どこかほつれてないか、ボタンは取れてないか、チャックがちゃんとついてるか、それをやったり、機械で梱包して運んだり。でもね、みんなほら、戦争がひどくなったから、次々に群馬とか栃木とか、山ん中へね、疎開したの。だけどまだそん時私らが本部で事務をやってたのね。そこで終戦を迎えたわけ。今まで私らが一生懸命作ってきた書類なんかをね、なんであんなことしたんだかなぁ、陸軍の穴があるのね、そこでみんな燃やしたのよ。終戦の次の日。書類燃やして、それで、次の日帰ってきたのかなぁ。すごかった。切符も何も取れないでしょ? だから、兵隊さんの偉い人が、私は軍属の徽章をつけてたから、「この徽章があるから、お前たちは切符買わなくても大丈夫だから、そのまま汽車に乗って帰れ」って。乗ったはいいがねぇ、汽車がすごいの。もう人で人で。屋根まで溢れてる。それに乗って、押しつぶされそうになって、途中でまた降りて、今度は貨車。そこに入れられて、窓も何もないから真っ暗で、これ今どこ走ってるのかなぁと思いながら。とにかくもう私らは家へ行きたいいっぱいでね、4人で来たから。それで一関に着いて降ろされた時、ホッとしたの。あぁ、ここまで来ればもう大丈夫、家はもうすぐ。すぐでもないけど、岩手でしょ。一関で降りてホッとして友達と泣いて、それで帰ってきたの。だから私らの青春なんてものはなかったね。戦争一色でね。戦争終わって終戦後でしょ? その終戦後がすごいのよ。物がないんだから。全然物も米もないのよ。配給なんてなかったからね。でも私たちはほら、田舎で暮らしたから、まだ自分の畑だの田んぼもあるから、だからなんとか、食べるのは、食べられたけど、でも、すごかったよ。
5人兄弟の末っ子で。
私5人兄弟で姉が4人いたから、一番上の姉が、私と16違う。私がね、小学校へ上がる頃、嫁に行った。だから姉の子の姪っ子と6つしか違わない。でね、その姪っ子が、今旭川にいるんだけど、こないだもね、いっぱい着る物送ってくれた。
うちね、お舅さんが101歳まで元気で、私ね、70歳まで嫁の務めしたの。明治生まれのね、頑固なおじいさんだったの。すごいの。なんていうのかなぁ、自分の思い通りにいかないと、もうだめって。口ゲンカはよくやったの、2人で。まぁケンカするほど仲がいいっていうのかな。ほら、自分の思っていることを、あっちも喋れば私もしゃべる。だから、お舅さんっていう感覚でなぐ、父親と似たような感覚だっだのかな。
ホットケーキは黒砂糖入り
勤め人だったから料理はあんまり得意じゃない。朝は列車早いからさ、7時に出てた。でも、私のホットケーキは独特なの。黒砂糖入れてね。それで焼いて食べさせると息子が喜んで。水入れないで牛乳とお砂糖と重曹を入れてね。それがうちの息子だぁい好きでよく食べたもんだ。孫が「おばあちゃんが焼いたの食べたい」って言ってたって。作ってあげたいけどね、鍋がなくなった。あつぅいフライパンだったの。
津波の後に咲いた奇跡―牡丹の花―
あとは私、花が好きで、花を植えたりしてました。そいでね、私本当に感動したのは、津波のあと10日くらい経ってからかなぁ、ここ(避難所)に移って初めて、流れた家の跡へ連れてってもらったの、車に乗せられて。流れた跡どうなってるんだろうなぁって思って、行ったでしょ? 道路から庭に入って行ったらね、いやぁ感動したってあれのことかなぁ、牡丹の花がね、あの波をかぶったんだよ? 流れた玄関の前に私の植えた牡丹の花があったの。それこそ牡丹色っていうの? 花がねぇ、5つぐらい咲いてたの。きれーいに咲いてたのよ。私それを見て、「あの大きな波をかぶって、よく咲いたねぇ」って、撫でて、泣いちゃったの。可愛かったよぉ。波かぶってよく咲いたと思って。その牡丹の花ね、後で枯れちゃった、やっぱり。花が終わってね、枯れたの。本当感動した。よく咲いた。すっぽり水に入ったんだよ? 流されたんだから。蕾のまんま波にさらわれたんだね。蕾だからね、波かぶっても、開いたのかなぁ。あれにはねぇ、本当に慰められた。あともうみんなダメだけどね。
83年生きてきて、ここでこういう目に遭うなんて、考えたことなかった。早く家建てたい。早く家建てて、庭にね、草花植えたいの。チューリップもいっぱい植えてたのねぇ。みんな流れちゃったから。水仙なんて何十種類あるかわからなかった。広かったから。でも、私勤め辞めてから、少し畑やったから、楽しかったよぉ。
それと私昔ずいぶん歩いたなぁ。旅行が好きだから。おじいさんをほったらかして、私友達と歩いた。旅行は景色だねぇ、やっぱりねぇ。景色がいいねぇ。あの、歴史的なものあんまりだめさ。すぐ忘れちゃうから。景色は眺めたものが頭にずーっと入ってる。
部落の人たちへ
高田はこの津波でここさ避難しても、私らは幸せだったのよぉ。ここの部落の人たちは、食べ物もちゃんと、夜からもう食べさしてくれたから、おにぎりもらって食べました。有難かったですよ。それで、ここに住んでる人たちもね、みんなで出し合って、救援物資がこない間もね、お腹すいたってことなく、食べさせてもらいました。それから、物資が入るようになってから、お腹すいたってこともないし。私たちは恵まれたと思ってます、ここは。あと、みんなここの部落の人たちだから、知らない人っていないから、あまりさみしい思いはしなかった。そして、事務所で若い人たちがご飯を作ってくれて、みんなで運んでもらったの。年寄りは恵まれました。うちのお母さんたちはね、一生懸命働いてくれたの。流れない家がそっちの方にいっぱいあるのよね。その人たちは、お花がいっぱいあるからお盆に貰いに来てって、あとお風呂もね、ちゃんと自分の家で薪で焚いて、私ら呼んで入れてもらったり、助けられたの。
若い時は戦争で、もうたくさんなのに、またこういう目に遭って。だって、家が流れるなんて全然。津波警報は今までも何回もあったのよ。だけど、こんなに大きいのは来たことがないから。まぁあんなものかぁくらいでしかないのよ、津波警報って。でもね、私ら命があっただけでもね! だって、ここまで生きてきたんだもの。
買って換われない物が、惜しい
眠れない時あるでしょ、夜ね。そういう時はね、いろんなこと思い出すのね。ああいうのがあったなぁ、こういうのがあったなぁ、あれもみんな、流れたんだなぁって。私はね、立派な着物も、宝石も、ネックレスも、もう諦められるのね。また買えば買える物でしょ。一番残念なのは、私いつもおじいさんと言ってるんだけどね、息子と娘がね、大学へ行ってる頃手紙をくれるでしょ、そういうのね、とってたのずっと。それでね、ときどき眺めてね、こういうことあったなぁ、あぁいう時もあったなぁと思って楽しんでた。今度孫が生まれたでしょ。その孫がね、幼稚園の時間、敬老の日にね、ばあちゃんの絵を描いてくれた。私楽しみに畑を作ってたから、苺を作って孫たちに送ってたのね。それで、「おばあちゃんいつも苺やなんかいっぱい送っていただいてありがとう」って。私の似顔絵描いて大きいのに描いてくれたから、私それ大事にして、「これは宝だ!」ってしまってね。それ流したのが、宝石よりも、惜しかったぁと思ってね。息子が大学に行ってる時よこした手紙なんかも、とってあったのね、その手紙も流しちゃったなぁって思ったりしてね。着物も何もいいよ、流れても。でもねぇ、その買って換われないそういう物が、惜しかったなぁと思う。
本当に有難い。私はここがいい。
でもねぇ、ほんっとうに有難いねぇ、全国のみなさんからさ、励ましの言葉から物心両方(をもらって)、有難いと思った。今までねぇ、阪神淡路だの新潟の地震だのって、なんか他人事みたいに考えてたけどさ。我々は実際こうして避難民になったと思うと、考えられなかったね。本当に助けられた、私たちは。この部落の人たちにね、本当に世話になったの。ここの仮設に入ってここの若い人たち、お母さんたちは、流れても畑なんかはあるから、車で通って畑作ってる。だからね、今寒くなったけども、私がこの辺うろうろしてるとね、みんな帰ってきて、「あ、ピーマンあげるー」って。で、もらう。だからもう本当に有難い。みんな同じ部落にいたから、「おう!」って。うち誰も畑作ってる人いないから、みなさん持ってくるんですよねー。
ほんっとに有難いの。何かあればね、お互い助け合ってさ。
だからね、知らないとこへ行きたくないのよ。土地買ってどっかへ行くかーって話もあったけど、私はここがいいなぁって。