負けない子供に育ってほしい

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周りの目があるから(子どもたちは)安全なのかなって思う。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.0151207, 141.6294866
Location(text)
岩手県陸前高田市田束地区
Latitude
39.0151207
Longitude
141.6294866
Location
39.0151207,141.6294866
Media Creator Username
Interviewee: 吉田恵さん, Interviewer: 葉山大樹
Language
Japanese
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Japanese Title
負けない子供に育ってほしい
Japanese Description
周りの目があるから(子どもたちは)安全なのかなって思う。

吉田恵と言います。

吉田恵(よしだめぐみ)と言います。昭和54年5月5日生まれの32歳です。夫と小学校2年生の息子と5歳の娘がいます。あと、夫の父と母の6人家族です。地方公務員をしてまして、長部(おさべ)保育所で保育士として勤めています。

生い立ち

地元は高田松原です。高田町の松原地区ですね。父と母は地元のス―パーに勤めてたんですけど、それがなくなってから別の仕事をしてました。今、父は葬儀屋さん、母はデイサービスの方に勤めさせてもらってますね。兄弟が4人なんですけど、兄が東京の方にいます。震災の時は何度もこちらに足を運んでくれて物資を持ってきてくれました。弟が双子なんですけど、仙台にいた弟は帰ってきて、祖父母についていてくれて、もう一人の弟は東京の方にいます。

小さい頃は幼馴染と一緒に近くの公園で遊んだりしてました。その子とは会う度に、海行ったり、松原歩いたりしていました。楽しいことも嫌なことも色々あったんでしょうけど、おっきくなっちゃうと悪いことが良い思い出みたいな感じになりますね。

学校は高田小学校、高田一中、高田高校なので、ずっと高田。中学の頃は吹奏楽をしていました。ホルンとトランペットをやってました。高校は別なのをしようかなって、演劇部と生徒会の執行部の方を一生懸命しました。生徒会報っていうお手紙を出したりしました。定期的なのか、顧問の先生のきまぐれかは分からないですけどね。

保育士になったのは‥

小学校入る前に高田保育所ってとこに行ってまして。その時に担任してもらっていてお世話になった先生と今一緒に仕事しているんです。その先生が好きだったので、保育所の先生になるって思ってました。高校入っている時は福祉職に就きたいっていうのもあって、福祉学科の方行ったんです。高校卒業した後に会津大学短期大学部っていう所の社会福祉学科に入りました。短大時代は、吹奏楽の他にも色々なサークル活動もして、ボランティアもしたし、そうじゃなくて飲み会ばっかりみたいなのもしたし。短大で2年間勉強して、それから市役所に入職しました。

仕事をしていて良いところは、子供の成長が見られて、それに関われるところ。貴重な体験ですね。子供の成長が著しい時に関われるありがたさと、成長を見られる嬉しさもあります。行き詰まることもあるんですけど、すごく楽しい仕事だと思うし、勉強になります。日々子供からパワーをもらいますね。今の仕事をこれからも続けていければ嬉しいですね。

震災があって今、いろんな方に助けていただいて、仕事をしていて特に困ることはないですね。困らないって言ったら嘘だけど、満ち足りてるまではいかないけど、もっとこうだったらいいなとか、こうなればいいなとかはありますけど。今すぐこれがなきゃどうにもなりませんっていうのはないですね。

震災の時

私自身、震災後1週間くらい家族に会えなかったので、子供たちがどういう気持ちになっていたかとかは分からないんです。1週間経ってやっと家族に会えた感じです。道路が通れる状態でなかったのと、保育所でお預かりしているお子さんがいたので保育所の方で寝泊まりしました。落ち着いてからやっと帰ってこれたという状態でした。

長部保育所で被災して、最初、すぐそばの小学校から避難して上がってきて、そうこうしているうちに家が流されたり、津波がそばまで来て、ここは危険だなと感じた地区の人が保育所に避難してきて。保育所のホールに避難してきた時に、「家にあった米持ってきたから」とか「井戸あるから水汲んできた」とか言って下さる方がいて。そういう助け合いがね。

「保育所に人が集まってるって聞いたから、家に野菜あっから獲りさ来て良いよ」とか言ってくれて本当に助かりましたし。でも、なんかそうやって頑張った人が2、3日後に倒れてヘリで運ばれて今も病院に入院していたりすると、頑張り過ぎたのかなって申し訳なく思います。危機的状況の時ってまず自分のこと考えちゃうのに、自分の家にあるものどんどん出してくれて、さらに「何か足りないものがあるか?」って聞けるような地域ってすごいなーって思う。全部が全部そういう良いことだけじゃないんだけど、やっぱ皆でやった方が良いのかなって。人のあったかい気持ちはありがたいなって思いましたし。相手は求めてないんだけど、これをどうやって返せばいいって、なんか申し訳ない気持ちもあったりします。この震災があって人の繋がりって大事だなって、すごく思いました。

あと、日本人熱いなーって。いろんなとこから支援いただいて、こんなに、こんなにってくらい助けてもらって、日本すごいって思った。良いとこしか見えてない自分が幸せだなって思いながら、粗探ししたら色々出てくるんだけど、前に進んで行くには感謝の気持ちと、前向きな気持ちにならないと無理だと思うし。

私たち自身も、ボランティアまでは出来ないけど、何かしらで活動しなきゃねって思います。昨日とかもバスで来て、がれき片付けてくれた方々もいました。ほんとありがたい気持ちと申し訳ない気持ちです。自分にやれることやるしかないので。

震災後の暮らし―避難所そして仮設住宅―

ご飯とかは、一緒に避難所にいるお母さんたちが当番で朝ごはんも夕ごはんもやってくださったので。でもまだ電気がなかったので、夕ごはんは17時半とかすごく早い時間でした。私はその時間は帰って来られなかったから。帰ってくればもう20時とか21時とかで。もう消灯時間で、静かに入らなければという状態でした。

どうしても仮設住宅って一人になる時間を作るのが難しくて、皆で台所たったら動けないし。6人家族なので、初めに3Kっていって3部屋ある部屋に入ったんですけど、ちょっと狭くて無理だろうってなって。親世帯と私たちと分けて仮設をお借りすることが出来ました。ちょっとしたスペースなのに洗濯機もあって冷蔵庫もあって流し台もあって。

生活に関しては、野菜とかお米とか色々な支援をいただいて、私がご飯を作れる時は作ったり、作れない時はばあちゃんに作ってもらったり。大きい仮設住宅の集まりだから、炊き出しとか次々に色んなお話があるので助けてもらいました。買い物はモビリア(仮設住宅のある元キャンプ場)に売店があったり、ちょっと降りていけば仮設のイオンがあるし。前の生活みたいに、夜、何か食べたいって思ってコンビニ行くことは出来ないけど、全然なるようになるんだなって。次々とお店も出店されているし。ほんと最初のころと比べればとても良くなっています。

陸前高田は

高田は良いところです。自分自身ここで育ったので、高田から出たことない人から言わせると、「ここはお店とか遊ぶとことか、何もないから嫌だ」って言われるんですけど、山もあるし海もある、空気も淀んでないし、良いとこだなーって思ってます。

あと、周りの目があるから安全なのかなって思う。よく色んな人から見られていて、子供たちが何もない田んぼ道をてくてく歩いているだけで、「今日も子供たち歩いてたぞー」みたいな。ほんと周りの目があって、子供たちはのびのび遊べて良いとこだなと思います。

でも、もうちょっと家の周りに友達がいてもいいかなって思います。遊ぶにしてもどこに住んでる子まで誘おうみたいな。良くも悪くも近所にあまり子供がいないですね。小学校は全体で100人はいないです。今度入る1年生は5人とか。本当に深刻な感じになってて。のびのび一人ひとりができるのは良いんだけど、それにしてももうちょっと仲間がいてもいいのかなってありますね。

郷土芸能―剣舞―

ここ田束(たつがね)に、剣舞(けんまい)っていう郷土芸能があるんですね。それを夫も小さい頃からずっと踊っているので。こういうものは残してほしいって気持ちもありますね。ずっとずっと続いて、踊っているので。高学年の子供たちも小学校で運動会の時とかに踊ったりとかもするので。息子にもそれを繋げてほしいかなって気持ちもあったりします。年1回の盆踊りの時、この地区の小学生は皆で踊るので。そういうのも大事にしたいし。子供が成長していって、嫌だなって思う時期もきっと来るんだろうけど、続けていくことで良かったなって気持ちは生まれるのかなって思うし、そういうのって続けていく人がいないと続かないから。

夫自身も今でも何かあれば、都合がつく限り、剣舞に関わってますし。親から直接教えるような感じではないんですけど、地元に残った人が大人になって関わっていければ良いと思います。上手くできないところを少し教えたりしながら。ぜひ残してほしいですね。

地域のつながり

顔を見れば挨拶とか、元気?とか風邪ひいてない?とか、そういう話はしたりします。元からのコミュニティでもあったと思うんです。でも、避難所での生活でより仲良くなったのかなっていうのもあります。

私の事を言えば、日中は仕事に行ってて家にいないわけで、週末とかも出かけたりしていないし。本当に関わる機会が少なかったというか、自分から関わらなかったというのもありますけど。

この地域ですごいなって思ったのが、同世代のお母さんたちが公民館に集まって、年に1回、飲み会みたいのがあるんです。10人位集まりますね。私が嫁に来たのが20代で、20代から40代までのお母さんたちが集まってやるんです。だからそこは何回か行って、仲良くさせてもらっています。それがあったおかげで、この人はあそこの家の誰だみたいのが分かったり。

負けない子供

震災後、子供たちの気持ちをちょっとでも発散させたかったし、震災の現状から離したかったから、結構内陸の方に足を運びました。それでも、内陸行ってるのに、子供が「ここは津波に遭わなかったんだね」って言うのね。それ聞くと、ここは海遠いからねとか言ったり。だからそんな時は地震があったら高いとこ行くんだよって言ってます。いつか忘れちゃうのかもしれないけど、忘れちゃいけないことだから。

これからの学校とかの環境の心配もありますし、メンタルな面での心配もまだまだありますけど、それは自分たち親がいれる時は一緒にいて、いっぱい関わっていくことで安心感を与えるしかないのかなって。まあバタバタはしてるんですけど、それしかできないのかなって思います。

負けない子供。気持ち的に負けない子供になってほしいですね。気持ちで負けちゃうと沈んじゃう。沈むのは簡単ですけど、浮上するのにパワーいるから、それが出来るようになって欲しいですね。今の時点で子どもたちはもちろん、大人でも一人になったらきついんだけど、ほんとにそんくらい強くなって欲しいかなって。

今後の暮らしに対する思い

どうしても今、ちょっとしたことでイライラしたりピリピリしたり、自分自身に震災前以上に心の余裕がないことが多く、自分の中で頑張り過ぎてしまう所がどうしてもあって。だからもう少し心にゆとりを持って、上手く家族とも話しながら生活出来ていけばいいんだろうなって。

後は家をどこに建てるかとか。これからのライフプランとか見えてくれば違うのかなとは思いますけど。長い年月かかると思います。高台移転をするかとか、場所はどこに移転するかとか、今は色々と話し合っている状態です。これから集まって話をして。出来ることなら近所の人と一緒にと個人的には思いますけど。せっかくつながりがあるんだからっていう気持ちはありますけどね。家族それぞれの思いがありますから、難しいですね。

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