小説が書ける私の話
私は吉田アヤ子(よしだあやこ)。実家は石巻の矢本っていうとこ。石巻には兄弟がいるのね。生まれは昭和11年3月15日、今77歳だよ。今は孫と仮設に2人暮らししてるの。
私の旦那さまね、62歳で亡くなったの。あれから20年くらいになるもの。自分で選んで嫁さ行った人だから良い人だったよ、ほんとに優しくてね。日産農林とか大船渡安定所(市役所)とかで勤めてたね。私の娘、息子たちはね、みんな遠くにいるの。私の娘は今40なんぼで、和歌山さ嫁に行ってる。息子が2人いるんだけども、次男は青森の弘前でお婿さんに行ったの。あと50何歳の長男が茨城に出稼ぎに何十年と行ってんの。津波ん時ドームのとこに泊まったりして、津波上がりの家を片付けたり手伝ったのね。今の仮設に電話は引いてあるけど、節約のために使わねことにしてる。子どもたちはそれを分かってるんだ。だから私は手紙来んの待ってるの。
あと孫が3人いんの。今私と住んでる孫はね、長男の息子で学っていうの。その孫がね、ばあちゃん、ばあちゃんて離れないの。ほんとに私、大事にされるよ。この子のお母さんが年子にお産したから、学は私が抱いたり、寝せたり、おむつとっかえたりしたの。なんぼも離れないから私が育てたの。この子の部活が野球だったからねぇ、スパイクっていうのかな、靴も何もね、裏も泥が刺さったりしたよ。一足しかねえんだもの、大変だったよ。それでも年金もらったりすると新しいの買ってあげたりしてね。でも反抗期なんてもなかったし良い子だよ。まあ、反抗期があったらお母さんとこさぶんだくってやるけどね。4年生からずーっと育てて23歳さなったんだもんね。
私は小さいころから苦労したんだよ。私の話聞くとみんな泣いてしまうんだもの。小説書けんだよ、ほんとにね。私は小さい時北海道にいたの。父親が大工だからね、弟子いっぱい連れて北海道さ行ってたの。私のお父さんはね、元々、陸前高田の廣田(ひろた)の長洞(ながほら)ってとこの人なの。おふくろは宮城県の人だけど、むこうさ落ち着いたんだよね、家も建てたから。
私が3人姉妹の長女なんだけど、私がまだ8歳ん時、一番下のちいちゃいのが生まれて母親が亡くなったの。だから父親が実家の廣田さ来たの。それで私、おばあさんおじいさんに育てられたのね。厳しいじいちゃんばあちゃんでね。おじいさんも腕のいい人だから大工さんいっぱい使ってたよ。
お父さんは私が6年生のとき宮城県の女川から後のお母さんもらったの。そしたあと宮城県さお父さんと一緒に行って、矢本さ家を立てた。そのあと私、中学3年に石巻の中学校卒業したの。そんで定時制に行くべと思ってたけっとも、お金がかかるから継母に追い出されてね。だから友達のとこさ一晩泊って、お金を借りてね、そして廣田の長洞のじいさんばあさんのとこさ逃げて来たの。じいさんばあさんとこさは1ヵ月くらいいたかなあ。そのあと高田一大きな大きな呉服店さ奉公に来たの、女中だべな。そこさ3、4年いたかなあ。女中さんだもの、学校さも行かないよ。そこさ住みっぱなし、それに行くとこないもの。そしたら呉服店にじいさんが迎えに来てね、今度は小友町(おともちょう)の森崎ってとこさ、女中としてよこされたの。子守してたのね。そしたらね、私が23歳の時かな、6歳違う後の私の旦那さまになる人と縁があって、お互い好きになってね、同じ森崎ってとこにお嫁さんにもらえたの。こんな話してっとほんと顔赤くなっちまう。その頃おら、めんこかったんだよ、ぽちゃぽちゃーっとしてね。でも苦労ばっかだからね。結婚して女中やめてからもね、お姑さんの世話せんなんねから一生懸命勤めたんだもの。
津波と再会
私ねえ、3月11日は高田の市民会館さ確定申告に行ったんだよ。あそこは高田松原が近いんだから海の近くなんだべねえ。毎年確定申告は3月の11日行くように決めてたんだけど、受付で呼ばれんのは順番だから、朝早くに行ったの。そしたっけね、申告終わりましたよって早く呼ばれたの。それなら早く家さ帰った方がいいから、おかずをいっぱい買って3時なんぼの下りの汽車で家さ帰っぺと思ってね、高田の駅さ来たの。
駅さ来たらすごい揺れて、すごいんだから。そしてタクシーの運転手さんさ言ったの、運転手さんあの、小友まで帰って行きてえんだけっどもって。したっけ、ああ、いいから、ほら、乗らせ乗らせって言ってくれて、でももう私たまげちまってたから、そのとき買ったおかずも財布入った鞄(がばん)も駅ん中さ置いて来てしまってね。車さ乗ってか運転手さんが、お客さんお客さん、駅の中さある荷物、おたくさんのって教えてくれるまで気づかなかったの。
そんで車で家さ帰ってきたらね、すごい波がもう…。まさか大きな津波が来るとは思ってねかった。大きな地震程度だと思ったから。その後ね、隣の人を誘って逃げたの。周りの家の人はもう逃げてしまっていたの、隣の辺りの人もいなかったの。ほんで下の方の家さ行ったっけね、車さ3人乗っていらったの。どこさ行ってきらったの、って聞かれて確定申告に行ってきたって言ったら、ほれほれ、乗れって言うから、近所の人の車さ乗ったのね。車さ乗ったっけね、下の方から「なに車さ乗ってんの、今津波が来たから逃げろ」って言われてね、だから夢中になって高台さ逃げたんだ。逃げる途中にこう振り返ったらば、辺りの部落の家がね、全部の家が流れてくのを見てしまったんだもの。まさかこっちまで流れっと思わねぇからね。
避難場所はここ、モビリアだったの。そっちからこっちから皆寄ってここさ車でみな来たの。でも安心はしたったよ。体弱い人と年寄りがそこさ入れられて、私もドームにいたったの。あと他の人はセンターにいたね。その時もうねえ、雪は降ってくるし寒いし、食べんのはねえし腹は減るし、まあいろんな体験したねえ。でも立派な布団あってねえ、毛布も1人1枚あって。夜も布団で寝たけっど、いろいろ考えて寝らんねんだっけね。だって家がねえんだもの。その後しばらくしてから私の家は全壊。でもあともう一軒、廣間の長屋は屋根と柱はなんとかあったから、大丈夫だった長屋の2階の押し入れから毛布5枚持ってきたの。布団から敷布団なんかも。服はドームとかにあったのを着たね。あとはみんな助け合ってね。
ここの高台からは高田町が丸っこで見えたんだ。でもね、23歳になる孫が4日経っても5日目の朝になっても帰ってこねえの。全然連絡ねくなってしまったの。孫が仕事に行く通り道がちょうど高田の方にあったからね、心配で。高田の方を見てた時ある人が、ばあさん何見てたのって聞いてきたの。だって孫5日も来ねから高田の方見てたって言ったら、ばあさんね、孫5日も連絡ねえってことはもう流されたんだって言われたの。そしたら居ても立ってもいらんなくてね、我が家の方さ下がってきたの。そしたら、後ろから「ばあちゃーん」って、5日目の朝になってやっと。それで二人で抱き合って泣いたの。今はもう涙も何も出ない。孫は家さ帰って来っぺと思ったっけね、道路壊れたり波が入ったりしてっから、警察の人がいっぱいいてストップかけられて、家さ帰ってこれなくなったんだと。ばあちゃんがドームにいると思ったから、店長さんに持ってけって言われた弁当から飲み物からいっぱい持ってドームさ上がってドア開けたんだ。そしたら、おーい学くん、来たのかってみんな喜んでくれて万歳したんだって。でもばあちゃんいねえから見さ下がって我が家に来た、って。抱き合ってさんざん泣いたもの、一生忘れらんになあ。
津波ん時はね、おらなの(私なんて)死んだ方いがったなあと思ったよ。孫は若いから今からどうにでもなるし、ドームにいた時はコロンと転ぶほど痩せてしまったし。だけどね、孫があんまり優しいから生きて頑張んなくてはと思ってね。
残った傷跡と日常の幸せ
その後はね、ボランティアの人が来てくれてね、いかったよ。3月18日に来たときなんかね、パンだのジュースだの持ってきてくれて泣いて頭下げたよ。外人の人もいたっけね。冷蔵庫1人で担いで行ったんだよ。どうもって頭さげたらぽけーっとしてて、よその人はさんきゅ、さんきゅってこうやって言ってたけどね。あとボランティアの人と写真撮ったりしたね。ほんとにありがたかったよ、瓦礫とかもしっかり片づけてくれんだもんね。
だけっどあれだねえ、今寒くなってから部屋さ居っと思い出すね、布団から座布団から着物から何から全部みな苦労して。それはうちだけでねえけど、ここさ来て泣くこともあったよ。お父さんが買ってくれた娘の成人式の着物もねぇ、娘が家出るとき、母ちゃん家さ置いてくって置いてったの。それもみな全部駄目になってしまった。いまはもう諦めたけどね。それでもおっきいじいちゃんとばあちゃんと旦那の写真は見つけたの。津波の後に探した探した。ゴミん中こうして、泥もこうしたら入ってたのね。じいさんとばあさんの並んでたよ。お父さんのは誰かに踏まれたんだろうね、でも写真屋さ持って行ってきれいに直してもらった。でね今は孫の部屋さ飾ってあんの。
私は癌を2回胃手術したりしてから11キロやせたけど、今だいぶいいよ。今ではアヤ子さんは少ししわっこ(顔のしわが)減ってきたって言われるもの。食べ物も時々来るし、米は最初もらってたけどこの頃買って食べてるしね。仮設さ来てから少し食べるし、なにより好きなの作って食べるからね。今は孫が仕事行くのが朝5時か遅くて8時だらか、ご飯準備したりして、4時半ころ帰ってくると、ばあちゃん帰ってきたよーって言うの。布団が冷たいから湯たんぽ入れて、ばあさんも湯たんぽ、孫も湯たんぽってね。電気はなるべく節約すっぺって。仮設住宅の玄関は二重扉になってっけどまだ寒いね。吹き込むってことは全然ないけどね、下の方が寒いんだ。前にストーブも来たけど、ここの仮設を出てくとき返すっていうからそのまま箱さ入れてまだ使ってないんだ。けど寒くなったらどうなっか分かんねな。節約も大事だけっど体も大事だかんね。
仮設では近所の人とも友達さなってるよ。お互いにいろいろ経験してるしね、良い人に恵まれたからから。私の所はにぎやかだよ。80歳もいれば90歳もいる。90何歳のばあちゃんと毎日編み物したり縫物したりね。そんで節のもの来るから、店から野菜だのタケノコだのフキだの買ってって、鍋さひとつ煮て、あと周りさお裾分けしたりね。そうすっと、あっちからもらってたからって、こっちからかぼちゃあげたりとかして仲良くするようになってるから。それに知らない人でも、まあ最初はあの人は言葉かけないなあ、ずいぶん不愛想な人だなあって思うの。でもねそういう人でもね、こっちの方で言葉かけっかなっと思ってね。今日は天気いいね、今日は曇りだから洗濯物干せねぇねって話しかけたらお互い言葉かけるようになったよ。「吉田さん今晩のおかず何?」「マグロの刺身だぁ」「よく飽きねえこと」、って笑い話して暮らしてるよ。
最近は物資でいうとトラックできて和歌山からミカンも置いて歩く時もある。ありがたいよ。こんなにいろいろな物資もらうと思わねかったもの、ありがてかったよ。もう着るものなど、部屋さ帰っと箱さいっぱい入ってんもの。それでもね、ボランティアの人とか仮設で何か足りないものありますかって、聞くんだ。だからその時は、そりゃ足りないものありますよ、これ(手で「お金」のジェスチャー)ですって言ってやると大笑いするんだ。あ、これですかあって。お巡りさん来た時もね、これが欲しいですって言ったら、ああそれはねえってみんなして大笑いすんだ。ばあちゃんそんな、なんだかって言わねんだよって孫に言われっけっど、いいべした、人のことなんだかって悪口言う訳でねえんだからってね。だって人を笑わせんだからねえ。
孫とともに
私は石巻の矢本で中学校卒業してこっちさ来て、それから苦労だらけだ。母親がいねぇからね。母親がいなくて苦労して、そしたら今度はお嫁さん時代に苦労して、今度は津波で苦労して…。今回の津波で家は全壊だし、廣間の長屋もまだ10何年くらいしか経ってねかったから新しかったんだ。本宅も30年くらい経ってねぇなぁ。しかも津波の後、すぐ新しい家建てんのはだめだって言われてね。
いろいろな苦労はしてきた。でもね、考えようです。孫が優しいから、ほんとに優しいんだ。評判がいいんだから。私が好きなもの買ってくるし、あと休みんとき連れてあるかれっから。ばあちゃんどこさ行くーってね。だからここの仮設にはあと1年何ヵ月いて、温かくなって日が長くなったら大工さん頼んで長屋を直して来年、また孫とふたり生活すんの。