悔しいけれど、津波に負けたくない

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(昔は)囲炉裏を囲んで大人の話もよく聞いたりしていました。
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Tokyo Foudation
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岩手県陸前高田市田束地区
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Interviewee: 佐藤ミツ子さん, Interviewer: 須藤佳美
Language
Japanese
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悔しいけれど、津波に負けたくない
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(昔は)囲炉裏を囲んで大人の話もよく聞いたりしていました。

自己紹介

佐藤ミツ子(さとうみつこ)、昭和23年4月22日生まれ、63歳です。陸前高田市米崎町出身です。今は夫の脩二郎と二人暮らしだけど、息子が一人、結婚をして東京にいます。夫は東京の方に気仙大工として出稼ぎをしていました。最近は少し薄れてきているけど、この辺は最近まで出稼ぎの家庭は結構ありました。夫が出稼ぎをやめてから帰ってきたのはたったの4年前でした。

大好きな花の切花栽培

14年前から小さな農家で切花栽培を始めていました。もともとシャクヤクだの牡丹だのツツジだのがいっぱいあるところに育って、庭の花も好きだったので。切花栽培は、ようやく年中出荷出来る様になってきたのかなぁ、っと思っていた頃の天災大津波。どうしようもない。

花は1年中、トルコキキョウやキンセンカとかいろいろな種類を育てていました。お彼岸とかお盆、あと、お正月が大切な出荷の時期です。それを逆算して、種を蒔いて開花の時期を調節して花を咲かせるのが腕の見せ所です。ちょうどよく咲くようにできたっていうのが自分でもすごくうれしく思う。だから「おお、凄いな」って誰か一人でも言われたら嬉しかったです。

震災当時は3月のお彼岸用にとキンセンカ、スターチス、フリ―ジアが咲き揃って見頃でした。ハウスは2つ持ってたんだけど、ハウスも家もみんな津波に流されてしまった。出荷の時だったからガッカリでした。でも、天災だから何もね。また、再建出来ましたならば、高田松原採れたてランド直売所とリプル直売所とで出荷できる様、努力して行きます。

津波のその時、おっかなかった

津波は3月、今は12月。家も何もかにも全部無くなって。生きていくには、前向きな考えを思って「津波なんかに負けたくない」と、悔しいけれど、そんな風に思いました。

モビリアの仮設住宅には6月20日に入居できました。森崎地区は13件全員が揃っての入居です。大変良い事だと思います。だから以外に元気。でも、やっぱり寝ても起きても、「おっかなかった」気持ちが忘れられません。真黒な海水と向かいの山の高さ程の大きな大きな水柱と音のうねり。

私のいた田束部落の森崎地区は北南が海に挟まれていて、北は車で2、3分、南は5分行くと海が見えるって場所に私の家がありました。だけれども、誰も津波が来るとは思わなかったでしょう。わりかし小高の場所の我が家も流失してしまった。なにせ普段は海が見えない場所なので、何とも理解が出来ませんでした。

嫁に行くときは津波の遭わないところに

子どもの頃は海のそばの米崎町で育ちました。昭和35年のチリ地震津波にも遭っています。その時は小学6年生で「嫁に行くならば、絶対津波に遭わないところに行きたい」と思いました。嫁ぎ先の私の家がまさか、こんな大きな津波に遭うと思ったことはなかったです。まさかの大津波の被害に2回遭ってしまいました。

チリ地震津波は昭和35年5月24日。だから夜明けが早くて、まだ寝てた時でした。お網人って網仕事で漁師さんが、明け方3時ごろに船を出す時に波の変化を感じて、それで「津波が来るぞー」ってみんなに教えてくれて。「波が引けてくんだ」っと。だから私たちも一回海に行ってみたら沖の方まで波が引いてしまってた。それで、「子どもだの女の人だの高い所に逃げろ」って言われて、ばぁちゃんだの親だのって高い所に避難したね。その時は波がチリから来たんだから地震がありませんでした。今回の津波に比べて被害が小さかったです。でも地震っていえば津波を体験してるからおっかない感じがします。

半農半漁とお手伝い

私が子どもの頃は、じいちゃんと両親、兄弟は6人いて私はその3番目。兄弟みんなで親の手伝いをしながら学校に行ったものです。同じような家庭は近所にいっぱいましたね。その頃は私の家も近所も半農半漁といって、貧しくても海の物や山の恵みなど色々ありましたが、1年中、毎日を忙しくしていました。私の家では米や麦、リンゴを作っていました。あと、海苔養殖もやっていましたね。どこの家でも親の手伝いは子供達もみんな学校に行く前にしていました。学校から帰っても手伝い。それは当然のこと。だいたい子供は遊びたいからサッサと手伝って、その後は外で暗くなるまで遊んでいました。テレビもない時代でしたから。今では聞くことの無い言葉ですが、面倒見の良いガキ大将のお兄さんがいたりして、とても親も安心していたと思います。

子どもの頃の生活

家の中は囲炉裏を囲んで大人の話もよく聞いたりしていました。昔は囲炉裏で鉄瓶のお湯を沸かしてお茶をいれて。お客さん来ればここ、お父さんとお母さんはここって場所も決まっていた。だから囲炉裏のそばが話を語る場所だった。それから、子どものおやつといってもお菓子が今のようにたくさんはありません。餅でも団子でもいっぱい作るからその時は鍋いっぱいに作って。ばっかり喰いしたものです。私なんかはお腹が減ればよその家に行って、よく勝手に食べていました。みんなそうしてそうだもの。だからどこに行っても怒られなかった。私達が育った時は「おうよ」って自分の子どもも、人の子どもも分け隔てなく食べなさいって。時にはお互い様でしたよね。

この頃は貧乏と金持ちって生活ではっきりしていたから頑張れる人、努力した人はいい生活が出来て羨ましく思いました。我が家は貧乏の子沢山でした。でも、いっぱい遊べて楽しかったです。

全員無事に避難。だけども…

私達、森崎地区は高台に神社があって、そこが避難場所でした。そしてこれまで年に一回の避難訓練を行っていました。今回3月11日は地震が大きかったから一応みなさんは神社に集合。日中ということもあって、地区内に居たみなさんは全員無事に避難が出来ました。

高台から見ていた津波は、みるみるうちに黒い水の水位が高まり、何が何だか。悪夢でした。まさかこの地区には本当に津波が来るとは誰も思っていませんでした。だから私の家も車も流されてしまった。時間に余裕はあったんだけど車も庭に置いて流してしまった。子供の頃から位牌だけは持って逃げるように聞かされてきたけど…。残念、ガッカリだけども、昔から津波で命さえあれば何とかなると聞かされていたので避難しました。でも、この年で頑張るしかないのかと思いましたね。

田束地区が結束して救援に

森崎地区のみなさんと津波が引いた後の瓦礫だらけの道路や普段は通らないような山道の藪の中を一歩一歩、木にすがったり、谷を下ったり。やっとたどり着いた避難所が今いるオートキャンプ場モビリアです。私達の地区の中に建てられていますが山の中腹でしたので津波の被害はありませんでした。

私達の地区は大部落を田束地区と言い、他に中里部落、沢辺地区、小屋敷地区、塩谷地区、森崎地区と全部で5部落があります。その中に高台の場所のお宅とあって、津波に遭わない地区が2地区。そして、この津波の事態が地区を1つ結束となって私達被災者を救援して頂きました。本当に本当に誰からともなく、地区の皆さん一人ひとりに助けられました。

おにぎりとお風呂

3月11日の夕方、中里部落のお父さんお母さんたちが大きな大きなおにぎりの炊き出しをしてくれて、100個も作って来てくれました。「あぁ、これで生き残れる」と、とても感謝しました。不思議な感じでしたね。こんなおにぎりが美味しく、ありがたく思ったことはこれまでにありませんでした。今コンビニに行ったら物があるけど、コンビニもない地区です。それから寒い寒いこの時期です。夜に布団、毛布が近所から届けられました。

次の日からは味噌汁と大きな大きなおにぎり130個ほどで。1日2回を続けて届けて頂きました。それからある日、あるお孫さんがお誕生日だからと、同級生の若いお母さんからでしょうか、おにぎりをパンダ模様にしたこともありました。丸いおにぎり、三角おにぎり、豆おにぎり、そして海苔でパンダさんおにぎりを、ソーセージでカニさんおにぎりを作りました。その時は、本当にみんなで手を叩いて歓声を上げたことを覚えています。

津波から3日後、お椀も無いから地区のみなさんからいただき、箸も無いので山の木を切って箸にしました。ガソリンもないので、車ではなく、リヤカーで上り坂をひいて届けていただき、なんとも頭の下がることでした。大きな大きな力を頂きました。

3月20日ぐらいになると、物資も多く届くようになり、炊き出しも終了しました。炊き出しをしてくださった皆さんによるお風呂サービスに代わって、入浴が出来る様になりました。「物資で間に合いますから、ちょっと休んでください」って言ったら、「じゃ、今度はお風呂に入りに来てください」って声をかけてくださって。昼間にお湯を沸かしてお風呂まで世話をしていただき、本当に生きているのだと感じました。

自衛隊からの物資が届くまでは、地区のみなさんから多くの食べ物とお風呂入浴の薪も惜しまず焚いて頂きました。そして大切な事。病院に通院しても薬も無く、飲むことが出来ない方が結構何人もいまして。津波から3日目からは地区の若いおとうさん方がガソリンも乏しい所、交代で病院から病院へと回って薬を手にし、まずはホッとしたりして。感謝です。

家が津波に遭った遭わないにかかわらず、身内も悲しいことが誰の身にも突き刺さっていましたが、私達、被災者は田束地区のみなさんには自分事の様に一生懸命優しくして頂きました。

責任を持つのは辛かった

津波が去った後もとても辛く、長い長い3ヵ月でした。3月11日の津波から3日目に、避難所の炊事班の世話役として伝えられ、これまたビックリ。何の経験も知識も無く、困ってしまいました。なにせこの惨事ですから誰だって自分の事でいっぱいいっぱい。これからどうやって生活をしていけばいいのやらわかりません。でも、「皆さんで一緒にやりましょう」って言いましたら、「はい」っと、返事が出たのでやるしかないと思い、共に苦しみ、悩み、辛い辛い3ヵ月間。雨の日も、風の日も、1日3食、一番多い時で150食分の準備をしました。メニューはごはん、味噌汁、おかずを2品ぐらい作りましたし、物資のカレーや、缶詰、色々皆さんが考えて子どもさん用とか年配さん用とかぐらいに分けて毎日の中でアイディアを出しながらやってきました。

炊事班と言ってもトイレ、避難所の寝起きした所、炊事場、自宅待機者を含むとすると300人分の物資の仕分け、その他色々。かなりのゴミ片付けと焼却。物資はパソコンで自衛隊に注文でしたので、若いお母さんにお願いしました。本当にわからない事だらけでした。誰に言われるでもなく、それぞれの得意分野を発揮し、強力なみなさんに大変助けられました。

避難して1ヵ月ぐらいして、これらを何人かずつ組を作ってローテーションで回ることにしてから、いくらか一人一人の時間が取れる様になりました。でも、田束地区全員でのローテーションのはずでしたが、無理は出来ない家族、身内、友人、毎日毎日捜索等。心配やらと仕事に戻ったり、人手が手薄になってしまって、結局13人ぐらいでのローテーション。とてもとても大変で苦しく、無我夢中でした。田束地区の一人一人、みなさん本当にお世話様でした。感謝しております。

そして世界中から、日本中のみなさんからご支援頂きました事、深く感謝申し上げます。心から強く思いました。

落ち着ける我が家を建てたい

仮設は凄くありがたいです。だけども、落ち着く場所ではありません。私の家は津波に流されてしまったけれど、ちょっとした小屋が残りました。そこで薪ストーブを焚いたり、水道や電気を引っ張ったりして。昼間にはお弁当持って行ってます。洗濯物も持ってそこで干して。それから畑にも野菜蒔いたり。やっぱりそこにいると近くはみんな津波でやられた場所。だけれども、遠くに目線をやると見慣れた景色が見えます。今寒いからストーブなんか焚いてると、私達昼間ずっとそこにいると思うから誰かが訪ねてきます。そうすると「あぁここいいなぁ」ってゆっくりしていきます。笑ったり何したりして話語りできるからお互い良いんだと思います。

私は仮設住宅でじっとしていられません。ここが嫌ではなく、やることがいっぱいあってね。いつになるやら、我が家の再建とビニールハウスの再建を願いつつの毎日です。

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